北朝鮮の扉
「大韓航空機爆破・金賢姫の日本語」をHPで公開以来、数年ぶりに推敲してみました。
北朝鮮で普通の人々と触れ合った数少ない純日本人が、北朝鮮の人々への思いのたけも込めて
綴ったものです。
しかし、北朝鮮を語るつもりが、結局は、どうしようもないところまで来てしまっている我が愛する祖国日本に
論点が収斂してしまっていました。
北朝鮮の扉の前に佇み、ふと振り返ってみた我が祖国日本・・・。何とも・・・愕然とするものでした。
序章 はじめに
1−1 人間の顔
私に、家内も娘たちも言ったものだ。「北朝鮮に行くようになってから、顔が随分と優しくなった」と。
北朝鮮を一言で表現するなら、こんな言い方もあると思った。
巷で喧伝されている北朝鮮のイメージとは随分と違うが、根は同じなのである。
一緒に仕事をすることになった3人の在日朝鮮商工人たち。彼等を取り巻く在日同胞たちもだが・・・。
是非や善悪といった次元の話では決してないのだが、日本の中に、異質で特殊な世界が厳然として存在することを、改めて実感させられたものだ。
順安飛行場で出迎えてくれた北朝鮮のお役人たち。彼等は対外経済委員会国際合営総会社と外交部の関係者だったが、まるで演じているかのように模範的で、気が利いていて、優しくて、情に溢れた好漢たちだった。
平壌のホテル従業員も、現地商社の関係者も、それは同じだ。私の好きなタイプの人々だったが、それ故に、誰もが少しは特殊に見えてしまうのだった。
しかし、それは、多少の文化の違いなのだと思えば、納得できなくもなかった。
むしろ、北朝鮮の人々よりも、3人の在日朝鮮人のパートナーたちに、より多くの隔たりを感じて当惑したものである。
高温高圧下のマグマ溜まりは、ダイヤモンドやルビーの結晶を生み出すこともあるが、大抵は見掛け倒しの変成岩になってしまうものらしい。
私が通うことになる工場は、ピョンヤンに隣接した平城市にあった。古い校舎を転用したその工場はかなりみすぼらしかった。玄関口で、打ち揃って出迎えてくれた人々のあまりにも素朴な笑顔に出会って、一瞬、私の頭は混乱するのだった。幼い頃の古里の記憶が駆け抜けていった。「懐かしいなあー」。これが、この国の普通の人々に感じた第一印象だった。
昭和20年代の東北の農村。そこで子供の目に映った人々に、彼等はあまりにもよく似ていたのである。それは、単に顔つきや体型などではなく、風土や民族にも通じるような広帯域の共鳴音だった。時空を超えて、我々と同じ普通の人々が、確かに、ここにもいたのである。
1−2 大韓航空機爆破犯・金賢姫の日本語
もう一つ忘れられない顔がある。日本人に成りすまして、大韓航空機を爆破したとされる金賢姫だ。彼女もまた、紛れもない「北の顔」だ。
テレビで、金賢姫のインタビュー番組が流れていた。恩赦で死刑を免れてからの彼女は矢継ぎ早に祖国を告発する本を書き、その本は韓国のみならず日本でも大変な売れ行きを見せていた。いつしか、凶悪犯から一転して悲劇の主人公になってしまっていたのだ。
日本のマスコミにも、彼女はしばしば顔を出すようになっていた。未だに日本の植民地時代を事あるごとに持ち出してはあげつらう恨の国の人々が、何故こんなにもあっさりと彼女を許してしまうのか、私には不思議でならなかった。
彼女が書いたといわれるどの本も、専制君主・金正日に青春を捧げた清楚な乙女の悲劇を軸に綴られている。
自分の少女時代を縷縷と語るくだりがある。ここは、いびつな北朝鮮の社会生活を描写するには、欠かせないサビの部分だ。描写は、驚くほど鮮明だ。まるで、日記を傍らに置いて書き上げたかのように。そして、我々の想像や期待とも、ぴたりと合致する。
それぞれの家庭の内なるところで流れる時間というものは、体制やイデオロギーを越えて共通項という括弧で括られるものだ。しかし、彼女が描くそれは、想像力豊かな詩人が語るように現実感が希薄だった。
金賢姫は日本語で応じていた。何年間も日本人と同居しながら学んだにしては随分とお粗末な日本語だった。私は、彼女の日本語が、韓国なまりの日本語であることを直ぐに察知した。当局は、言葉がその人の真の生い立ちを探る糸口になることを忘れてしまっていたようだ。
さらに奇妙ことに、彼女の福やかな顔からは、韓国の労働者階級の人々を爆殺したことへの後ろめたさも、長い拘束生活からくる精神の荒廃も、微塵も窺い知ることが出来なかった。
1−3 平壌の在日朝鮮人たち
平壌では、多くの在日朝鮮人の姿を見かけたものだ。夥しい数の若者たちだった。歌舞団員、朝鮮大学校の学生、朝鮮高級学校の生徒等が、入れ替わり立ち代りやってくるのである。
朝鮮語を話していても、酷い朝鮮語だったが、彼等はやはり日本の若者に違いなかった。
彼等が、それらしく振舞おうとすればするほど場違いな存在に見えてしまうのである。
平壌市民が投げかける視線も、私と同じようなものだった。彼我の関係は、第三者からの方がよく見えるのである。
楽団演奏で有名な民族食堂で、「貸し切りだ」と断る店側と無理やり交渉して入れてもらったことがあった。中は、多くの在日の若者たちで溢れていた。祖国での研修をつつがなくやり終えて日本に帰る前夜の宴だったのだ。酔いが回ったらしい。二、三の若者が舞台に駆け上がり、歌姫の持つマイクの争奪戦を始めた。
舞台の下からはヤンヤの喝采だ。日本の居酒屋で出会う普通の若者たちの姿が、そこにあった。
彼らの誰もが、この異形の国家とも、毎朝大声で唱える社会主義のお題目とも、すっかり決別してしまったようだ。誰もが豊饒で、華やいでいて、饒舌で、奔放で、嬉々としていて、幸せそうだった。
日本には、在日朝鮮・韓国人が、ほぼ百人に一人の割合で居住している。日常的に北朝鮮と関わっている人々も多くいると聞く。過去からずっと、両国間には大道が通じているのだ。それなのに、彼我の間には、踏み越えがたい大きなギャップが存在したままだ。
北朝鮮の物不足の情報は、マスコミを通じて、毎日のように日本人の耳目にも届いていた。それに対し、御用学者や彼の国に利権を持つ政財界人が仕掛けた「人道的援助」なるものは幾度かあったものの、肝心の一般国民の間からは、寄付だとか献金だとかの声が、ただの一度もあがったことはなかった。
このことは、北朝鮮の顔であり、広告塔でもある在日同胞たちの特殊性をも示してはいないのだろうか?
北朝鮮の人々の精神生活は、我々のそれが遥かに及ばぬほど、充実しているようにも見えた。しかし、その一方では、古き良き時代の残照に、ただ呆然と浸っているだけのようでもあった。
古びて、良き姿にも見える建築物。その壁面の至るところに貼られた絶叫調のプロパガンダ。「偉大なる領導者金日成同志・・・・・・」。「三大革命・・・・・・思想、文化、技術」。「速度戦!前へ!」。
辻辻に、そして広場にも、天をも見下すようにそびえる巨大彫刻群。至る所に氾濫する紙芝居風の肖像画。
その集団がその集団であり続けるためには、何とも涙ぐましくも、滑稽で、無益な営みが必要なことか。
統治する側とされる側が、収奪する側とされる側が、同じ人間同志である限り、全てを超越した存在が必要となる。そして、それが神をも超えたとき、その集団は狂気へと雪崩れ込む。
人間の集団というものは、何とも厄介なものなのである。
1−4 金タグリ
在日朝鮮商工人のパートナーたちと決裂して、北朝鮮で電子部品を生産するという私の夢は、道半ばで挫折してしまった。
「金タグリに行くから待ってろ。テメー!詐欺師か、このヤロー!」。貸し金業を営む「河」からだった。彼からの執拗な脅かしの電話は暫く続いた。生産が軌道に乗ったと錯覚し、言いがかりをつけて私をプロジェクトから外そうとしたのだ。
「奥さん知っているのか?あんたがしたことを・・・」。これは、ゴルゴ13並みの射撃の腕前を、はからずも平壌で披露してくれた「鄭」からの電話だった。
たった一人の3ヶ月間にも及ぶ長期滞在が、私の知らない所で組まれていた。現地の事情に疎い私は軽い気持ちで引き受けてしまう。しかし、そこでの暮らしは、まさに、欠乏と飢餓感との戦いだった。物質文明にまみれた異邦人は、1ヶ月も経たないうちに心のバランスを失ってしまう。
そんな時期だ。現地の高官と日本酒の一気飲みをしたあげく泥酔し、その勢いで土産物売り場のアジュマ(おばさん)を口説くという醜態まで演じてしまったのだ。それも、かなり大胆に・・・。
普通なら男女の椿事で治まりもつくはずだったが、不逞の輩はたちまちお上に申告され、この国の体制維持の根幹を支える密告制度の網に絡め捕られそうになったのである。
だが、二週間そこそこで帰っていく当人たちにも、こんなことがあったのだ。
深夜、いきなり案内同務が部屋を尋ねて来て、大声でまくし立てるのだった。「・・・さんが来ていませんか? 何処へ行ったか知らない?(勝手なことをされると)困るよ。お金がたくさんある・・・さんは、外に愛人が何人もいるようだし・・・」。
さしもの北朝鮮当局も、足繁くやって来る在日同胞たちの「シモの問題」に関しては、無力なのだ。我々の口から洩れることで、少しでもブレーキがかかるのを期待したのだろうか?
「あんた、税金はちゃんと払っているんだろうな?」。これもゴルゴ13だった。私へのコンサルタント料は、毎月朝銀経由で振り込まれてきていた。
朝銀といえば、日本における金融、税務の聖域のひとつだ。日本全体を震撼させるような大不祥事が跡を絶たないが、私のような小物にまで恩沢は遍く行き渡っているとでもいうのだろうか?
私が住む地域は、在日朝鮮・韓国人が多かった。朝銀の代表人会議のメンバーでもある「河」は、この地域の朝銀の支店に籍を置いていたこともあった。
朝鮮総連を核とする在日朝鮮商工人のネットワークは強大かつ強力で、彼らの税処理が特別であることは、知る人ぞ知るところだ。彼らと税務当局との「不即不離」の関係が、否応無しに浮かび上がってくる。
私の会社は、年商1千万円にも満たない超零細企業だ。そんな会社に、脅しの電話と期を同じくして、執拗な税務調査が入るなど、どう考えても尋常ではなかった。
小一時間も有れば、素人の私でも、全て頭に入るほどの薄っぺらな元帳だった。その小役人は、何故か午前11時ごろに一人で来て、昼食を当然のように出させて、夕方まで居座るのだった。
1−5 匿名が無効な関係
私の北朝鮮訪問は、1996年2月から翌年の1月まで計4回、滞在日数は延べ150日を超えた。普通の日本人が、北朝鮮という稀有な国の四季を、まさに肌で感じたことになる。
不本意な形で終わらざるを得なかった「私の北朝鮮プロジェクト」を完結させる為にも、その間に見聞きしたことを是非綴っておかねばと思うのである。
私は、ただの技術者だ。一国の社会の仕組みを論評することや、歴史を掘り起こして今を論ずることなどは、身の丈を越えている。だから、極力私見を交えず、その場の光景を出来るだけ忠実に語るようにしたいと思っている。
技術者にとっては、いいデータを集めることも重要な仕事の一つなのだ。そして、そのデータを分析し、新事実を発見するのは、当事者以外でも一向に構わないのである。
独裁、スパイ、テロだとかの特殊事情については、あまりにも多くの本が刊行されていて、正直、うんざりする。私は、今まで少しも見えてこなかった北朝鮮の普通の人々を語りたいと思う。彼らの姿が焙り出されてこそ、日・朝間のあるべき姿も見えてくるはずだからだ。
普通の人々が、ある種の人々を中枢に戴いた時に、その集団が暴走を始めることを、我々日本人は第二次世界大戦に突入した時の体験から知っている。かつて、似たような歴史を経験した日本や日本人の役割は、決して小さくないのだ。
拉致問題にしても、政治的な思惑に翻弄されて痛々しい限りだが、所詮国家間の問題となると初めに国家ありきで、更にその上位に政治がきてしまう。
古今東西、無色透明、公正中立な世論などは存在した験しがないのだが、拉致問題を伝える時のマスコミだって、やはりそれは同じだ。すっかり、商業化してしまったマスコミは、一般大衆に迎合するか権力にへつらうことでしか生き残れなくなってしまっているのだ。
我々普通の人々は、世論なるものがもたらすその種の「におい」だけに酔っていてはならないのである。
登場人物は仮名にしたつもりである。しかし、当局や関係者(日本側も北朝鮮側も)は、それが誰かを直ぐに特定できるはずだ。それほど、両国の関係は特殊な状況下にある。関係者諸氏が、大所高所にたった理解を示してくれることを願っている。
私が、窮屈な日本株式会社を飛び出し、アジアの所謂発展途上国といわれる国々で技術コンサルタントの仕事をするようになってから15年にもなる。久々に成田に到着し、帰路の電車や雑踏でいつもショックを受けるのが、豊かな国の人々の険しくも貧しい顔また顔だ。そして、哀しいかな、一週間もすると、その私も同じ顔になってしまっている。
やはり、人間の集団というものは、何とも厄介なものらしいのである。
1−6 不可解な人々
在日朝鮮人商工会なる組織が日本の各都市に存在する。3人のパートナーたちのうち2人は、この在日朝鮮人**商工会の幹部だった。
彼等は「商」に携わる人々だ。だから、北朝鮮で始めようとしている電子部品の製造事業に関しては全くの門外漢だった。そのことが、後に、プロジェクトの最大の破綻要因になるのである。
この話は、持ち上がってから一年以上もの紆余曲折の期間があった。いつまで経っても出発進行の声が掛からなかったのだ。会合に呼び出され、関連会社を案内させられ、様々な資料を提出させられ、月日だけがいたずらに過ぎていった。
コンサルタント稼業は、設備投資というものを殆ど必要としないかわりに、対価は人件費相当分というみすぼらしい職業だ。札束を泳がしておき、太った所で一網打尽にする高利貸しとは訳が違うのである。
体が動けば対価が発生する。しかし、彼らはそれを無視続けるのだった。メンバーの中心にいた私は、他に仕事を抱えられる状況になかった。一年余も、さほど太くない人参を追いかける日々が続いたのだった。
当初、日本側メンバーは、私を入れて4人いた。しかし、他の3人は示し合わせたように途中で脱落していった。ずるずると長引くだけの不毛な日々と特殊な雰囲気に、彼らはすっかり怖気づいてしまったのだ。
大掛かりな生産設備から石鹸や歯ブラシの類までが、彼等担ぎ屋の手を経て、日本から北朝鮮に大量に送り込まれていた。そんな彼等が日本人の技術者と組んで息の長い仕事をしようとする背景には、外貨が枯渇したウリナラ(我が愛する祖国)相手の担ぎ屋商売がそろそろ限界だという切迫した事情があったのだ。
1−7 エンジンの専門家
在日側の中心人物は60代の「金」だった。初対面の時、英語だけで書かれた名刺を渡され、日本人社会に対する彼のスタンスを見せつけられたようで一瞬たじろいだものだ。
その名刺には、××エンジン研究所代表の肩書きが書かれていて、住所は関西になっていた。こちらに引っ越してから未だ日が浅いようだが、本来私事であるべきそのような事柄に対しても、組織の影を感じてしまうのがこの人たちだ。
「私はエンジンの技術者です。東大の生産技術研究所とも関係がありました」と自己紹介をした。自己のステータスには率直らしいのだ。
その時は漠然と自動車エンジンを思い浮かべていたが、テポドンの事件があってからは、「ロケットエンジンだったのか」と思い直したものだ。日本という国は、何とも無防備で危険極まりない国家なのだ。
もう1枚は在日朝鮮人商工会のナンバーツーの名刺だった。その商工会支部のある街の高級住宅街に、「金」は瀟洒な住宅を構えて住んでいた。そして、何故かその家は韓国領事館の直ぐ裏側にあった。
その領事館は、かつて金大中元韓国大統領の拉致事件に深く関与したことでも有名だった。
彼もまた、何でもありの特殊な世界の住人なのか・・・?以来、奇異な妄想が私の脳裏に住み着き、離れることがなかった。
そもそも、彼等との出会いからして奇妙だったのだ。取り持ったのは、左翼系の代議士だった父と華僑の娘を妻に持つ江川という人物だった。彼は、チャイナコネクションの強力メンバーでもあるらしいのだ。
華僑の義兄が所有する雑居ビルがビジネス街の一等地にあった。自分が経営する日中合弁事業が破綻してからは、そこの一室に形ばかりの事務所を構えていた。
同じビルに左翼政党の支部も入っていたが、その政党は在日朝鮮・韓国人や在日中国人と一心同体だった過去があった。
「この建物は電話が盗聴されているんだ」と、江川は悪戯っぽく言うことがあった。それでいて、江川の事務所には初老の公安関係者がちょこちょこ顔を出していた。
事業が破綻してからは取り巻きが訪れなくなっていたから、その公安関係者が訪ねてくると江川は心底嬉しそうだった。公安関係者は通称Mだと名乗り、最後まで私には名刺を渡さなかった。江川と「金」をつないだ当事者が、そのMだった。この世界は持ちつ持たれつなのである。
職業と言うものはその人に独特の色やニオイをつけるものだが、Mの周囲からも素人目にも分かるほど特異なニオイが立ち込めていた。長年現場で培った彼の実力の程は、その方面とは無縁の私などにも十分響いてくるのだった。
