伊能忠敬は下総国佐原村の名主であったが、五十歳で家督を譲って江戸に出て、幕府天文方の高橋至時に天文学や測量術を学んだ後
、寛政十二年(1800年)
に幕府の命を受けて蝦夷地の東南海岸より測量に着手し、以後18年間の生涯、日本各地の沿岸実測に従事し、「大日本沿海実測図」を作成した。完成したのは彼の死後の1821年であった。この地図を一般に伊能という。
 伊能図は国防上の見地から秘図とされ、公開されなかった。そのため1826年にはシーボルトに伊能図を渡したことから、天文方高橋景保が罪に問われ、シーボルトも国外追放となる事件も起きた。         
伊能忠敬画像 佐原市所蔵

大日本沿海実測図(伊能図)

象限儀とその原理(右)

  忠敬の測量は道線法と呼ばれる多角測量である。これは一
 地点から次の地点へ次々と方位と距離を測る方法で、それに
 交会法や天文測量を加えて、諸地点の位置を修正して精度の
 確保に努めた。天文及び量地測量により忠敬の求めた子午線
 1°の長さは110,749m、緯度
35°における平行圏1°の
 長さは90,720mであって、今日の数値110,920m、91,2
 77mと比べてみてわずかの差にすぎない。測量に当っては彼
 の新工夫を加えた象限儀方位盤間縄(鉄製チェーン)等が
 使用された。
    大中方位盤

                                                         
 伊能図は大・中・小の3種からなり、大図は1/36,000で全国214枚、中図は1/216,000で8枚、小図は1/432,000で3枚からなり、中・小図には経緯線も記入されている。伊能図は地表を球面として扱い、投影法はサンソン図法により、中央径線を京都西三条改暦処跡地に通している。緯度は正確であるが、よい時計が使えなかった当時では経度は測地的計算によったため、やや精度が劣る。また、地形の表現は遠望される山地を鳥瞰図的に描写している。伊能図は当時の欧米先進国の地図に比べてもそれほど劣らず,明治以後も陸地測量部の輯成1/200,000図の基礎として活用された。
伊能忠敬の測量器具。右より半円方位盤と枕先方位盤 佐原市所蔵