既に自己破産同様の江川だったが、自分の事務所を日本の梁山泊にするのだと意気軒昂だった。姫川流域に翡翠の山を持っている老人の採掘資金調達の話やら、車の燃費が改善され、それでいて人間が飲むと健康にいい秘薬の特許だとか、インポを治す吸引式の機械を中国から輸入する話だとかが、いつも飽きもせずに飛び交っていた。
今思うと、何気なく渡した会社の登記簿謄本が、その筋の危ない中国人の不法残留に寄与したような形跡があった。後にもう一度登記簿謄本を求められ、婉曲に断りを入れたら、用も無いのに頻繁にかかってきていた電話がぱったりと途絶えてしまったこともあった。
この世には庶民の想像を遥かに越える深い深い闇の世界があり、ごく普通に見える隣人が深く関わっている場合もあるのだ。
私は、何度か韓国領事館裏の「金」の家を尋ねている。執務室兼応接間に通されるのだが、ほかの客と鉢合わせすることはなかった。手広く事業をやっているにしては外部から入る電話も少ないのだ。
「金」は、北朝鮮や中国東北部で、木材関係の事業も手がけていた。口の堅い彼が、酒の席で、「今まで、北朝鮮には2億円もの大金を注ぎ込んだ」と、ため息混じりに漏らしたことがあった。いつも冷静な彼らしくない、高ぶった声だった。
北朝鮮出身の両親は既に帰国し、帰国者が多く住む地方都市に住んでいた。彼は、訪朝の度に欠かさずそこを訪れている。彼にとっての北朝鮮ビジネスは、帰国した両親を訪問することと表裏一体なのだ。
本人は勿論韓国に行くことは出来ないが、在日韓国人社会の名家出身の奥方は出入りが自由らしかった。その世界をよく知らない私から見れば不可解なことばかりだった。
1−8 ゴルゴ 13
「鄭」は、「金」よりは若干年下だった。しかし、彼らの世界は、韓国人ほど長幼の序にうるさくないようだ。年上、年下という概念は、我々の社会と同じで希薄だった。
「鄭」は、年代からすれば大男で、背丈が180cm近くあった。外見にも筋肉質のガッチリした肉体をしていて、紛れもなく、それなりの訓練を積んだ人であることは明らかだった。モンゴル帝国の勇猛果敢な戦士を連想させる風貌の通り、何事に対しても単刀直入で、激情家でもあった。
株式会社の代表取締役という肩書きだったが、会社の実体はパートの女性が一人で電話番をするだけの個人企業だった。
中古パソコンを集めて北朝鮮に送る商売も順調のようだったが、私は以前ソ連向けの危ないプロジェクトに参加した経験があるだけに、「貿易管理令」に抵触しないのか気になったものだ。
ココム規制が廃止された今でも、北朝鮮はイラク、リビアなどとともに懸念四カ国なる名誉ある分類に名を連ね、西側諸国からの物品の輸出を厳しく制限されていたからだ。
規制は「大量破壊兵器等の拡散防止」をうたったものだが、アメリカ、イギリス以外からの武器輸出を阻止し、反アメリカ国家に対して服従を強いる手段として使われていることは紛れもない事実だった。強いものが全部獲る。それが国際社会の掟なのだ。
このヤクザまがいの規制に関しても、「アメリカ」親分の忠実な子分衆の一人でもある日本は、目先の国益を捨ててでも、率先して従うポーズをとらなければならないのである。
「鄭」は、在日社会で活動している某歌舞団に、管理スタッフとして籍を置いていた時期があった。そのせいか、日本の地理には滅法詳しかった。言葉の端々から日本全土に張り巡らされた彼らのネットワークが見え隠れし、慄然とさせられるのだった。
歌舞団から離れた後、北朝鮮に舞台装置を輸出する仕事を始め、それで一山当てたようだ。本人は公団アパートに住み、朝鮮食材を商う奥さんの稼ぎで生活する質素な日常をいつも強調していたが、北朝鮮では既にいくつか合弁事業を営んでいて、「100万ドルの男」と呼ばれる有名人だった。
輸出代金の回収に絡むトラブルが北朝鮮側との間で起き、一年近くも現地に拘束された前科も持っていた。「鄭」はその裁判を乗りきり、現地の関係者は自殺している。
「鄭」自身の口から、幾度も聞かされた話だった。本人は、それが自慢でもあるようなのだ。
この話は現地でも語り継がれていた。しかし、現地では専ら自殺した側に随分と同情的だった。
そんな「鄭」は、日本にいても駅前再開発地域の競売落ちした物件を押さえるなど、すこぶるタフだった。私などとは、次元の違う世界の人なのだ。
「金」も「鄭」も一緒だったが、平壌の青春通り沿いにある射撃場に、唐突に連れて行かれたことがあった。
青春通り沿いには、各種の競技施設が集中する。そこには大規模な建造物が点々と散らばっていたが、辺りには人っ子一人いなかった。
だたっぴろい通りにも巨大な建造物にも、装飾らしいものは一切なかった。外部からは、それらの建造物が何の為のものなのか、全く窺い知ることが出来なかった。
射撃場は地味な建物だった。粗末なドアを潜ると、そのまま屋外射撃場へと案内された。的は、粗末な木組の台に並べたり、ヒモでぶら下げたりしてある空き缶やビール瓶だった。手前の列が10m、遠くのが50mほどの距離だろうか?縁日の射的を連想し、思わずにんまりしてしまう。
生まれて初めて触るピストルとライフル銃だったが、思ったより軽かった。競技用なのだ。ふっくらとした白い頬と口紅の紅い色がやけに目立つ女性指導員が、傍らで遠慮がちに手ほどきをしてくれる。
武器を手にすると精神が異常に昂揚するものらしい。彼女の説明に耳をそばだてるのだが、頭の中は真っ白だ。
まずは手前のビール瓶の列を狙って撃ってみる。弾は的をかすりさえしなかった。何発撃っても同じだ。照準は定まらないし、弾がどのあたりで飛び出すのかも皆目検討がつかないのだ。今更訓練しても、私は到底ゴルゴ13にはなれそうになかった。そこそこで切り上げることにする。私の屁放腰を見て、同行した案内同務もひとまず安心しただろうし・・・。
一見武闘とは無縁にみえる「金」の弾が、以外にも的を捉えることがあった。
案内同務と「鄭」は別格だ。引き金が引かれる度に、手前の瓶も50m先の瓶も、辺りに破片を撒き散らしながら消えていく。勝負は完全に互角だ。
決着をつけるべく、二人は室内に設けられた本格的な競技用の装置に向かった。頭上に着弾点や点数を表示するモニターがずらりと並び、奥行きのあるボーリング場といったところだ。私と「金」は、離れたところから決戦を見守ることにする。
一通り撃ち終えた二人の弾痕は、一番真中のクロ丸近くにほぼ集中していた。二人とも並外れた見事な腕前なのだ。
再び、二人は延長戦に突入した。息をするのが憚られるほど緊迫した時間が続く。ふと我に返ると、女性指導員たちからどっと賞賛の拍手が上がったところだった。「鄭」が勝ったのだ。
右でも左でもない私でさえも思ってしまう。このような訓練が、彼等の間では日常的に行われているのだ。「自衛隊は違憲だ」などと、平和ボケの亡国論を吐いている日本人はいったいナンなのかと。
1−9 商工会青年部の星
「河」は40代前半で、一番若くて威勢がよかった。不動産業と金融業を営み、「金」と同じ地区の商工会青年部の幹部でもあった。
彼の名刺には、本名の一字を頭にした日本名が書かれていた。電話をかける時は朝鮮名で呼び出してもらっていたが、彼自身は日本名で応じることの方が多かった。名前を使い分ける人々が身近に居ることで、私はいつも胸の辺りにしこりを抱えていなければならなかった。
私は、彼らが日本という国から受けた、或いは受けているという差別に対しては、モノの本で知った程度の知識しか持ち合わせていなかった。
如何なる集団も、内なる所では不条理な弱肉強食の世界であることを、この年になると身をもって知ってしまっている。だから、彼らに、「差別」を金科玉条のように振りかざされると、私は途端に愛国的になってしまうのである。
いつも注文仕立のスーツをピシッと着こなし、黒いベンツを乗り回す姿は青年実業家そのものだった。山の手の高級住宅街に住むことが彼等の社会のステータスだが、彼の新居もそこに完成したばかりだった。港のよく見えるそこの庭で「バーベキューをやろう」と、会うたびに上機嫌だった。
酒が入ると、ゴルフの話や著名人との交友録を繰り返し話したがるくせがあった。「東尾と梓みちよが付き合っていた頃、鮨屋で一緒になってね。・・・・・。一人10万円とられたよ。高かったな」。幾度も聞かされた話だった。
女優の松坂慶子やプロ野球の清原選手も頻繁に登場する。彼等の自慢のタネなのだ。せっかくの道具立ても、この軽薄さで帳消しになるのだった。
このプロジェクトとは無関係の人物だが、在日のパチンコ王が設立した中嶋財団の奨学金で日本の大学を卒業した「朴」という韓国人がいた。その「朴」も、半島とのかかわりを持つ有名人の名前を数え上げるのが好きだった。
日本の会社に職を得ていたが、身びいきと反日が体中から吹き出していた。その彼の口から、長島監督の名前までが飛び出してきて驚いたものだ。
後日談だが、店頭公開もしていた某機械メーカーの粉飾決算が露見し、「ベンチャーの旗手よ」、「地元の名士よ」と、持て囃された社長が逮捕される事件が起きた。たまたま私がそこの子会社の役員になったばかりの時だった。当事者でなかった私は、野外劇を見るような目で、その一部始終を眺めていた。
会社は内外の代理店を使い、架空取引を装う手口で毎年売上を3割ほど水増し計上していたのだ。そのうえ、架空の利益まで計上し、大株主の社長以下、会社幹部達は違法配当まで受け取っていたのである。
メインバンクから経理担当の役員を受け入れ、著名な監査法人が監査していたその会社の決算報告書を手に取ってみて、売上の3分の1に相当する売掛金が堂々と計上されていたことにも驚いたものだ。
事の発端は資金繰りが悪化し、不渡り手形を出してしまったことだった。二部上場の見通しが絶望的になり、上場仕掛人の張本人だったメインバンクに引導を渡されたのだ。
恐らく、バブルがはじけず、日本経済が右肩上がりの成長を遂げていたなら露見することもない些事だったに違いない。程度の差こそあれ、多くの企業が同じようなことをしてきていた。この成り上がり社長は、土壇場で、運がなかったのである。
その架空取引の舞台の一つが、「朴」が支店長を勤めていた時期の韓国支店だった。彼は何かあると、「私には力があるんだ」と率直だったが、そういう意味だったのである。
第2章 北朝鮮への第一歩
2−1 まず、北京へ
最初の北朝鮮行きは、1996年2月のことだった。電子部品を現地生産する計画が一年以上の紆余曲折を経て、ようやく動き始めたのである。ともかく、プロジェクトの提唱者であり、技術者である私が現地の状況をしかと見て、「やれるかどうか、結論を出せ」というのだ。
私には、現地の事情よりも、こちら側の事情の方が心配だった。私以外の日本人スタッフは途中で逃げてしまって一人もいなくなっていたし、肝心の設備予算も殆どゼロになるまで削減され、何もかも間に合せのものでやるしかない状況になっていたからだ。「何とかなるさ」。これが、在日側の中心人物「金」の口癖だった。
ビザ申請からして他の国々とは随分と勝手が違っていた。まず「金」を経由して朝鮮総連の所定の機関から一通の書類が送られてきた。履歴書と経歴書を合わせたような書式だった。審査書類と一緒にパスポートも預かるという。
私は韓国の財閥企業で技術コンサルタントをしていたことがあり、その間、100回近く入出国を繰り返していた。パスポートは財閥企業との契約末期に更新したものだったが、それでも韓国の入出国審査スタンプが目障りなほどベタベタと押してあった。
すぐに朝鮮総連側から、「韓国での七年間のコンサルタント歴を四年にしてくれ」と要請がきた。7年と4年の違いが、彼の国にとって如何ほどの意味があるのか理解出来なかったが、私はその通りにした。
何の証明書も出なかったが審査は約一ヶ月ほどで終わった。「金」が口頭で、「中国にある北朝鮮大使館領事部に出頭すれば、何時でもビザが取得できる」と、伝えてきた。
最初の北朝鮮行きは、「河」との二人旅だった。「河」は、「何年ぶりかの祖国訪問だ」と嬉しそうだった。中華航空の狭い団体席が予約されていた。月一度の割で韓国と日本を往復していた時は、先方との取り決めで日本の航空会社のビジネスクラスが使えることになっていた。
今度は自分の値段が値切られているようで、彼らとの間の溝が深まっていくのだった。
飛行機は日本海を飛び越え、東海岸にある江陵市から朝鮮半島に進入し、半島を横断するかたちで太白山脈を飛び越えると北に機首を向け、そのまま北上を続けた。
窓越しに、太白山脈の打ち重なる山並みや、龍仁自然農園の観覧車や、湖厳美術館の広い池がよく見えるはずだったが、この日は生憎雲海にさえぎられて何も見ることが出来なかった。
「河」の本貫は慶尚道だ。一度も訪れたことのない父祖の地は厚い雲の下にあった。ヒタと窓に顔を寄せる「河」の視界には、厚い雲の下に、或いは何かが見えていたのかもしれない。
「北の出身者は数%だよ」。己の純血を誇示するかのように、「金」がふと洩らしたことがあった。在日朝鮮人の大半は、父祖が韓国出身者なのだ。
中国に約180万人、日本には約70万人の朝鮮族が居住している。中国北部の吉林省や黒龍江省に居住する朝鮮族にも、父祖に慶尚道出身者を持つ者が多いという。これらの人々の移住には、かの悪名高い大日本帝国が大いに関与していたことも紛れもない事実だが、古代から壮大な民族間交流があったのだと思う方が血湧き肉躍る。
やがて飛行機はソウルの手前で大きく旋回し、北朝鮮の領空を避けて黄海へと抜け、一路北京へと北上を続ける。アジアの火薬庫・朝鮮半島を避けて上海経由で飛んでいた以前のコースに比べ、北京までの飛行時間は大幅に短縮されていた。
林立する巨大な新築ビル群。華やかな商店街と溢れる商品の山。若者たちの色彩豊かな服装。実際に自分の目で見る中国の改革開放は、想像を遥かに越えていた。
街のいたるところで行われている大掛かりな建設工事は、オリンピックをまじかに控えた韓国・ソウルで出会った光景にそっくりだった。
中華を標榜するアジアの大国は、孔子の呪縛から漸く解き放たれたと思ったら、更に過激な「資本主義」という呪縛に絡め取られようとしていたのだ。
北京のホテルは王府井(ワンフーチン)の一角にあるこじんまりした三つ星ホテルだった。ロビーには人目でそれと分かる女性がたむろしていた。部屋の中では、日本の衛星放送も見ることが出来るようになっていた。私の中にある中国とは随分と違ってしまっていたのだ。
私が高専生だった頃は、さしもの学生運動も終末期にさしかかっていた。田舎の学校だったが、それと符合するように、同じ頃に燃え上がった隣国・中国の文化大革命に関心を示す学生も出てきていた。学生寮では北京放送を聞くのが流行ったりもした。
私のところにも、文化大革命を礼賛する小冊子が、切手や切り絵とともに北京の放送局から随分と送られてきていた。今でも、それらの印刷物の一種独特なインクのニオイが、鼻腔の奥に残っているほどだ。
学生寮から松林を抜け、30分も歩くと日本海だった。夜になると、中国やロシアや朝鮮半島からの強烈な電波が侵入してくる地域でもあった。
2−2 北朝鮮領事館
翌朝、暗いうちに起きて北朝鮮大使館へと向かう。いかめしく歩哨が立つ大使館の正門前にタクシーを着けたら、脇の小部屋から白い無地のスカーフに顔を包んだ物売り風のおばさんが小走りに駆けて来て、「領事部は別の入り口だ」と教えてくれた。
出張者の為の大掛かりな宿泊施設まであるといわれている北朝鮮大使館だ。そこからほぼ半周したところにある領事部へ行くには、待たせてあったタクシーに再び乗り込まなければならなかった。
大使館の塀に沿って間口一軒ほどの屋台風の商店がずらりと軒を連ねていた。生鮮食品から衣類、かばん、小間物類と何でもありだった。厳冬だというのに、青々とした野菜や色とりどりの果物が山と積まれていた。
群がる買い物客が車道にまで溢れ出し、その度に車は立ち往生だ。市場経済の先輩・台湾の光景そのままだった。
裏門といった風の領事部の錆びた鉄の扉の前には、銃剣を携えた若い兵士が立っていた。いささか緊張気味の旅人の目には、その銃剣が何とも異様に映るのだった。
パスポートを呈示すると一瞥しただけで門を開けてくれた。入って直ぐの二十坪ほどの部屋が手続きの場所だったが、我々の他には誰も居なかった。
大きな窓のせいで内部は随分と明るかった。名勝・金剛山の紅葉を描いた巨大な絵が入り口正面の壁に掛けられていた。装飾らしいものはそれだけだった。べたべたと宣伝ビラなどが張られているだろうと漠然と考えていた目には、拍子抜けするような簡素さだった。
執務室とは胸の高さほどのカウンターで仕切られ、開け放たれたドアからは書類が積見上げられた机が見えていた。壁にはおきまりの金日成、正日父子の肖像画が並べて掛けてあった。
ビザの申請書は簡単で形式的なモノだった。所定の二、三行に必要事項を書きこみ、手数料3千円と顔写真2枚を添えて提出すると、ものの5分ほどで手続きは完了した。
軍事・独裁国家といわれる怖い国のお役所ということで何となく覚悟を決めて乗り込んだのだが、係官の拍子抜けするほどの自然体に肩からスーと力が抜けていくのだった。
ビザは二つ折りのカードで、パスポートに挟み込むようになっていた。北朝鮮への入出国記録はそのカードにだけ記され、出国時には回収されてしまうので、手元には何も記録は残らなかった。
2−3 空から見る凍土
北京ー平壌間の飛行機便は週3便しかなかった。うち一便は中国の地方航空会社が運行していた。一年の間に、私はこの空路を4往復したが、中型ジェット機はいつも満席だった。
朝鮮民航のチェックカウンターは、出国審査ゲートのすぐ手前にある。空港の入り口からは一番遠い場所だ。二つだけのカウンターに、一人づつ女性係員が付いていた。彼女らは際立って容姿端麗なわけではなかったが、他の空港職員たちとは際立って雰囲気が違って見えるのだった。
それが何なのか暫くは分からなかったものだが、どうも、我々の自我の部分とぶつかるところが少ない為のようなのだ。そう思うと、この人たちが属する社会の特別な精神世界が垣間見えてくるのだった。
領事館で出会った職員たちも同じだった。「共産主義国家や社会主義国家というものは、このような人々がいて、初めて成り立ち得るのかも知れない」。ふと、私は何となく分かったような気がしたものだ。
北京からの出発時間は正午頃に設定されていた。北京―平壌間は、たかだか1時間半の距離だ。朝方平壌を出発した便に北京からの乗客を乗せ、その日のうちに戻れるようになっているのだ。
空港待合室には大きな花束を携えた人々が随分と紛れこんでいた。聞くと、花束は万寿台の丘に建つ故金日成主席の巨大な偶像に捧げる為のものだという。寒い季節ではあったが、花でさえわざわざ中国あたりから運びこまなければならない国内事情が見えてくるのだった。
待合室から乗りこんだバスは、不安になるほど長い間走り続け、貨物機が並んだ谷間へと漸く滑り込む。大型の貨物機に包囲され、小さな朝鮮民航機はいかにも肩身が狭そうだ。
近くで見ると、機体の塗装は深くひび割れ、まるで土壁のようだ。「これじゃ、空気抵抗が大きくて燃費もかさむだろうに」と、技術屋は心配する。
乗客全員が着席し、ドアが閉じられてから、ようやくエンジンが始動した。「オイオイ、ウォーミングアップは大丈夫か」。如何ほどの油代の節約になるのか分からなかったが、またまた小心者は不安になるのだった。
機は無難に離陸した。眼下には凍てついて荒涼とした平原がどこまでも広がっている。凍結した湖沼や河川は、飛行機が傾くたびにまぶしい光の束を反射してよこす。歴史好きは中国四千年の興亡の跡を見つけようと目を凝らすのだが、それらしいものは何も見えなかった。多くの血を流しながら築き上げた文明の跡など、広大な大地から見ればちっぽけなものらしい。偉大なる歴史も、ただの100年も経てば全てが「兵どもが夢の跡」なのだ。
機内は古びていて地味だが、清掃は神経質なほど行き届いている。安手の紙に印刷された薄っぺらな機内誌が座席の背の小物入れに挟んであった。ぺらぺらとめくって見る。格別目を惹くようなページはなかったが、グラビアの色調が小学校の修学旅行で買った松島の天然色絵葉書とそっくりだった。
男の目には、初めて身近に見る異国の女性はいつでも輝いて見えるものだ。スチュワーデスの透き通るような白い肌が、旅で高揚した男の本能を刺激する。やや下膨れの顔。乙女が恥じらいの時に見せるピンク色の頬。「間違いなく天平美人につながる顔だ」。私は旅の興奮に舞い上がりながら、勝手に決めつけてしまっていた。
彼女が籠ごと差し出したキャンデーを1個だけつまんでみる。包装紙も溶けだしてきたアメの甘さも、感動するほど駄菓子屋さん風だ。水平飛行に入ると飲み物と軽食が配られた。ビールを頼んだら、天平美人ははにかむような笑みを浮かべて、「揺れたらどうしようか」と心配するほどなみなみと注いでくれるのだった。
ややいびつに見えるビンには「龍城ビール」と書かれたレッテルが貼られていた。濃い琥珀色の液体は、気が抜けたように軟弱な喉越しだった。しかし、手作りともいえるような味わいは、その場の雰囲気にぴったりだった。
朝鮮語と英語の機内アナウンスがあった。中・朝の国境線をなす鴨緑江上空にさしかかったのだ。眼下には朝鮮半島一の大河・鴨緑江が横たわっていた。鴨緑江の凍結した川面が鈍い光の束を反射しながら大きく蛇行し、遥か彼方まで伸びていた。しかし、それも遂には周囲の灰色に溶け込むように掻き消えてしまうのだった。
飛行機が大きく旋回した。西海(黄海)の海岸線が視界に飛び込んでくる。鴨緑江から押し出されたらしい氷塊が、海岸線をビッシリと覆い尽くしていた。飛行機が傾くたびに、それに太陽の光が反射して眩しかった。
高山がないせいか積雪は少なかった。雪が斑に残る沈黙の平野と、頂上まで耕され尽くした丘陵の段々畑を交互に飛び越えながら、機はどんどんと高度を下げていく。
時おり集落らしいものが視界を横切っていく。どれもが荒涼とした広大な大地に辛うじてへばりついているだけのちっぽけな塊に過ぎなかった。北の大地では凍結した山河があまりにも突出していて、小さな人間の集落など気の毒なほど希薄に見えてしまうものらしい。
集落を継ぐ幾筋かの小道はどれもが獣道のように自由だが、一陣の風雨が駆け抜ければたちまち消えてしまいそうなほどか細かった。
左手に大きな貯水池が見えてきた。石厳貯水池だ。大韓航空機爆破犯の金賢姫工作員が密かに水泳の訓練を受けたとされる場所だ。
滞在中に、私はここを一度訪ねている。近くで見ると湖にも見える巨大な貯水池で、岸辺には何隻かの大型ボートまで係留されていた。池の周囲は深い雑木林に覆われ、視界を遮る人工物が殆ど無かった。
休日には、水遊びやバーベキューを楽しむ各国大使館員が家族連れで訪れるほどの高級な保養地でもあった。その日も、外交官風の垢抜けた家族連れが10人ほどで訪れていた。
深い木立に隠れるように建つ宿泊施設にも立ち寄ってみた。2階建てのこじんまりとした建物で、愛知県在住の同胞が寄進したものだった。
玄関先で何度か大声で呼びかけると、普段着姿のおばさんが出てきて中を案内してくれた。閑散としていて無人のようにも見えたが、案内された部屋は直ぐにでも使えるように整えられていた。オンドル部屋で、造りも調度品も簡素だった。民宿といった感じだ。耳を疑ったが、一泊500円だという。
朝夕我が家の庭で釣り糸を垂れるなんて夢のような話だし、何よりも安いのが一番だった。だが、問題は食事だ。「南浦港に漁船を所有しているから、魚は毎日直送です」と、女性同務は自信ありげだ。しかし、我々は他のホテルで懲りていたから慎重だ。誰もが、すぐにはその言葉を信じなかった。それでも、「食材は外貨ショップで調達すればいいさ」と、我々はすっかりその気になっていた。
しかし、この話はうやむやのまま立ち消えてしまった。私には、最後まで理由が分からずじまいだった。
2−4 順安国際空港
石厳貯水池の脇をかすめるようにして、朝鮮民航機は、この国唯一の国際空港「順安飛行場」に着陸した。北京からの飛行時間は、予定通り約1時間半だった。
窓から覗き込む目に、凍てついた葦原が飛び込んできた。人工物が、何一つなかった。「不時着したらこんなものかも・・・」。無性に心細かった。
飛行機は無人の荒野をじりじりするほどゆっくりと進んで行く。暫くして三角屋根の格納庫が視界に飛び込んできた。民間のものとは思えないような無機質な建物だ。飛行機が格納庫から引き出され、陳列品然と格納庫の前に並んでいる。エンジンには赤いキャップがはめ込まれ、機体の上部はテント地のキャンバスで覆われたままだ。今日明日飛び立つ飛行機ではなさそうだ。
機は、尚もゆっくりと進んで行く。やがて、3階建てのこじんまりした建物が近づいて来た。これも、空港施設とは思えないような殺風景な建物だった。建物正面に掲げられた金日成主席の巨大な肖像画だけが突出していた。滑走路に面した広々としたガラス窓がなければ、ただの倉庫だ。
ここまで来ても、忙しく動き回る空港車両やトコロテン式に押し出されるはずの機影が、どこにも見当たらなかった。
定期便は、他にモスクワ、ベルリンに向けて、それぞれ週1便あるだけだ。あまりにも寂しい国際空港なのだ。
李氏朝鮮も徳川日本も、政権の延命を鎖国に賭けたことがあった。しかし、それは宇宙空間を電波や人工衛星が飛び交うこともなかった時代の話だ。
大地に降り立つと、予想より随分と暖かかった。春に向かう時期の朝鮮半島は、三寒四温の典型的な大陸性気候に支配される。寒暖の波が一週間のうちで交互に繰り返され、凍土の国も少しずつ和んでいく。四温にあたる日にはピタリと季節風も止み、赤みがかった冬の陽射しが街を包み込み、嘘のように寒さが和らぐのが常だった。
二列だけの入国審査カウンターだった。パスポートと別紙のビザを呈示すると朝鮮語で招請先を聞いてきた。「対外経済委員会」の英語訳が、とっさに思い浮かばなかった。
朝鮮・韓国語では、漢字の読み方は大抵ひとつだ。だから、どんな長い漢字熟語でも、それぞれの漢字の読み方をそのまま繋ぎ合わせていけば、読むことだけは簡単に出来た。
読み方も日本語によく似ている。だから、多少ハングルをかじった人なら、大抵の漢字熟語は、日本語読みを連想しながら容易に読み解くことも可能だ。私も大抵の漢字は、ハングル読に置き換える事が出来た。
ちなみに、日本語だと、漢字の読み方は主なものだけでも漢音、呉音、宋音と、3通りもある。この事からも、倭或いは日本という国の複雑な成り立ちが垣間見えてくるのである。
私が、そのようにして、たどたどしい朝鮮語で答えると、若い審査官は人懐っこい笑顔を浮かべながらパスポートを丁寧に手渡してくれるのだった。日本の審査官よりはずっとサービス精神を心得ているのだ。
話は飛ぶ。成田空港でのことだった。その人は韓国人で、学者のような知的な雰囲気を漂わせた中年紳士だった。若い税関職員が、しつこく詰問するのだった。それも日本語で。「あんた日本語は大丈夫ですか」。「お金は持っているんですか?」。
通り合わせただけだから詳しい事情は分からなかったが、私自身が恥ずかしさに身が縮む思いがしたものだ。
空港内部は薄暗く、倒産した工場の中のように殺風景だった。室温も外気温と殆ど変わらなかった。旅人も、空港職員も、防寒具をしっかりと着込んだままだ。
一レーンだけのバゲージクレームが動いていた。どっと群がった人々の勢いに圧倒されて後ろに控えていると、招請先の関係者が寄ってきた。一人は、私とほぼ同年代の中年女性だった。たった今台所から抜け出してきたかのように、服装も仕草も普段着のままだった。
あと一人は、同行した「河」とほぼ同じ年恰好の男性だった。彼の方は、きっちりとした人民服姿だ。あまりにも隙のない装いで、初めは軍人かと勘違いしたほどだ。
小柄だが、角張ったアゴは意思の強さを示していた。メガネの奥から投げかける鋭い眼光は、いささかドスの効かせ過ぎだった。「少し、力が入り過ぎじゃないの」。からかって見たくなったものだ。この二人を見て、またもや、何となくこの国が分かるような気がしてくるのだった。
私のパスポート写真は髭を生やしていた頃のものだった。彼らは私の髭を目印に探していたのだ。私のツルリとした顔を見て、「どんなに怖い人かと思っていました」と、その中年女性は微笑んだ。
「オイ、コラ」。「バカヤロー」。韓国のとある居酒屋で、突然見も知らぬ男に見事な「日本語」を披露され、行き場を失ったことがあった。髭を生やした日本人は、今なお朝鮮半島の人々に植民地時代の悪夢を連想させるらしいのだ。
税関を通る時も彼らは傍に付きっきりだ。狭い空間に、2台のX線透視装置が置かれていた。乗客たちは皆大層な荷物を抱えていたし、乗客の数よりも多いかと思われるほどの出迎え関係者が入りこんでいた。
機内で渡された外国人向けの税関申告書には、所持金はもちろんのこと肌着の類から文庫本の数まで書き込まなければならないようになっていた。在日の「金」たちからは、西側の音楽テープ、写真、書籍の持ち込みは慎重を期すようにと事前に言い渡されもしていた。彼らは、「韓国のものは絶対にだめだ」と、更に念を押すのだった。
税関検査の際、「あっ」と気がついたが、後の祭だった。パンツとシャツは韓国製だったのだ。確か、ハングル文字が書かれたタグもついていたはずだった。
演歌のテープ、開高健の釣り紀行もの、工場備品の総合カタログ、・・・。私が持参したのは、そんな程度のものだった。それでも、射るような係官の視線に全身が汗ばんできそうになるのだった。しかし、申告書を受け取った係官は、そんな私の心中を知ってか知らずか、一瞥しただけでゲートを通してくれるのだった。
むしろ締め付けが厳しいのは、二重生活をおくっている海外同胞たちなのだ。着陸態勢に入った機内で、「これを読んで見なさい」と、いきなり「月刊朝鮮」のコピーを私に預けた「鄭」や「金」たちの行動がそれをよく物語っていた。
税関を出たところが出発カウンターになっていて、外からの出入り口とつながっていた。普通なら華やかな各国航空会社のカウンターがずらりと並んでいるところだが、エックス線透視装置が片隅に数台置いてあるだけだった。出入り口の脇には申し訳程度に小さな両替所が設けてあったが、客は一人もいなかった。中央に広い階段があった。登ったところが出発ロビーだ。
建物を出ると、正面は青空駐車場だった。フェンスも何もなかった。ただの空き地に、数十台の車がきっちりと整列して並んでいるだけだ。
旅人の心を昂揚させる雑多な広告、客待ちのタクシーの列、頻繁に通り過ぎるリムジンバス、・・・。空港には必ずあるべきはずのものが、ここには何もないのだ。
勿論、首都平壌とを結ぶ鉄道も路線バスも地下鉄もなかった。田舎の停車場に取り残された時のように、旅人の心は萎えてしまうのだった。
第3章 王城の地・平壌
3−1 偶像と同居する人々
順安飛行場からは、小高い丘の麓を縫うように片側2車線のコンクリート舗装の道路が続く。中央分離帯もガードレールも無い、単純明快な道路だ。それだけではなかった。街路灯はおろか信号もないのだ。大分走った後だったが、それまでに対向車が1台もなかったことに気付かされるのだった。
丘の斜面は悉く耕され、立ち枯れたトウモロコシが飄々と寒風の中に佇んでいた。凍土の畑地は石ころだらけだ。ささくれ立った赤土も、いかにも手ごわそうだ。日本の農地は、もったいないほど豊饒だったのだ。
ときおり、沿道には中層のこぎれいな集合住宅群が出現する。しかし、どれもが妙に人の気配が希薄なのだ。或いは、それらも得意の展示物だったのかも知れない。
道が柵で塞がれ、脇に検問所が設けられていた。車が近づくと、銃器で武装した5、6人の兵士がバラバラと駆け寄ってきた。腕に「検問」と書かれた腕章を巻き付けていなかったら、私は動転していたに違いない。
一人が銃を水平に構えたまま近づき、「降りろ」と、あごでしゃくって合図をした。若い兵士だった。「やれやれ」といった調子で、案内同務が車から降りて行く。二人は背を向けたまま車からやや離れた場所へと歩いていった。私のパスポートを前に、しばらくヒソヒソと話しをしていたが、やがて二人はそろって戻ってきた。一瞬、その兵士と視線があった。かってみたことも無いような獣じみた視線だった。士気旺盛、志操堅固な兵士に違いなかった。
彼は直ぐに視線を逸らし、「行け!」とばかりに、白い旗を横に振った。
車は市街地へと入って行く。5階建て程度の古びた建物が目に付く。どれも、壁はコンクリートの地肌そのままだ。街に彩りを添えるはずの商店が一つもなかった。カラフルな衣服を纏った人々もいなかった。見渡す限り無彩色の世界だ。
窓ガラスの入っていない部屋が随分と多かった。窓際に、僅かばかりの大根葉が吊るしてあったりする。まるっきりの廃屋でもなさそうなのだ。
平壌の街の殆どが瓦礫と化したといわれる朝鮮戦争から既に半世紀の歳月が流れていた。それ以来、この街並みは足すことも引くこともなく来てしまったようだ。
あまりにも整然としていて、多くのアジアの新興国で感じる無秩序と過密さが無い分だけ人々の影も生活臭も随分と希薄に見えてしまう。
道路の両側には、半世紀の風雪に耐えた街路樹がどっしりとそびえている。ポプラや柳だが、廃墟のような光景と相俟って、寒空に広げた裸の枝がとても寂しげだ。
どの木も、幹は地表に近いところだけが白く塗られていた。これは春先に地中から這い上がる害虫から木を守る配慮なのだが、私にはまず窓ガラスを入れる事が先に思えてならなかった。
巨大な凱旋門だった。記録では、パリのものより11メートルも高いことになっている。これを潜り抜けると、道路は片側3車線になった。しかし、車の通行量は相変わらず少なかった。一度に視野に入る車はせいぜい数台といったところだ。ベンツか日本車だが、どれもが気の毒なほどに消耗している。
トラックなどの大型車は許可無しには市内に入れないことになっているらしい。理由を聞くと、同乗者は「環境問題だ」と胸を張った。
年代物のトロリーバスが、人々をいっぱい詰めこんで、道路の両端をノロノロと走っていく。私の中の社会主義にはぴったりの光景だ。胴体の厚く塗られたペンキは酷くひび割れ、装飾模様と見紛うばかりに赤い鉄サビが縦横に走っている。
窓ガラスも、大半は割れたままだ。そこを薄っぺらなビニールが塞いであったりする。零下20度以下に気温が下がることもある平壌の冬だ。こんなものでは、到底無力なはずなのだが・・・。
世界の富の分捕り合戦は早い者勝ちだ。この国がレースに参加するまでには、あらかた食い尽くされてしまっているかもしれないのだ。ここ数十年を除けばだが、いつも食い尽くされる側だったアジアの同胞としては、それが何とも歯がゆかった。
車は七星門通りへと入って行く。左手に迫る小高い丘がモランボン(牡丹峰)だ。鬱蒼と生い茂る森には縦横に遊歩道が張り巡らされ、市民の憩いの場にもなっていた。
私も、案内同伴で、園内を歩き回ったことがあった。休日だったこともあって、弁当らしい包みや敷物を携えた人々を何人も見かけたものだ。
深い森の中にある高句麗時代の石垣や土塁を訪ねたり、素朴な楼亭に腰を降ろして大同江を眺めたりしていると、ゆったりと心穏やかな時間が流れていくのだった。
前方で、巨大な千里馬像が天空へ羽ばたこうとしていた。高さが46メートルあるというこの像は、遠めにも躍動感溢れるものだった。数多の人民を背に負い、一瀉千里を駆けぬける千里馬像は、北朝鮮の国家そのものだった時期もあったに違いない。
しかし、今は、赤い血の汗を滴らせながら自在に天駆けるはずの天馬も、深い霧の中に閉じ込められたまま、行き場を見失ってしまっているようだ。
平壌という都市は、まるごとテーマパークでもあるようだ。行く手に、またもや巨大な像が出現する。高さが30メートルもあるという金日成像だ。鎌倉の大仏が11.3メートル、奈良東大寺の大仏が15メートルだ。金日成像は、巨大さでは完全に神を越えている。
建設当初は金色燦然と輝いていたらしいが、中国首脳の訪朝後赤銅色に塗り替えられてしまったのだという。この国は、未だに、兄貴分の中国を抜きにしては語れないのだ。
夜遅くに、ここを通りかかったことがあった。辺りは人通りも途絶えてシーンと静まりかえっていたが、金日成像だけは幾つもの強力なライトに照らされ、依然として金色燦然と光り輝いているのだった。
車は勝利通りへと入って行く。またもや、異様な光景が目に飛びこんできた。道路脇から広くて長い階段が続いていたが、そこを身動きも取れないほどの人々がぞろぞろと駆け登って行くのだ。
手ぶらで行く人、ささやかな花束を持つ人、大きな花篭を2、3人掛りで運ぶ人、皆それぞれだ。金正日将軍の誕生日・2月16日が目前に迫っていた。その参拝の列だった。ここの人々は、我々日本人が皇居や神社に参拝するように、この丘の上にある金日成像に参拝をするのが習慣なのだ。
我々の車は、その階段をやり過ごし、少し先で右折し、平壌学生少年宮殿の正面に出た。そこから万寿台議事堂脇の急坂を登り、朝鮮革命博物館に連なる広い駐車場へと車は入って行く。
辺りはかなりの数の車と夥しい人々でごった返していた。人波に吸い込まれるように、我々も進んでいく。既に、遠来の旅人は周囲に充満するとてつもないエネルギーに圧倒されそうになっていた。
巨大な金日成像は右腕を水平に突き出し、壮年期の端整で威厳のある表情で、人民大衆に何かを訴えかけていた。しかし、この国は、建国の雄・金日成の意思を越えたところに、既に来てしまっているのかも知れなかった。
雪を頂いた霊峰・白頭山の巨大なモザイク画が像の背景を飾っている。腕が指し示す方向に目を転ずる。大同江を挟んで、真向かいに高さ170メートルの主体塔が聳えている。この国の社会主義思想の根幹をなす「主体思想」のシンボルタワーだ。偶像とお題目はセットなのだ。
塔は金日成主席の70歳の誕生日を記念して造られたもので、365日かける70年分の花崗岩の切石25550個が使われていることになっている。
夜には先端の赤いタイマツに赤黒い光が灯り、下から上へと光の波動が無限運動を繰り返していた。「どう見ても、これは理髪店の看板だ」。不心得者は、見るたびに、しらけてしまうのだった。
組織が権力を生む訳ではない。権力が身の丈に合った組織を創るのだ。権力は生(なま)ものだ。次々と古い部分を切り落としていかなければいつしか綻び、腐敗が始まる。ほころびを繕い、腐敗を覆い隠すには、膨大な負の投資と民の犠牲が要る。これは、何も社会主義国家や共産主義国家だけの話ではない。
それにしても、この内向きの集団の非生産性は、あまりにも異常過ぎはしないだろうか・・・。
像の周りには、彩り豊かな大小の花束が山となっていた。厳冬の大地とはあまりにもかけ離れた光景だ。
渡された小さな花束を持って参拝の列に紛れ込む。じりじりと人の波が動いていく。物凄いエネルギーだ。集団が発するこの手のエネルギーは、まっさらな第三者をも簡単に飲み込んでしまうものらしい。
荘厳な調べが流れていた。儀式も、そこで奏される調べも権力の側のものだ。古来、権力は、それらを鎧の上に纏うことで、常に民衆の目をくらまし続けてきたのだ。
我々も前列の人々に倣って像の足元に花束を捧げ、深深と頭を垂れ、黙祷する。すると、何故か、胸の底から歓喜に似た衝動が湧き上がってくるのだった。
3−2 おもちゃの交通信号機
市街地に入ってからも幾度か大きな交差点を横切ったが、信号機を一つも見ていなかった。
ここでは、交通整理は若い女性同務の仕事なのだ。凍てつくなかで、彼女たちは、狐色の毛皮の防寒帽を被り、鮮やかなコバルトブルーのロングコートを着て、足元を黒い色のロングブーツでピシーッときめ、元気いっぱいだった。
指揮棒を持ち、機械仕掛けの人形のように規則正しくクルリ、クルリと回転してみせる。ピタッと体が静止する度に、車に向かってニッコリと微笑みかけてくる。まるで、愛くるしいからくり人形だ。
周りはモノトーンの冬景色だ。そんな彼女たちは、際立つほど華やかに浮かび上がって見えるのだった。
「交通整理の(女性)同務が車に轢かれて亡くなった」と、案内同務が涙ぐむ。場所は、平壌市内でも、最も交通量の多い交差点だった。こちらの車は、交差点でも、大抵減速なしで突っ込んでくる。それまでも、ハラハラさせられる場面に何度も遭遇していた。
この時の加害者は、泥酔したアフリカの外交官だった。「アフリカ人はいろいろ問題があるんです」。案内同務は、また涙ぐむ。私は、他人の為に涙を流すことがなくなっている自分を密かに恥じたものだ。
ここには珍しく子供の絵本で見かけるおもちゃのような信号機がついていた。しかし、その信号機が点灯しているところを一度も見たことがなかった。交通整理は、専ら若い女性同務がやっていたのだ。
飛行機の中でも、黒人の顔を見かけることが多かった。アフリカ諸国と北朝鮮は、北朝鮮側からの一方的な経済支援という関係だけで成り立っていた。自国のアイデンティティーを強烈に主張する誇り高きこの国は、自国民を飢えさせてでも、数少ない不肖の子分どもの御機嫌を取り結ばねばならないのだ。
自国のアイデンティティーを少しも持たない日本が、国民の膏血から搾り取った金をばら撒き、ようやく国際社会の仲間入りをさせてもらっているように。
寒々とした道を、無彩色の服装をした市民たちが俯き加減で黙々と歩いていく。一切の装飾を排した地肌剥き出しの中層ビル群。至るところに見られるプロパガンダの文字列。葉を振るい落とした街並木。平壌の冬は、故郷の墨絵風の冬景色とはまるで違うのだった。
軍服姿の若者が異常に多かった。銃を吊った兵士が隊列を組み、市民の脇を何事も無くすり抜けて行く。一様に小柄だ。しかし、日に焼けて黒光りする肌、刺すような視線、敏捷な身のこなし、鍛えぬかれた紛れも無いプロの戦士たちに違いなかった。
主義や教義を掲げる集団の支配層は一般民衆を膝下に置く時、まず構成員一人一人に正帰還ループを形成させるところから始める。純な人間ほど発信回路のQは高いものだ。まず、そんな人々から見を焦がすような過度の発振現象が始まり、それにつられて大衆がどっと走り出す。
やがては、大衆の巨大なエネルギーが戦士の練り上げられたパワーと感応しつつ、その集団の主義や教義が波動となって他国をも侵食していくのである。
金日成広場を車は横切っていく。ここで繰り広げられる軍事パレードの映像は、扇情的なナレーションと相俟って、いつも風雲急を告げる緊迫感があった。しかし、実際に見る広場は人通りもまばらで、無機質な建築群の間にぽっかりと空いたただの空間に過ぎなかった。何処を探しても、映像を通して見せ付けられたあの熱狂の一カケラさえも落ちていそうになかった。
右手に小さく主席壇が見えていた。その後方、王宮風の巨大な建物は人民大学習堂だ。緑色の緩いカーブを描く三角屋根が、荒涼とした辺りの風景に少しばかり暖かみを添えている。
この建物は金王朝の宮殿として献上されるはずのものだった。どこにも愚劣な忠義者がいるものだが、今は図書館として使われている。
金日成広場から延びる勝利通り沿いのアパート群は、朝鮮戦争後まもなく、ソ連などの社会主義国の援助で建設されたものだ。それ以来殆ど手を加えられずにきてしまったようだ。かなり老朽化が進んでいる。
壁から張り出した欧風の彫刻は、当時としては随分と贅を尽くしたものだったに違いない。それが、深くひび割れて、今にも落っこちそうに見える。窓の鉄枠も消耗して針金のように痩せ細ってしまっている。窓ガラスが抜け落ちた壁面は、全体が巨大なジグソーパズルだ。
僅かに残された窓ガラスの波うつ表面からは、時を刻むことを忘れていたこの国の長い空白の年月が見えてきてしまうのだった。
建物の一階部分は、商店や、食堂や、人民班と呼ばれる隣組組織の仕事場になっている。
皆で集まって縫製でもするのか、古い型のミシンやアイロンが置かれた部屋もある。
窓越しに眺めるどの商店も、人気が全くなかった。日が当たる位置にあるパッケージは変色が甚だしかった。店内の棚に、わざとらしく、びっしりと並べられた商品は、どれもが陳列品なのだ。
魚介や野菜の絵を描いたほのぼのとするような看板もあった。しかし、そこには陳列品さえも置かれていなかった。
第4章 平壌高麗ホテル
4−1 労働党直営の最高級ホテル
平壌高麗ホテルは、党員数300万の朝鮮労働党が経営する最高級ホテルだ。この国の人口は1500万人といわれている。300万人で1200万人の人民を支配しているのである。
かつて、たかだか数十万の騎馬軍団が長城を乗り越えてやってきて、中国全土を300年の長きにわたり支配したことがある。満州族が建国した清だ。この地域では、つい一〜二世紀前まで、そのような国家の成り立ちが普通だったのだ。
高麗ホテルはツインタワー形式の超高層建築で、高層アパートが立ち並ぶこの地域でも抜きん出ていた。入国したばかりで地理に不案内な頃は、出歩く時の格好の目印だった。もっとも、志操堅固な案内同務が何処へ行くにも一緒だったから、道に迷う心配は全くなかったのだが・・・。
パンフレットでは、45階建て、客室数500、収容人員1000人となっている。実際には、一般客室は43階までで、それより上の階は海外からの訪問客に必ず割当てられる案内同務たちの宿舎だった。
私は焼酎のビンをぶら下げて、一度そこを訪ねている。43階から上はエレベーターがなかった。人気の無い殺風景な階段をトボトボと登っていったのだが、あまりの心細さに、途中で引き返そうかと何度も思ったほどだった。
しかし、たどり着いた先は、自分の部屋と同じ造りのツインルームで、何の仕掛けもなかった。考え過ぎなのである。
客室は1等室から3等室までランク付けされていて、9階の私の部屋は一番下のランクの3等室だった。
部屋の広さは、日本のビジネスホテルの倍ぐらいだ。装飾を一切排除した実用一点張りの内装で、TVと冷蔵庫と補助暖房用のオイルヒーターが置かれていた。しょうもないオスどもが長逗留でも発情しないようにという主席閣下の暖かい配慮だったのかもしれない。
これで、料金は朝食込みで170ウォン、日本円で約8000円だ。
4−2 点灯しなかった蛍光灯
部屋の中にあるユニットバスも、洗面台も、便器も、日本製だ。初日だけ置かれていた使い捨ての小さな練り歯磨きにまで日本語が書かれている。
石鹸だけがご当地製らしい茶色の硬いモノだったが、翌日にはそれも普通の白いモノに取り替えられていた。
プレートは朝鮮語のものに貼り替えてあったが、小型冷蔵庫と19インチカラーテレビも日本製だ。ところが、ドイツ製のオイルヒーターは、プレートがそのままなのだ。日本人の私は、ここでも強迫観念に苛まれなければならなかった
シンプルなベッドが二つ、人一人が辛うじて通れる隙間を隔てて置かれていたが、大柄の私には縦横ともいささか窮屈な大きさだ。
シルクの風合いの薄いベッドカバーは、赤や青の原色の地に色鮮やかな糸で花鳥風月を刺繍した艶っぽいものだった。滞在も長くなると、アガシ(娘)のチマチョゴリ姿と重なって往生したものだ。
広い窓からは平壌駅のヤードが見渡せるようになっている。休日の昼下がりなどは何処へ行くアテもなかったから、ぼんやりとここから外を眺めていることが多かった。そんな時、たまに、ほんとうにたまにだが、列車が引込み線に入ってくることがあった。蒲鉾型の、いかにも旧式の車両だ。どの車両にもほとんど窓ガラスが入っていなかった。間に合わせに、一部透明なビニールシートが貼ってあったりする。
老朽化し、部品調達もままならない機関車は頻繁に故障するらしいのだ。車両のやりくりがつかなくて、終には随分と遠くにあるものまで引っ張って来ることもあるという。その間、列車は線路の上で何時間も立ち往生することになる。
親族訪問に出かけ、厳寒の線路上で一晩立ち往生させられたという「金」の話を持ち出すまでもなく、鉄道輸送の疲弊は極めて深刻なのだ。
壁に60ワットの蛍光灯が取り付けてあった。ところが、この蛍光灯が、特に黄昏時は点灯したりしなかったりで、電気工学専攻の私を悩ませるのだった。
他に白熱電球の照明が付いていたが、電力不足から極めつけ暗かった。読み書きには、どうしてもその蛍光灯が必要だったのである。考えあぐねて部屋係のおばさんを呼んだら、「そのうち、点きますから」と、随分と冷たかった。確かに、ゆっくりと夕食をとり、部屋に戻って再び紐を引くと、蛍光灯は大抵煌煌と光を放ってくれるのである。
どうも、各家庭が一斉に電力を消費する夕暮れ時は、蛍光灯が点灯できなくなるほど電圧が低下してしまうらしいのだ。
この高級ホテルでさえも停電は珍しくなかった。特に、冬場が酷かった。自衛策として、小さなペンライトをポケットに入れて持ち歩くことにしていたものだ。
「危なくて、エレベーターには乗れないね」と、乗り合せた女性同務に真顔で話し掛けて顰蹙をかったが、このインフラでは、「自家発電機と直結している」と説明されても、おいそれと安心出来なかった。予兆が始まったら、じっと部屋に閉じこもる。これが、最大の防御策だった。
窓からは、遠くに火力発電所の大きな煙突が見えていた。そこから立ち昇る煙はいつも途切れ勝ちで、少しも元気が無かった。
「KEDOのプロジェクトが進行しないと本当に困るんです」。そう言う現地の人々の表情は真剣だったが、私も同感だった。
4−3 満天の星空
ツインタワーの最上階にある回転ラウンジに行ってみた。そこへ行けば、平壌が一望できるはずだった。その時期、営業は片方だけだった。内部は随分と暗かった。今思えば、これも電力不足のせいだったのだ。しかし、かえって落ち着いたいい雰囲気だった。一組の先客がいたが、我々と入れ替わるように帰っていった。
純白のブラウスと紺色のロングスカートで地味に装った接待嬢が、柔らかな微笑をたたえながら日本製のビールを運んできてくれた。脳裏を、ふと、古い記憶の中の女先生がよぎっていった。この国は、そのような時代にあるようなのだ。
窓越しに眺める平壌の街並みは厚い闇の帳に包まれ、星空だけが妙に明るかった。
ホテル前の大通りは「蒼光通り」と呼ばれ、平壌を訪れる外国人向けのショールームだといわれている。通りに面して小奇麗な高層住宅が建ち並び、一階部分には食堂か商店が軒を連ねる。
昼間見ると、プルコギ(焼肉)、センソングィ(焼き魚)、チョゲグィ(焼きハマグリ)、チジム(朝鮮式お好み焼き)、スパゲッティなどの慎ましくも素朴な看板たちが賑々しかった。しかし、どの店内にも人影はなかった。
一度だけ、スパゲッティの看板を出した店の前に10人ほどの行列が出来ていたことがあった。或いは、それぞれの店が日時を決めて営業していたのかも知れない。いずれにしても、我々外国人には無縁の存在らしかった。
そのメインストリートに、今は、街灯がただの一つも灯っていなかった。看板の控えめなネオンも、店内から洩れていた慎ましやかな灯りも消えて、漆黒の闇があたり一面に広がっているだけだ。
たまに通る車のヘッドライトが、歩道を歩く人々を影絵のように浮かび上がらせていく。まだ、闇の底では、予想もしなかったほどの多くの人々が、生活のリズムを刻んでいるのだ。
高層アパートの窓からは、どれも同じ色、同じ明るさの弱い灯火が洩れている。普通なら人々の生活する温もりや喧騒が伝わってくるものだが、じっと廃墟のように静まり返ったままだ。こんな冷え込む晩には、やはり、人々は布団に包まって暖を取る術しかないのだろうか?
青みがかった夜空に無数の星が瞬き、銀河の白い帯までがはっきりと見えている。これが二十一世紀をまじかに控えた一国家の首都の夜景だった。
部屋に戻り、弱々しい灯りを消し、ベッドに横たわる。すぐに、重厚な闇と無音空間が全身を包み込んでいく。神経が駆け巡る音さえ聞こえてきそうだ。子供の頃に苦痛だった本物の闇にそっくりだった。
午前6時。あたりは原始の森にいるような静けさだ。車、電車、テレビ、ラジオ、人、鳥獣虫魚、・・・。ここでは、音を出すありとあらゆるものの数が絶対的に不足しているようだ。
しかし、ナンとも快適な朝だ。これこそが我々の本来の住環境だったのだ。
カーテンを開けてみる。外は、まだ暗かった。時計の針は日本と同じだが、実際は一時間ほど夜明けが遅くなるはずだ。
窓の下がホテルの通用口になっていた。守衛所らしい一角から、白熱電球の弱い光が洩れている。そこを、幾つもの黒い影が横切って行く。
明るくなるにつれて、路上を黙々と歩く人々の姿が増えてくる。トロリーバスの乗り場付近にも、一列に長い行列が出来ている。並んで待つことの安易さを忘れずにいる日本人との同質性を感じて慄然とする。
悪夢の時代が過ぎて半世紀にもなるというのに、我々日本人もまた、未だに何があってもおとなしく列を作って待つことの習性を引きずったままでいる。
4−4 朝鮮定食
肝心のレストランは、もう一方の棟の3階にあった。そこに行くには、エレベーターで2階まで降り、吹き抜けのエントランスを取り囲むように設けられた連絡通路を通って、隣のタワーに移動しなければならなかった。
通路脇には、小さな24時間営業のスタンドバーがあった。午前7時を廻ったばかりだから、三交替で詰めているはずの愛想のいい接待同務嬢は奥に引きこもったままだ。銀の相場をひそひそと日本語で聞いてきた初老のエレベーター同務も、まだ出勤前だ。
3階でエレベーターを降りる。レストランは総ガラス張りの仕切りなので、外から内部の様子が良く見える。白いクロスが掛けられた四角いテーブルが50卓ほど、ゆったりと並んでいる。鏡張りの天井にはシャンデリアが幾つもぶら下がり、豪華というよりはとてつもなく賑やかだ。
正面と左手奥は、スライド式の扉で仕切られた個室になっている。右手奥が厨房らしい。若い男女の接待同務たちが、きりっとした制服姿で足早に出たり入ったりしている。
朝食はビュッフェスタイルだった。片側に寄せて白いテーブルクロスがかけられた長テーブルがL字型に並べられ、その上にずらりと料理の皿が載っている。何となくくすんで見えるのは、生鮮食品といわれる食材の不足によるものだった。山盛りにされた緑の葉っぱや赤い果実は、やはり、食の基本なのだ。
食材の貧しさと調理技術の荒廃は覆うべくもなかった。五味が交じり合うこともなく、てんでバラバラに自己主張している。どれもが調味料を欠いたレトルト食品だ。
昼食時と夕食時には素朴なメニューがテーブルの上に置かれる。藁半紙の綴りに、朝鮮語とロシア語で印刷された粗末なものだ。そこそこの品数が載っていたが、どれもが注文できるわけではなかった。予算と好みを加えると、選択肢はいくつも残らなかった。
最初の頃はメニューの中から拾い出していたが、それだと料理が出てくるまでが途方もなく長かった。食前のビールだけで腹いっぱいになったりするのである。後に在外同胞用の朝鮮定食があることを知り、それにしたのだった。これだと、ビールを1、2杯飲んでいる間に料理が揃うし、日本のビール(中国・香港で製造されたものだが)を1本付けても800円ほどで上がるので大助かりだった。
同行した在日同胞たちは、二週間の滞在費が3度の食事代も含めてわずか5万円だという。私は朝食込みで一泊8000円だから不公平も甚だしかった。
「海外同胞たちは貧富の別なく祖国への上納を強要されているらしい」と思っていた私の思い込みは、ここでも修正が必要だった。
やはり、いかなる国家や集団でも、良き普通の人々は、その痩身に多くの寄生虫を住まわせながら生きていかなければならないものらしいのだ。
4−5 外貨ショップ
ホテルの中には2箇所の外貨ショップがあった。入り口の直ぐ傍にあるのは、衣類と電気製品が主だった。展示品100%が輸入品だ。日本製品はここでも幅を効かしている。東芝の電気カミソリを買った時、ビザカードが使えたのには正直感動したものだ。
衣料品は女性物が多かった。どれも値札のゼロが多すぎて、誰が買うのかと不思議に思ったものだ。内部はいつも閑散としていた。案内同務が吐き捨てるように言った「陳列品」なのだ。
奥まった方は、食料品と日用雑貨が専門だ。ここには美人の接待同務が多かった。私は用もないのに、よくぶらりと入ってみたりしたものだ。
ここは、夕方になると、結構、現地の人々で混雑した。人々は、タバコ、焼酎、菓子などをぶら下げて帰って行った。
我々の社会なら、買い物はまず野菜であったり、肉や魚であったりするが、ここでは、そのようなモノはお金を出して買うものではないらしいのだ。
イチゴ、梨、ミカンなどの果物類は、何故か冷凍ケースの中に収まっている方が多かった。同じ冷凍ケースに、日によってはカレイやホッケが放りこんであったりするので、果物には餓えていたが、ここでは買ったことがなかった。
これら生鮮(?)食料品の品揃えは出たとこ勝負らしく、何があるかは行ってみなければ分からなかった。
靴売り場もあった。男物は十足ほどしか陳列されていなくて、それも現品限りだった。分厚い私の足にはいささか窮屈だったが、イタリア製の紳士靴を間に合わせで買ったことがあった。値段は8000円ほどだった。
その時、破れた自分の靴を指差して見せた案内同務にも一足プレゼントしてあった。帰国する前夜、その彼が私の部屋を訪ねてきて、朝鮮人参と平壌市内の名所を写した絵葉書を手渡すのだった。結構義理堅い人々なのである。
4−6 愛人がいる
3ヶ月の滞在期間中一緒のホテルに寝泊りしていた通訳の「柳」は、最も身近に接した朝鮮人だった。外交部から派遣されていたようだが、自分から身分を明かすことは決してしなかった。
「柳」は、私よりは2、3歳若そうだった。かつて世界卓球選手権試合が平壌で開催された時、日本側団長だった社会党代議士某の通訳を務めたこともあったらしい。確かに、彼は並外れた日本語の実力の持ち主だった。
断片的に話してくれた自分史では、母親がどうも日本人もしくは在日朝鮮人らしかった。しかし、確信が得られる所までは、彼は打ち解けてくれなかった。
「日本へ行ったことがあるんだよね」と、無邪気に洩らした同僚をきつく睨みつけた時の「柳」は、プロの顔に戻っていた。彼らの日本語の習得は、どうも手段を選ばず徹底して行われているようなのだ。
最後まで、彼には「日本」の影が纏わり付いて離れなかった。
その「柳」が、高麗ホテルに一緒に泊り込んでいた時だった。深夜いきなり私の部屋に押し入って来て、「Kさんがいるでしょう!」と、大声でわめき散らすのだった。
元来、この「柳」は何事につけても高飛車な方だった。酒でも入っているのかと思い、「知らない」と素っ気無く答えると、「何処に行ったか知っているくせに」と、更に容赦がなかった。
Kとは朝にレストランで顔を合わせたきりで、その後の動向など知る由もなかった。
「柳」は、否定する私の声には耳を貸そうとせず、一人芝居の役者のように、更に声を張り上げてまくし立てるのだった。
「(無断外出は)困るよ。私の責任だから。・・・・・・。Kさんたちには金持ちだから、外に愛人がたくさんいるらしいし。・・・・・」。何とも唐突な激白だった。
わざとらしいほどの大声で、念を押すかのように同じ言葉を何度か繰り返すと、台風一過、そそくさと帰って行ってしまうのだった。
私までもが、一緒に外へ遊びに行ったとでも思ったのだろうか? しかし、Kたちとは、女の世話をしたりされたりするほどの熱い関係ではなかった。私は事態が飲み込めずに暫く呆然としていたものだ。
「柳」の視線は時々私の頭上を通り越して天井や壁の方を泳いでいることがあった。明らかに、聞いてもらいたい相手は私だけではなかったのだ。
私は、その時思ったものだ。「このような方法でしか、金満在日同胞たちのご乱行を戒めることができないのだ」と。
私が北朝鮮に入る時は、必ず在日パートナーの誰かが同行した。しかし、現地では全くの別行動だった。それどころか、居所も知らされぬまま何日も顔を会わせないことさえあった。今思えば、何とも不可解な共同プロジェクトだったのである。
第5章 巨大古墳・錦繍山主席宮
5−1 偉大なる国家事業
「明日は行事がありますから」。用意周到な国にしては、何故か唐突に行事への参加を告げられることが多かった。
特にこの時は、私も強いて聞かなかったが、何があるのかも告げられていなかった。ともかく言われた通りに正装し、指定された時間にホテルのロビーで待つことにしたのだった。世界でも稀な知られざる国だ。何があるか分からない方が、到って気楽なことは気楽なのだ。
労働党の模範党員に違いない「安」同務がきっちりと約束の時間に現れた。彼は世話人兼監視係だったが、全身こちこちの「北朝鮮主義者」だった。彼に限らず、この国の人々の時間感覚は恐ろしいほど厳格だった。
そんな彼らからは、我々日本人が絡めら取られて身動きできないでいるのと同質の社会システムが見えてしまうのだった。「韓国にはなかったが、この国には肩こりという言葉が絶対あるはずだ」。私は、真面目にそう思ったものだ。
ホテルの前は、いつもより車の動きが慌しかった。悠長に挨拶などしていたら周りから咎められそうで慌てて車に乗り込んだ。
後続の車に追い立てられるように走っていた我々の車は、押し出されるように凱旋門脇の広場へと進入して行った。言われるままに待機していると、周囲には次から次と車が集まってきて夥しい数になった。
しばらくして、バスに乗り換えるように指示がでた。バスの中は、金日成バッジを胸に着けた人々で溢れかえっていた。私以外は、皆、身内なのだ。
「河」は、たなびく朝鮮国旗の真ん中に、壮年の金日成主席の顔をはめ込んだ図柄のバッジを着けていた。周りには違った種類のものを着けている人もいたから、金日成バッジと称されるものにも何種類かがあるようだ。
在日のパートナーたちは朝鮮民航の飛行機に乗り込むとすぐこのバッジをとりだし、胸に取り付けるのが常だった。その姿が校門近くになると慌てて制帽を取り出す悪童の姿とどうしても重なり、バッジそのものが安っぽく見えてしまうのだった。
そこは白亜の宮殿・錦繍山主席宮だった。高麗ホテルからだと、ストーレートに来ると15分ほどの距離だろうか。金日成主席の還暦を祝して建設された巨大な宮殿で、平壌の北東部の外れに位置し、総面積は100万坪ともいわれていた。1985年に竣工し、本館は地上4階建てとあるが、詳細は全く公開されていなかった。
北側にある幅が50mほどの川が堀の役目をしていた。V字型に切れ込んだ両岸の急な斜面はコンクリートで固められ、要塞の城壁のようだった。
橋の渡り口で、バスは停車を命じられた。小銃を携えた兵士がドヤドヤと車内に駆け上って来た。検問だった。彼らは、入り口の辺りで一渡り車内を眺め渡すと、そのまま立ち去っていった。儀式のようなものなのだ。
しかし、バスはなかなか動き出そうとしなかった。前方に、バスや乗用車が何台も並んで列を作っている。時間調整のようだ。川岸に沿ってグルリと鉄条網が張り巡らされ、石人かと見紛うばかりに佇む歩哨の脇を、威儀を正した兵士が大きく足を上げて巡回して行く。
やがてバスはゆるゆると橋を渡り、宮殿正面左側の車寄せに停車した。少し離れた場所には、真新しい大型のベンツが何台も並んでいた。ナンバーの頭に外(フェ)と書かれた外交関係者の車もある。今、北朝鮮と直接的な外交チャネルを持つ国は100余国にのぼるはずだ。直接的な外交チャネルを持たない日本やアメリカはむしろ少数派なのだ。
宮殿の屋上に高く掲げられた朝鮮民主主義人民共和国の横長の国旗が、冬の青空に絵のように美しくたなびいている。宮殿前の広場は、平壌市民がすべて動員されても埋め尽くしきれないほど広大だが、今は人っ子一人いなかった。
車寄せはごったがえしていた。金色燦然と輝く勲章を、背広の胸に幾つもぶらさげた老人たちが多かった。連れ添う婦人たちは美しいチマチョゴリ姿だ。我々と同じ種類の顔が多かったが、スラブ系の顔や黒人の顔もあった。
一人一人の名前が呼ばれる。吹きさらしの中、人々は順番に列の後ろに並ばなければならなかった。私の名前はなかなか出てこなかった。頃合を見て、「安」同務がかまわずさっさと列に割り込ませてくれる。
防寒具の着用が許されていなかった。すぐに、突き刺すような寒気が全身を襲ってきた。私はシャツやズボン下を重ね着していたが、それでもガタガタと体の震えが止まらなかった。正装した老人たちはもっと過酷だったに違いない。
長い人の列が吹きさらしの回廊から建物の中へと吸い込まれていく。回廊は対面通行だ。通路の中央には数m置きに制服姿の女性が立っていた。彼女たちの誰もが随分と大柄だ。軍服のような威圧感のある服装だが、こちらの多くの女性たちと同様に全身から優しさが滲み出しているような人ばかりだ。
親類の結婚式で著名な宗教団体の文化施設に入ったことがあったが、そこの案内嬢の雰囲気に似ていなくもなかった。
行き違う人々の姿がどんどん増えてくる。バスの中の人々と違い、いかにも人民大衆といった人達だ。軍服姿の無邪気な若い男女もいれば、町内会のおばさんたちもいる。真っ黒に日焼けした皺だらけの顔で、全身から農山村の日向臭いニオイを振りまいている一団まである。この人たちの背広姿は、どうみても借り物だった。
我々の入場に合わせて飛び出してきたかのような絶妙なタイミングだった。ともすると通行人Aに見えてしまう。多くの国民を動員して演じるショーの好きなお国柄だ。ここに来たら、時にはマジックを見るような観客の目も必要なのだ。
まだ3年の喪があけていなかった。それでも、大理石で葺かれた回廊の床は、はっきりそれと分かるほど磨耗が進行していた。このエネルギーの浪費ぶりは、生産大国・日本の住人にはどうしても理解できないことだった。
5−2 黄泉平坂
重戦車が通りぬけられるほど広大な回廊だった。天井も壁も、つやつやと磨かれた白い大理石と黒い花崗岩で精緻に組み上げてある。短いエスカレーターを上がったと思ったら、次は息が切れそうな長い階段が続く。 忽然と、動く歩道が出現した。長さが10mそこそこの何とも奇妙な代物だ。表面が波打つようにうねっている。ベルトコンベア―の上にただの黒い布を被せてあるだけのようにも見える。いつもの感覚で気軽に飛び乗ったら、ローラーの回転が靴底に直に伝わってきて転げそうになった。技術者の苦労の跡が偲ばれる逸品だ。
なおも、回廊は続く。彫刻と金色に輝く飾り金具を施した重厚な木の扉が、数ある部屋や通路を塞いでいる。所々に、警護の兵士が立っていた。その中に、立ったまま居眠りをしている兵(つわもの)がいた。彼等にすれば、ここは普通の職場だったのだ。私の中で、張り詰めていた何かが崩れ去っていった。
流れが停滞する。まさかのエアシャワー室だった。私も半導体の研究施設で日常的に使用していた時期があった。こんな用途もあるのかと感心したものだ。
列の後ろに並んで順番を待つ。これから先は、まさに核心部だ。狭い空間に閉じ込められ、エアシャワーを浴びていると足元でブラシが回転し、靴の汚れまで拭き取ってくれる。何とも妙な感覚だった。
そこを出ると、目の前に屈曲した長い階段が伸びていた。登り切ると、天井が更に高くなる。はるか行列の先に、純白の巨像が見えていた。フロックコートを着た若き日の金日成像だ。
像も、背後の壁も、純白だった。そこにオレンジとブルーの光線が照射され、その光のグラデーションが得もいえぬ神秘的な雰囲気を醸し出している。
四列縦隊に並び、頭を垂れ、順番に黙祷を捧げていく。厳かな調べが一人一人を癒すが如く、鼓舞するが如く流れていく。ハンカチで瞼を拭う人々がいる。皆、女性たちだ。
原初、釈迦の仏教には偶像が存在しなかった。釈迦の没後、権威も権力も好きな坊主どもがそれを発明したのである。社会主義国(独裁国家?)というのもよほどの偶像好きらしい。しかし、その偶像の活きの良さには辟易だ。
壮大な玄室だった。異次元の世界に迷い込んだような不思議な空間が、目の前に広がっていた。足を踏み入れた途端に、冥界に引き込まれそうになる。連綿と続く時の流れと果てしなく広がる空間がここに凝縮し、諸々の魂たちがひしめき合っているようだった。
明と暗がせめぎ合う不思議な明るさだ。スサノオノミコトが見たという根の国が、このような光景だったのかもしれない。
磨きぬかれた白亜の大理石と漆黒の花崗岩が、薄暗がりの中でつやつやと輝いていた。棺は白亜の大理石を幾重にも重ねた石組みの下に安置されていた。これは、隅持ち送り式と呼ばれる高句麗の王陵の伝統的なカタチだ。
そこだけが夕日の残照のような赤い光に照らされていた。透明なガラスの蓋で覆われた棺が浮き上がっているようにも見える。金モールで四方を隔絶された境を、人々は拝礼を繰り返しながらゆっくりと巡っていく。
身を乗り出し、手を伸ばせば、そのふくやかな頬に触れられそうだった。静かに目をつぶったその顔は恩讐を超越し、安らぎに満ちていた。もう偉大なる神でも恐ろしい専制君主でもなかった。欲望や煩悩やしがらみから解き放たれ、ようやく安らかな眠りにつくことができた人間の顔そのものだった。
人々の胸には万感の思いが去来しているようだ。男たちの鉄のような表情の中にも、はっきりと人間の心のざわめきが見て取れるのだった。女たちのすすり泣く声が聞こえる。身をよじって嘆き悲しむハルモニ(おばあさん)を、連れのハラボジ(おじいさん)が優しく支えている。全くの他人のはずの私でさえも、何故か胸がいっぱいになり、じわじわと涙が滲んでくるのだった。
激動する時代、歴史の一端を図らずも担わされ、主役のまま逝ってしまった稀代の英雄が、一人の人間に立ち返る時があったとすれば、この世に何を見て、何を思ったことだろうか。ようやく訪れた平安がこのまま永久に続くことを、私は祈らずにいられなかった。
周囲に普通の光が戻ってきていた。いつしか、流されるように幽明の境をくぐり抜けてしまっていたのだ。
故人の縁の品を納めた展示室がしつらえてあった。大きな特注品のベンツと、日本からはとっくの昔に姿を消した蒲鉾型の古めかしい車両があった。車両は内部が明るく調光され、中心に豪華な執務デスクがでんと置かれていた。
車両は、仔細に見ると、部品が一点一点手造りされた素朴なものだった。外側を厚ぼったく覆う艶の無い塗装が、車内の調度品の華麗さに比べてあまりにもみすぼらしかった。この集団が抱える悩みや矛盾を垣間見るようで哀しかった。
工業は、必要以上のものを生産し、それを必要でない人々にまで無理やり押し付けることで成り立ってきた。農業も漁業も、日々の糧以上のものを収奪するようになってパンドラの箱と化している。欲に駆られた人々の狡猾な知恵が経済といわれるものを発展させ、我々を後戻りの出来ない世界に駆り立てている。
主義や宗旨などという心地よい内向きの力に依存することに慣れ過ぎると、その集団は取り残され、そして孤立し、自滅の道を辿るしかない時代が来てしまっているのだ。
この世の楽園を目指した人々は、この世の現実に直面した今でも、神の依り代としての巨大なモニュメントを営々と建設し続け、空腹を紛らす為の聖なる呪文を唱え続けていかなければならないのだろうか。
再び、回廊に出た。人々の列は未だに途切れることがなかった。終わってみて、私は人々の顔が気になってしょうがなかった。重要な儀式の後にしては、彼らはあまりにも無表情なのだ。
この種の顔に、他でも出会っている。自慢の地下鉄に案内された時だ。地上から地下ホームまで、並行に上下二本のエスカレーターが動いていた。急勾配の長い長いエスカレーターだった。鈍い金属光沢を放つステンレスの側壁が一気に奈落の底へと続いていて不気味でさえあった。
下りの我々に比べ、上がってくる人々は、ステップから溢れんばかりに過密だった。しかし、ラッシュアワーの時の我々みたいに殺気立つでもなく、どの顔も仮面を被ったように無表情で固かった。
ホームの天井には巨大なシャンデリアが幾つもぶら下がり、壁には余すところ無く華麗なモザイク画が嵌め込まれていた。花鳥風月を模したのもあれば、現代画風のものもある。いずれにしても、絵巻物の主人公は金日成主席だ。地下宮殿と見紛うばかりの華麗さには、感動を通り越して呆れてしまうのだった。
唖然として見とれていると絶妙なタイミングで電車が入ってきた。中は薄暗かった。乗車率は50%ほどだ。ステップを踏んで中に入ると、街で見かける軽い表情がたくさんこちらを覗いていた。
幾つかの駅をまたたくまに通り過ぎ、案内に促されて何処とも知れぬ駅のホームに降り立つと、またもや長くて急勾配のエスカレーターが動いていた。ここでも、すれ違う降りの人々が異常に過密だった。どう数えても、乗客の数に比べてエスカレーターの上の人数は多過ぎるのだ。
第6章 平壌点描
6−1 打ち捨てられた巨大ホテル
私が宿泊していた平壌ホテルの窓からは、平壌大劇場が道路一本隔ててまじかに見えていた。その劇場の壁には、拳銃を斜に構えた民族服姿の女性を描いた大看板が一年間ずっと懸けられたままだった。
看板には、「ピバダ(血の海)」と大書されていた。「ピバダ」は金正日将軍が自ら製作にかかわったという有名な歌劇だ。抗日戦争を描き、当事者でもあった長老たちの喝采を浴び、金正日将軍の地位を決定づけたとも言われている。その名を冠した歌舞団まであるらしいが、私の滞在中に公演が行われた気配は一度もなかった。
この辺りは、平壌駅から伸びる栄光通りと金日成広場を貫き牡丹峰に至る勝利通りとが交錯する交通の要衝だ。そのせいか、いつも人々でごった返していて、ここだけは都市の街並みらしい様相を呈していた。
ホテルの周りを歩いていると、物陰から実に様々な人々が声を掛けてくる。得体の知れない時計を売りつけようとするおばさんの時もあれば、ボソボソと宿泊人の動静を窺がう老人がいたりと、実に様々だった。中には、「女はどうだ?」と言いたげなそぶりを感じることもあった。これは、私の妄想だったかもしれないが・・・。
彼らとじっくり話し込んでみたかった。しかし、この国だ。中にはサクラが雑じっている可能性だって充分にあった。必死に自制心を奮い興さなければならなかったのである。
近くに、大同江の川縁に沿って続く遊歩道への入り口があった。毎朝6時ごろ、私は決まって散歩に出た。最初の頃は同じホテルに泊まっていた案内同務がいつも一緒だったが、いつしか私一人だけになっていた。私は安全無害な人間だったのだ。
当局のルールに従っている限り、平壌での治安は完璧だ。片言の朝鮮語が話せる私にとって、一人歩きは何の不安も不自由も無かった。
ここの人々は禁欲的で、忍耐強くて、社会正義に厳しかった。そんな彼らに一挙手一投足を見られているかと思うと、不良中年は神経の休まる時がなかった。一人の散歩だけが、ホッとできる唯一の場でもあったのだ。
遊歩道に降り立ち、下流の方に目を転じると、大同江の中洲に羊角島ホテルが見えてくる。均整の取れたスリムな高層ビルだ。まだ国家経済に多少の余力があった頃、フランス企業と合弁で計画された事業だった。しかし、途中で合弁が決裂し、建設は工事半ばで中断されていた。
わざわざタクシーを拾い、そこまで見に行ったことがあった。同行した「河」が、えらくそのホテルが気になるようなのだ。在日の間では特別な関心事になっていたのかもしれない。
平壌ホテルからは、大同江を渡り、タクシーで十五分ほどの距離だ。近くに立つと、外壁が全面ガラス張りの見上げるような高層建築だった。中にも入ってみた。少数だが作業員もいて、少しづつだが工事は進められているようだ。
フランスが呈示したガラスの値段がべらぼうに高かったことが決裂の発端だったと、案内はもっともらしく説明を加えるのだった。
もう一つ、打ち捨てられたままの巨大ホテルがある。柳橋ホテルだ。完成時には105階、高さ300mの世界最大規模のホテルになるはずだった。
近くに佇むと、天を突くような剥き出しの巨大な石造物に圧倒されてしまう。頂上付近に、アームを広げたままのクレーンが取り残されていたが、それがまるで竹とんぼの様に小さく見える。
三角錐の造形は、今まで見たことのないものだった。この地の建築家は鬼才の芸術家でもあるのだ。
黒く影を作っている無数の空虚な窓が、髑髏の眼窩のように不気味だ。大魔人が髑髏模様のマントを翻し、地上の人々を威嚇しているようだ。
市内のあちらこちらから、この未完の三角錐が視界に入るようになっている。平壌市民がどんな気持ちでこれを眺めるのかと、随分気がかりだった。
6−2 釣人たち
6月に入ると、大同江にも釣りシーズンが到来する。朝夕は、街からの下水が流れ込む排水口の辺りは太公望で大賑わいだ。常連さんを大抵20人ほどは数えることができたものだ。
真夏でも、朝夕はひんやりする日が多かった。そんな時でも、彼らはズボンを太股までたくし上げ、流れに浸かりながらひたすら竿を振りつづけていた。
休日には、遊歩道沿いにも多くの釣り人が並ぶ。エサは、ハエか蛆虫かミミズだ。足元の緩やかな流れに乗って、手造りの唐辛子浮きが幾つも水面を滑っていく。しかし、どの浮きも微動だにしなかった。魚もそう簡単には食いついてくれないのだ。それでも、釣り人たちは飽きもせずに何度も竿を打ち返す動作を繰り返していた。
たまに、リール竿を使っている釣り人を見かけることもあった。ハエと毛ばりを交互に付けた仕掛けを遠くに飛ばし、ゆっくりと水面を引いてくる。たまに20cmほどのヤマベに似た魚が、餌を追っかけて水中からジャンプする。しかし、この魚も、なかなか針には掛ってくれなかった。
ぶっこみ釣りの釣り人は、いかにもベテランといった風で、川べりにどっかりと腰を下ろし、余裕の表情だ。狙いは、鯉や鮒の大物だ。千載一遇のチャンスを、釣り糸を絡めた針金の鈴の音に賭けているのだ。
この釣りをするには、厚紙に巻いた頑丈な釣り糸と、一方の端に布袋をぶら下げた長さが7、80cmほどの棒が、1組あればよかった。
布袋に釣り針を埋め込んだ握り飯ほどの大きさの芋団子を入れ、棒の一方の端を掴んで弧を描くように振り回して遠くまで放り投げてやるのである。あとは、護岸のコンクリートの上に腰をおろし、じっと魚信を待つだけだ。
休日にもなると、ポイント近くの河岸には、50cm置きくらいの間隔で、これらの釣人たちがずらりと並ぶ。しかし、生憎魚たちも休日らしいのだ。30cmぐらいのコイを手にした釣人を、2度ほど見かけただけだった。
韓国に始終出入りしていた頃、漢江の上流へ魚釣りの旅に出掛けたことがあった。浅い瀬を渡ると、素足に小魚がぶつかってくるほど魚影が濃かった。餌の川虫も豊富で、水中の石を拾い上げると、気味が悪いほど多くの川虫が這いずり出してきた。それをエサに、小魚の入れ食いを堪能したものだ。
我々は、漢江をさらに上流へと遡って行った。やがて、あたりは水墨画の世界に変わる。巨石、奇岩が累々と連なり、ひねた松が岩肌の隙間に枝を張り、荒々しくも情趣溢れる光景が旅人の目前に展開する。
足元の渓谷を、水晶を溶かしたような澄明な水が流れ降り、深みには小魚が煩いほどに群れていた。韓国は、河もまた豊穣なのだ。
子供の釣り好きは万国共通だ。木綿糸の先にナマリの板切れをちょこんと巻きつけ、その先に釣鉤をつけただけの仕掛けでゴリ釣りに熱中している。
エサは、水中の石の表面に点々とへばりついている小さな巻貝だ。巻貝を拾い上げ、歩道の上に置いて足で踏んづけると、鼻くそほどの身が飛び出してくる。それを素早く鉤に刺し、護岸の石積みの隙間に仕掛けを送り込む。すると、ヨシノボリやゴリがたちまち飛びついてきた。
坊主刈りの男の子達は、背はそれほど高くないが、誰もががっちりとしたいい体格をしている。半ズボンに半袖シャツという身軽な服装だ。ところが、半ズボンは雑巾を巻きつけたようにクタクタだし、肌に直に着たシャツには無数の虫食い穴が開き、透けて見えるほどに薄くなってしまっている。手製の布靴も、草履と見紛うばかりにペッタンコだ。
その子供たちも、登下校時は清潔で凛々しい制服姿に変身する。40年前の我々が、そこに居た。
6−3 ゴミの無い河
散歩の途上で、数人ずつのグループで路上のゴミを掃き出している主婦たちをよく見かけた。「女房まかせだよ」と、通訳の「柳」が煩そうに語る。掃除は、住まいの周囲も含めて、近所の住人たちがすることになっているのだ。この国全体が大きな自治会に見えてしまう。
専従者らしい垢じみた風体の中年女性も見かけることがあった。ゴミバサミを持ち、ボロボロの麻袋を背負い、放心したような顔付きで歩きまわっていた。平壌には、垢じみた人々はいないはずだった。ワケありに見えて、気になってしょうがなかった。
路上のゴミといっても街路樹の落ち葉ぐらいのもので、人工物が混じることは殆ど無かった。大同江の河岸でさえ、ペットボトルも、スーパーの買い物袋も、発泡スチロールの切れ端も、流れ着くことは稀だった。未だに、大同江の流れは、ことゴミに関しては清浄無垢そのものなのだ。
「子供の頃は、大同橋の上から川底が見えたのに」と、「柳」はため息をつく。確かに、大同江はどんよりと淀み、燃え尽きた老人のように生気がなかった。
幅8キロに及ぶ河口は、記念碑的構築物・西海閘門で閉じられてからかなり経つ。そのせいで、名物のボラは殆ど遡上しなくなっていた。もう開店することもなくなった街のスンオ(ボラ)料理屋だが、古びた看板はそのままにしてあった。
川岸の斜面を登った一段高い所にも、並行して遊歩道が通っていた。所々に鉄製のベンチが置かれ、白いペンキの塗装の名残が微かに残されていた。嘗ては、トウトウと流れる大河を見下ろすように並んだ白いベンチはなかなか粋だったに違いない。
ベンチには、藁半紙を綴じた粗末な本を膝の上に乗せた若者が座っていることが多かった。ビッシリと小さな文字が書き込まれたザラ紙に時々視線を移しながら、誰もが暗記に余念がなかった。
遊歩道沿いの柳やプラタナスは、見上げると首筋が痛くなるほどの大木に育っていた。枝から枝へと、カササギが気ぜわしげに渡り歩いていく。この鳥は大きさや形がカラスにそっくりなのだが、胸元から腹にかけて真っ白で、黒い羽には孔雀色の光沢まであった。奇妙な鳥で、容姿に似合わない「ギャー」というダミ声を発し、飛ぶよりは歩き回っていることが多かった。
日本でも、九州の一部にだけは生息しているらしい。渡来人の航跡とも重なるのである。
6−4 チャンマチョル(梅雨)
日本の梅雨が終わる7月中旬、平壌は本格的な雨季に突入する。朝鮮民族の熱い気性そのままに、バケツをぶちまけたような豪雨が一ヶ月近くも続く。
雨期の大同江は瞬く間に濁流と化し、水かさは日々増していく。やがて濁流は遊歩道を呑み込み、街との境界をなすコンクリートの壁際までひたひたと押し寄せてくる。
壁の出入り口には土嚢が積み上げられ、いつでも閉じられる態勢が敷かれる。深夜に、水陸両用艇のキャタピラの音で起こされることもしばしばだった。
何日かして水が引くと、遊歩道も芝生も厚い泥の下だった。その度に、市民総出で泥を洗い流す作業が行われる。老若男女大勢が繰り出し、泥だらけになりながら、リレー式に運び上げたバケツの水で何度も何度も川岸を洗い流していく。翌朝には、元の遊歩道が何事も無かったかのように続いていた。
雨季明けの8月中旬、工場のスタッフたちが、私の為に野会(ピクニック)が企画してくれた。車を連ねて大同江の上流まで行き、大鯉を捕まえて、魚好きの私にたらふくご馳走してくれるというのだ。
開催日前日に、軍用ジープに乗った偵察隊が派遣された。雨季開けの道路は、土砂崩れや鉄砲水でずたずたに寸断されているのが常らしいのだ。道路の補修は、近所の住民の人力が頼りだ。それに、この国は未だに口コミの世界だ。最新の道路事情は、自分の目で確かめるしかないのだ。
夕方になっても彼等はなかなか戻ってこなかった。周りは一様に浮かぬ顔だ。あらためて、旅の原点を思わずには居られなかった。
暗くなってから到着した偵察隊の報告は、「乗用車で行くのは無理だからトラックにした方がいい」だった。
翌日我々は賭けに出た。トラックは止めて、乗用車3台を連ねて工場を出発したのだった。旧型のベンツ、消耗しきったコロナマークU、博物館入りのはずだったロシア車が、波打つように続く小高い丘の麓を縫うように進んで行く。荒削りの、獣道のような道路だ。車の轍の跡など、目を凝らしても見つけることが出来なかった。
やはり、道路は至るところで寸断されていた。一人では到底動きそうもない大石を皆で退かし、抉れて川になった所には石を投げ込み、腹を擦り擦り進んでいかなければならなかった。
周囲の丘は、悉く耕されてトウモロコシ畑になっている。すでに、トウモロコシはかなりの背丈に成長していた。北の大地では、夏は足早に通り過ぎていく。
ようやく、谷あいの開けた場所に集落らしきものを見つけることができた。10軒にも満たない、小さな集落だった。ひっそりと静まり返り、人っ子一人見えなかった。この隔絶された村の生活を思うとやりきれなくなるのだった。
あまりの道のりに、この国が、我々の時代に追いつくことは、到底不可能な気もしてくるのだった。
6−5 金日成広場の主婦たち
大同江の河岸には、遊覧船が二隻係留されていた。案内同務は水上レストランだと自慢気だったが、後にも先にもついぞ客の姿を見かけたことはなかった。
ボート乗り場も二箇所に設けられていた。白鳥の形をしたペダル式の屋根つきボートも何隻か浮かんでいた。日本の行楽地の光景と少しも変わらなかった。
日曜日には、河いっぱいに浮かんだボートから子供たちの黄色歓声が遠くまで響き渡り、川面は足の踏み場も無いほどの混雑振りだった。元気な子供たちは、警備員の目を盗んでは遠くへ遠くへと漕ぎ出そうとする。制止する警備員の必死の声は全く無力だった。
遊歩道のほぼ中間地点に、金日成広場への上がり口がある。そこは対岸にある主体塔とを結ぶ渡し舟の船着場にもなっていた。釣舟ほどの大きさの船だが、朝夕の通勤時間帯に限って運行されているようだ。アジアの民族にしては珍しく、人々は整然と列を作り、船の到着を待っていた。
3、40段ほどの広い階段を登り切ると、眼前にとてつもなく大きい広場が出現する。金日成広場だ。朝鮮労働党の創立記念日には壮大な軍事パレードが行われ、その映像が世界中に配信されるから我々にもおなじみの空間だ。
対岸に目を転じる。高さが170mもあるという主体塔が否応無しに目に飛び込んでくる。その主体塔を挟むように、二筋の大噴水が大同江の流心から空高く吹き上がっていた。「100mの高さまで上がるが、日本にはこんなものは無いだろう」。いつでも愛国心いっぱいの案内同務が自慢する。
9月9日の建国記念日は残暑の厳しい日だった。市内には赤い横断幕やささやかな造花などが飾られていたが、いたって平穏な佇まいで、期待を裏切られた気がしたものだ。
メイン会場に当てられた金日成広場では、朝早くからチマチョゴリ姿の女性たちが集められ、行進やら踊りやらの練習を繰り返していた。チマチョゴリがいかにも借り物みたいで、全然似合わない人も多かった。
段取りを指示するマイクの声がひっきりなしに聞こえていたが、主役のおばさんたちはのんびりとしたものだ。ときおり強い陽射しが照りつけると、列の後方にいる人たちはすっと持ち場を離れ、建物の陰に集団移動してしまう。マイクの声が一際姦しくなるがおばさんたちは知らん振りだ。日が翳ると、ぞろぞろと持ち場へと戻って行く。
映像で見るこの国の国家行事はいつも悲壮感と緊迫感に溢れていたが、実際に見る舞台裏は何とも微笑ましい限りだったのだ。
6−6 謀略の主役たち
玉流橋の近くに、いわく因縁つきの建物がある。水産物百貨店だ。古びてはいるが5階建ての結構な建物だ。ここは、以前、韓国の世界的な映画人・申相玉と崔銀姫元夫妻が主宰した申フィルム映画撮影所が経営していた会社だった。元夫妻といったのは、申相玉監督には若い女優の愛人がいて、早い時期から二人の夫婦生活は破綻していたからだ。
平壌の水に大分慣れた頃だった。通訳の「柳」が「海鮮料理屋があるはずだ」と、通りすがりにこの建物を指差したのだった。大の魚好きが、随分長い間、魚らしい魚を口にしていなかった。目の前に美女と海鮮料理を並べて好きな方を選べと言われたら、迷わず海鮮料理に齧り付いていたに違いない。その言葉を聞いて、私は金縛りに状態になってしまっていた。
正面扉が閉まっていたので裏にまわり、小さな扉を開けて中へと入ってみた。階段伝いにざわめきが伝わってくるが、百貨店とは程遠い雰囲気だった。正面にまわってみる。大きな水槽があった。しかし、中身は空っぽだ。
いつも自信満々の「柳」の様子がおかしかった。どこかオドオドと落ち着かないのだ。何かを感じ取ったようだ。ここは「柳」の範疇を越えた特殊な場所だったのだ。私は、「柳」のプライドを傷つけないように言葉を選び、退却の意思を伝えるしかなかった。
申フィルム映画撮影所は、香港経由で拉致されたとされる申相玉と崔銀姫が金正日書紀の全面的な支援を受けて北朝鮮で運営されていた映画会社だった。申相玉監督は、拉致されたとされる時期、韓国国内で政治的な圧迫と活動資金の困窮に直面していたとも言われている。私には、彼らの方から秋波を送り続けたような気がしてならなかった。
暫く北朝鮮で活動した後、1984年、両人は手を取り合い東欧のロケ先からアメリカへと逃亡した。映画製作資金として北朝鮮側が用立てて、既に海外送金してあった200万ドルをフトコロに入れてだった。
現地の指導員たちは皆この話を知っていた。この建物の傍を通る時にその話を持ち出すと、誰もが「ちぇっ」と舌打ちして険しい顔をするのだった。
日本に帰ってからの話だ。あまりにも低俗な民放は、TVでもラジオでもニュース以外は点けないようにしているのだが、この日は大韓航空機爆破事件の主犯・金賢姫が出るということでチャンネルを合わせて待っていた。海外の出来事も、いざ自分が関わっている国のこととなると気になるものなのだ。
私は北朝鮮で実に様々な人々と接触していた。その誰もが、頬擦りしたくなるような好漢たちだった。だから、そのような過激な事件を引き起こすことも出来る朝鮮人のタイプを是非見ておきたかったのである。
彼女の身柄は豪腕、辣腕で知られる韓国の情報機関KCIAの拘束下にあった。しかし、北朝鮮の闇を暴露したベストセラーを何冊もモノにし、公衆の面前にも度々登場するなど、極悪犯罪人とはおよそかけ離れた処遇を受けていた。韓国人を良く知る私には、それが全く理解できなかった。
意外にも、彼女のインタビューは日本語で始まった。彼女の日本語を聴いていて、すぐに私の脳天に強い衝撃が走った。日本人を拉致してまで訓練したにしてはあまりにもお粗末な日本語だったのだ。平壌のホテルのフロント嬢などが話す完璧な日本語とはまるで違う種類の言葉だった。
更に奇妙なことに、発音もアクセントも、韓国の盛り場の女性や赤坂の韓国クラブの出稼ぎ女性が話している日本語に相違無かった。
「オイオイ、大丈夫か」。私は、思わずTVの画面に話し掛けてしまったほどだ。犯罪捜査において、その人の話す言葉が指紋などと同様に犯人特定の重要な決め手になることは素人でも知っている。私は、推理小説じみた発見に何度も身震いしたものだ。
6−7 凧に書かれた朝鮮統一の文字
厳冬期、平壌はマイナス25℃ぐらいまで気温が下がる日が続く。大河・大同江も冬の間はびっしりと厚い氷に覆われる。
照る日も、凍る日も、平壌市民の移動は自分の二本の足だけが頼りだ。冬場、厚い氷が張った大同江は、そんな彼等の有り難い近道だった。岸辺には大きな亀裂が幾筋もできていたが、大人も子供もそれを器用に乗り越えて大同江の氷上へと乗り出していく。
平壌も、うっすらと積もる程度だが、年に何度かは積雪に見舞われる。日中でも氷点下は当たり前だから、そんな雪でもいつまでも消えずに残っていることが多かった。雪が降り、それが日中の日差しで融けて夜に再び凍った坂道は、子供たちの恰好の遊び場だ。使い込んだ長靴は、そのままでスケート靴に変身だ。腕白どもは身一つで次々と坂を滑り降りて来る。
手製のソリで滑降してくる子供たちもいる。逆三角形の台だからバランスをとるのが大変らしい。途中で転げてソリだけが滑ってきたりする。
凧を揚げている子供たちがいる。白い凧に「朝鮮統一」の文字が黒々と書かれている。この子たちの時代に、彼らが繰り返し聞かされてきたような「統一」が果たして訪れるのだろうか?子供たちの無邪気な顔を見ていると、大人たちの身勝手さが恨めしくなるのだった。
教育は、その結果が出るまで半世紀を要すといわれている。今仮に悲願の統一が達成されたにしても、新しい国家体制を担う新人類が育つまでは、戦後北朝鮮が辿ってきたのと同じくらいの歳月が要る。
集団というものは同じ権力構造が続く限り累々と慣性を蓄え込んでいくものだ。途中で軌道修正するには、それまでに費やしたエネルギーとは比較にならぬほどの膨大な負のエネルギーが必要だ。他人事ながら、暗澹たる気持ちになってしまうのだった。
6−8 ダイヤモンドダスト
川縁の散歩は、厳冬期の朝でも欠かさないようにしていた。プロジェクトなるものは本来なら組織で支えるものだが、私のたった一人のプロジェクトになってしまっていた。頭のてっぺんにまで集まりだした憂鬱の霧を振り払うには、一人で黙々と、ただひたすら歩くしかなかったのだ。
一段と冷え込んだ朝は、街路樹の小枝に付着した霧氷がガラス細工のようにきらきらと輝いて綺麗だった。朝の光に透かして見る空に煌めく無数の微粒子が浮遊し、私だけの空間を幾層にも凝縮したダイヤモンドダストが舞った。
10分も歩くと、爪先から寒気が駆け上ってきて足首が痺れてくる。フードをすっぽりと被っているのに、わずかに露出した頬が刺すように痛かった。皮の手袋も全く無力だ。防寒具のポケットに深く突っ込んでいても指先がじんじんする。瞬きを怠ると直ぐに睫毛がくっ付き、再び瞬きが出来なくなってしまう。
平壌ホテルでも大同江ホテルでも、自分の部屋から一歩外へ出れば、気温は外と少しも変わらなかった。廊下を行くにも、食堂へ出入りするにも、防寒具は必需品だった。
室内は異国での一人暮らしには余りにも寂しすぎる明るさだった。60Wほどの電球でも、ろうそくの灯りほどの明るさしかなかった。電力不足で、電圧が極限まで下がってしまうのだ。
床に直に張り巡らされた電気配線は、被覆が変質してボロボロだ。誤って蹴躓き、何度ショートさせたことか・・・。普通ならフューズが飛んで真っ暗になるはずなのだが、部屋の電気は結構しぶとかった。
不思議に思って配電盤を覗いて見たら、フューズホルダーを太い銅線で直結にしてあった。
6−9 後ろにいた保安要員
外貨食堂でも、バーでも、一目でそれと分かる保安要員がいつも耳をそばだてていた。飲み食いに夢中になっていると、遠くにいたはずの人が、いつのまにかすぐ後ろの席に座っていたりする。「・・・。」同伴者は、目で、無邪気な私に合図を送る。
高麗ホテルで工場の幹部を接待したことがあった。彼らも監視の対象だった。恐らく、平壌地域以外から、それも工場の人間をこのホテルに引き入れるにはそれなりの手続きが必要だったに違いない。案内同務のそわそわと落ち着かない挙動がそれを物語っていた。
しかし、ここの人々は誰もが大層プライドが高かった。私には何も言わないのである。私の無邪気かつ奔放な振る舞いに、案内人と称する監視人たちは、その事後処理にほとほと手を焼いていたに違いない。
6−10 平壌の高級クラブ
歌舞団なるものが、集団のプロパガンダに欠かせない道具であることは言うまでもない。在日朝鮮人社会には、未だにそのような歌舞団がいくつか存在する。なかでも磐石な地位を保っているのが「金剛山歌舞団」だ。
その金剛山歌舞団のスターたちと、高麗ホテルで一緒になった時期があった。そこの男性歌手の「姜」と「河」とがロビーで意気投合したようだ。平壌を良く知る「姜」の案内でカラオケクラブに行く密約が成立したのだった。
私は、灰色のチョンガー暮らしが何十日も続いていた時だった。正直、胸の鼓動が外に聞こえはしないかと心配するほど高鳴ったものだ。
在日の帰国者が経営するそのクラブは、高麗ホテルから徒歩でも行ける場所にあった。酷く高揚した私は怖いもの知らずになっていたようだ。街灯一つない夜の街並みを、何処とも知れずに連れて行かれるのは、今思えばかなりの勇気が要ることだったが、その時は少しも気にならなかったのである。
我々は、監視の目を無事潜ったつもりでいた。しかし、案内人がやってくるまで、そう長く時間はかからなかった。我々の行動は全て筒抜けだったのだ。
案内は険しい顔を最後まで崩さなかった。「河」に何か言いたそうだった。しかし、私がいたせいか一切口を開かず、終始憮然とした態度で抗議を続けるのだった。
そのクラブは外見には倉庫のような建物だったが、内部はまさしく男たちが好きな空間になっていた。日本製のカラオケセットも、ミラクルボールも、赤や青の原色の照明も、そして、美しいアガシ(娘)たちも、全て揃っていた。客席も、思ったよりは随分と広かった。
客は、他には二組しかいなかった。一組はカップルだった。男の方は在日朝鮮人で、ホテルや外貨食堂でしょっちゅう見かける顔だった。彼は、日本と北朝鮮との間を頻繁に行き来しているらしかった。
もう一人はかなりの年配で、既に泥酔状態だった。フラフラと歩き回り、他の客や接待嬢にチョッカイをだしている。我々の席にも寄ってきた。「河」が断片的に通訳してくれる。彼は、このクラブの経営者の弟だった。私が日本人だと分かると、厳禁であるはずの日本語まで飛び出してくる。
青森の出身だという。それにしてはナマリがなかった。身の上話などは用心するに限る。私は多くを語らないようにする。
異常にしつこかった。「相手にするな」と、「河」が目配せをする。酔っ払いの全身からは、行き場の無い焦燥感が濃く立ち込めていた。どこかの国と同じで組織のたてまえが全てに優先する国だ。権力に連なる人々と違って、善良なる一般市民はそのたてまえの論理から一歩も足を踏み出すことを許されていないのだ。「思想」が無ければ、ここでの生活は絶えきれないに違いない。
民族衣装を纏った綺麗な娘たちが擦り寄ってくる。照明の明るさや色温度が、暫く眠っていた五感のある部分を揺り動かしに掛かる。
ここは平壌の赤坂村だ。赤い金魚のような口元を「アーン」と開けて見せ、チョコポッキーをくわえさせてくれたりする。欲求不満のオジサンは、それだけでも錯乱しそうになってしまうのだった。
透けるように薄いチマを介してお尻のホッペがそっと触れ合っているのだが、頭の中ではちゃんと垣根を取り払ってしまっている。チョゴリに包まれた小粒のオッパイまでが透けて見えてくる。
一匹のまんまの干しスルメや干ダラが登場したら興醒めだったが、料理もそこそこ本格的だった。初恋の彼女の福やかなふくらはぎに、蚊に食われた痕を見つけた時のような幻滅感を味合わずに済んでホッとしたものだ。やはり、遊びは現実離れしている方がいい。
今宵はスポンサーの「河」が主役だ。何度か他でも耳にしたことのあるネタを、取り囲んだ娘たちに披露している。深夜に帰宅した折に、シャツについた口紅を女房に咎められる話だ。娘たちはキャッキャッと大喜びだ。笑いというものは、やはり共通の文化や言語の上に成立するものらしい。私には、少しも面白くなかった。
酔っ払いの寂しい帰国者は懲りなかった。未だしつこく他の客や娘たちに付きまとっている。無視されると手負いの熊みたいに室内をうろつき回ったりする。
そのうち、責任者と思しき接待嬢の尻を触ったようだ。ものすごい剣幕で、彼女が抗議する。「そのうち連れて行かれるぞ・・・」。「河」が耳打ちした。片隅で、じっと一人で座っている人民服姿の男性がいた。50代半ばぐらいの恰幅のいい高級幹部タイプの人物だった。てっきり酔っ払いの連れかと思っていたが、彼こそ何処にでも潜りこんでいる保安要員だったのだ。
この国では、「善い子」でさえいれば何処にいても安全は保障される。しかし、悪い子だった件の酔っ払い氏は、とうとう身体を抱きかかえられるようにして外へ連れ出されてしまった。
器量良しの接待同務たちは「歌を唄って!」と、色っぽくせがんでみせる。「姜」は声量豊かな歌を披露して、彼女たちの拍手喝采を独り占めだ。日本の歌もここでは朝鮮語の歌詞がつく。「昴」も「雪が降る」も朝鮮語だ。
「河」も朝鮮の歌を幾つか唄った。私も韓国歌謡なら一曲や二曲は歌うことができるが、ここでは一応自粛することにする。
接待嬢に日本の歌を催促してみる。「唄えるのは朝鮮の歌だけよ」と、愛想良く逃げられてしまった。それでも一緒に舞台に上がり、唄い終るまで艶っぽい笑みをたたえながら傍にいてくれる。チマチョゴリにそっと身体を押し付けてみた。カサカサと乾いた音がした。
翌日、「河」は無断外出をきつく咎められたようだ。さすがの若大将も終日元気がなかった。
6−11 人民大学習堂の蔵書
金日成広場を見下ろすように建つ宮殿風の壮大な建物が人民大学習堂だ。緩い勾配を見せる緑色の瓦屋根が美しかった。当初は金日成主席の王宮になるはずだったが、今は「人民大学習堂」という名の図書館になっている。
近くで見ると、とてつもなく大きな建物だ。内部には、書庫、閲覧室以外にも会議室、視聴覚教室、サロンなど600室余の部屋があるといわれている。「この素晴らしい建物は、全ての人民が使えるようにしなさい」。金日成主席の有難い御指導があったと案内は力説する。
世界中の書籍が3千万冊も所蔵され、外国人は入るのが難しいと喧伝されていた。しかし、それは巷説に過ぎなかった。私でも随時利用することが可能だったのだ。3度ほど入館したが、その度に利用者の多さに驚かされたものだ。
入り口の掲示板には、中国、ロシア、日本の新着図書案内も張り出されてあった。日本のものは科学技術関連の学会誌の紹介だった。
中年の女性同務が、ゲート式になっている入り口まで迎えに来てくれて、3階にある閲覧室まで案内してくれるようになっていた。妙に横揺れのするエレベーターだった。
天井が随分と高くて壁も床も大理石造りで豪華だが、照明が暗いせいで妙に陰気臭かった。
蔵書は国際ルール通り、カード式で分類されていた。私には、関連する分野のカードを引き出しごと持ってきてくれる大盤振る舞いだった。概して古いものが多かったが、日本の工学図書はかなりの数が集められているようだ。JISのハンドブックなども最新版が全巻揃えてあった。コピー機がなかったから、ひたすらメモを取るしかなかった。
日本図書専門の書庫に直接案内してくれたこともあった。閲覧者はそれほど多くは無かったが、それでも20人ほどはいたような気がする。書架にある書籍だけでも、八重洲のブックセンターのワンフロア分はありそうだった。
感動したのは、女性係員たちの自然でこぼれるような親切心だった。日本でも、私は図書館をよく利用するが、何処の図書館も親切な人が多かった。同じ役人でも、図書関係者だけは特別のようだ。
6−12 美容室と理容所
他国に初めて足を踏み入れた時、強烈な印象となって記憶に焼き付けられるものが一つや二つは必ずあるものだ。平壌では美容室と理容所がそれだった。商店の少ないこの国で、美容室と理容所が、それぞれ4,5軒も軒を連ねていたのだ。
それらは、工場の行き帰りに毎日通る勝利通り沿いの一画にあった。朝8時半頃に決まってその前を通りかかると、既に待ち人の列が出来ているのだった。同じ通りにある少しばかりの商店は、時間帯に限らず人気が全く無かった。あまりにも好対照なのだ。
私は不精な性質で、散髪はパーマも兼ねて2ヶ月に一度のペースだった。当地でもその様にしていたら、通訳の「柳」が、「鬼神みたいですよ」と冗談めかしながら、それとなく注意するのだった。
確かに、そう言われて改めて辺りを見回すと、ここの男たちの多くは、頭髪に限らず隙が無いほどきっちりとした身なりをしているのである。
なかでも、頭髪は特別だった。誰もが、こざっぱりと裾を刈り上げ、髪をしっかりと撫でつけて歩き回っているのだ。奇妙なことだが、白髪やハゲも全く見当たらなかった。過剰反応する質の私は、白髪染めまでして再入国したこともあった。
この国は、中国がそうであったように、モノもサービスも二重価格制を取っていた。理容料金もそうだった。我々外国人は、件の大繁盛している理容所には入れず、ホテルの中の理容所や美容室を利用しなければならなかった。
大同江ホテルの理容所と美容室は、別棟の粗末な建物の2階にあった。利用する時は、まずホテルのフロントにお金を払い、半券を持って別棟に移動することになる。料金は5ウォン、約300円で、日本の物価からすれば安かった。
営業は午前9時から午後5時迄で、日曜・祭日は通常休みだった。しかし、営業時間外でも予約を入れておけば、いつでもやってもらえることになっていた。
ここは、私と同年代の男性が一人でやっていたが、善良を絵に描いたような人物だった。彼は椅子などの備品を指差し、それらが日本製であることを告げることで日本人の私に親近感を現わそうとするのだった。器具や装置に限らずシャンプーやヘヤートニックなどの化粧品も、全て日本製だった。
中国人と思しき先客が二人いたが、仕事が速くて待ち時間が少しも苦にならなかった。すぐ私の番が来たが、散髪もヒゲソリもあっという間だった。
洗髪の際にお湯が出なかった。言葉でいたわりながら水を掛けてくれるのだが、ぞくぞくするほど冷たかった。
平壌ホテルの理容所はフロントの並びにあった。やはり隣が美容室だった。理容所の亭主は、私のパーマ頭をみるなり、「大同江ホテルの美容室が上手だよ」と牽制するのだった。隣の美容室とはうまくいっていないようなのだ。
ここも、10分ほどで仕事は終わりだった。鏡には、うちのかみさんが冗談半分に刈ったような仕上がりの私が映っていた。それでいて、大同江ホテルの倍の10ウォンも請求するのだった。
料金は、帰りがけにホテルのフロントで払えばいいことになっていた。ところが、次の客が待っているというのに、彼はのこのこと私の後ろを追いかけてくるのだった。
高麗ホテルの地下にある美容室を利用したこともあった。ここも、器具や化粧品は全て日本製だった。椅子が3つ有り、30代半ばぐらいの女性美容師2人が詰めていた。大抵空いていて飛び込みでも待たされることはなかったが、品のいいご婦人が絶妙なタイミングで入って来て、一度だけ後回しにされてしまったことがあった。このご婦人の場合は二人がかりだった。おそらく、相当な身分の御仁だったに違いない。
ここの美容師も、とにかく仕事が速かった。パーマ、カット、洗髪のフルコースでも1時間とかからなかった。料金は25ウォン、約1500円と、ここの物価水準から見れば結構な値段だった。
6−13 野糞の怪
平壌は、世界でも希に見る清潔 な街だった。路上のどこにもチリ一つ落ちていなかった。しかし、それは、何も清潔好きな国民性によるのものだけではなかった。この国が排出するゴミの絶対量とも深く関係していたのだ。ここでは、ゴミも出ないくらいにモノが絶対的に不足しているのだ。
その清潔な街に、驚くほどの密度で野糞がばら撒かれている一角があった。近くにバスターミナルがある金策工業大学の前の辺りがそうだった。
幹線道路の植え込みの陰も、大同江の土手の草叢も、何故か糞だらけなのだ。犬を連れ歩く人はいなかったから人間のものに相違なかった。散歩していると、夏の暑い時などはこれが酷く臭うのである。
そのモノだが、とても食料不足の国のものとは思えないほど、量といい、色といい、立派な代物なのだ。隣の平城市でも見かけたが、それと比較すると量にして3倍、質にして10倍もの開きがあるようにも見えるのだった。
キュウリが盛んに獲れていた時期だった。平城市のそれは穀物少々とキュウリが大半で、哀しくなるほど貧弱だった。
農村では中腰でわらわらと藪陰に消えていく女たちや、道端の窪地にしゃがんで雉撃ちの最中の男どもを見かけたものだが、平壌に限っては一度もそのような現場を目撃したことはなかった。
ほろ酔い加減で大同江に向かって発射しようとして案内同務に咎められたことがあったほどだから、本来あってはならないことだった。
古いアパートは共同便所だ。朝のウンチタイムは満員盛況に違いない。まだ薄暗いうちなら外でも隠れて出来る。
二日酔いで自律神経の調子が狂い、満員電車を飛び降りてトイレに並んだ時の苦痛が蘇ってくる。
「冬でも水を被るんだ」と、勇ましい話をしてくれた幹部がいた。蒼光通りの幹部用の高層アパートでさえ風呂のお湯が使えるのは月の内2、3回ていどのものらしいのだ。
この怪現象からは、この国の深刻な上下水道事情が見えてくるのだった。
第7章 長寿山ホテルからの撤退
7−1 浴室に忘れた垢スリ
平城市は平壌から北へ車で4、50分ほどの所にある。そこが我々のプロジェクトの拠点だった。プレス工場も、組立工場も、長寿山ホテルからだと車で15分とかからなかった。
1996年の6月中旬に2度目の北朝鮮入りをした我々は、高麗ホテルで一泊し、翌日直ぐに平城市にある唯一のホテル・長寿山ホテルへと移動した 在日の「鄭」が一緒に付いて来ていたが、彼は一泊しただけで平壌へ帰って行った。あまりにも露骨で、女衒に売り飛ばされる娘の心境を思いやったものだ。
ここで3ヶ月もの間一人で暮らすのかと多少心細かったが、それ以上でもそれ以下でもなかった。好奇心があまりにも先行していたせいで、実際のところは案外苦にならなかったのである。
長寿山ホテルは3階建てで、2階と3階が客室になっていた。客室は全部で40室もあるだろうか?随分と、こじんまりしたホテルだった。
割り当てられた部屋は2階のツインルームで、日本のビジネスホテルよりは5割方広かった。通訳と現地商社の指導員が一緒に滞在することになっていたが、彼らには同じ階の4、5室隔てたあたりの部屋が割り振られていた。
窓の外は一面の緑だった。北の大地がもっとも生命力に満ち溢れる季節だったのである。両開きの古ぼけた窓を開け放つと、甘い草の香りと一緒に招かざる蚊や羽虫までもがワンサカと押し寄せてくる。私は、紛れもなく清浄無垢な大地の息吹の中に佇んでいた。
案の定、机の引出しには蝋燭が入っていた。この地域の電気事情は、やはり危惧した通りだったのだ。停電を経験するのは、10年前のインド滞在以来のことだった。
辺りが真っ暗になると、思考は過去へ過去へと遡って行き、いつの間にか少年時代の記憶が蘇ってくるのだった。無知で、野蛮で、素朴で、繊細で、優しくて、・・・、モノも金もなかった時代だったが、いまより輝いている私が、いつもそこに居るのだった。
ここでも、日本製の冷蔵庫とカラーTVはプレートをそっくり現地のものに貼り替えてあった。在日の実業家が、TVの組立ラインをそっくり寄進したことなどもあったようだから、或いは、そのような工場でノックダウン生産された製品だったのかも知れない。
TVは室内アンテナで受信するようになっていたが、電波が微弱で映りが悪かった。更には、金父子の業績を称える宣伝放送ばかりが流されるので、私はすぐにTVのスイッチを捻る習慣を放棄してしまった。
浴室兼トイレは、蛇口という蛇口から、かなりの勢いで水が漏れだしていた。排水口から立ち昇るアンモニアの刺激臭も半端でなかった。歯を磨く時、もどしそうになって閉口したものだ。
何日かに一回はお湯を出してもらう約束になっていた。しかし、ホテル撤退の日まで、この約束は一度も果たされることがなかった。ただの2晩を除いて、客はずっと我々3人だけだった。無理もないのだ。
夏の盛りでも、朝夕の部屋のなかは冷やっとする。水道の水も冷たかった。この水を裸に被るにはかなりの思いっきりが必要だった。冷たい水は泡立ちも悪かった。髪は幾ら丁寧に洗ってもごわごわしたままだった。
部屋係の女性同務は40代半ばぐらいだった。彼女が、ただの接待同務でないことは、時折見せる傲慢な表情と鋭い視線から明らかだった。
その前にも、同じ類の接待同務を高麗ホテルで見ている。たまたま工場へ行くのを中止して自室でぼんやりしていた時だった。中年女性が、何の前触れもなしに部屋の鍵を開けて入ってきたのである。私と顔が会うと、悪びれもせずに、「居る方が悪いんだ」と言わんばかりに睨みつけて悠然と部屋を出て行くのだった。
きつい方言なので、朝鮮語初級の私には、件の女性の言葉は殆ど聞き取れなかった。通訳でさえ、「何を言っているのか分からない?」と首を傾げるぐらいなのだ。当然、良好な人間関係など望むべくもなかった。
毎日コルク栓式のポットに熱いお湯が入れてくれてあった。このお湯で入れるコーヒーや緑茶が意外に美味かった。いや、「美味い」と思いこみたかっただけかも知れない。いつしか、コーヒーや緑茶をすすることが、日々の儀式のようなものになっているのだった。ここでの暮らしはそれほど単調だったのである。
それにしても、コルク栓式のポットを使ったのは何十年振りだったろうか?
ホテルの洗濯代も、長逗留だと結構な金額になるものだ。海外出張が長かった私は、何処の国でも、洗濯は自分の体と一緒にすることにしていた。この時もそうだった。もっとも、ここではバスタブにお湯を張ることが出来なかったから、体と一緒という訳にはいかなかったのだが。
洗剤まで持参してあった。しかし、これは少し用意周到過ぎたようだ。外貨ショップの棚には、中国製の洗剤が潤沢に並んでいたのだ。
朝に洗濯物を吊るして出掛けると、夕方には下着の類までアイロンがけし、綺麗に畳んでくれてあった。随分と得した気分でいたら、ホテルを出る時に結構な洗濯代を請求されてしまった。案内に抗議をしたら、「俺の知ったことか」と、随分と冷たかった。
食事の酷さに音を上げてホテルを逃げ出した翌日、浴室に掛け放しにしてあった垢すりを取りに戻ってみた。傍らで通訳の「柳」も「私も見たけどな?」と首を傾げるのだが、彼女は「そんなものは無かった」と声を荒げるのだった。
7−2 寂しい食卓
食堂は1階にあって、窓からは広い前庭が見渡せるようになっていた。一室の真ん中が病院にあるような簡単な衝立で仕切られ、片方のスペースの中央に小さな丸テーブルが一つポツネンと置かれていた。そこが私の定席だった。
このホテルを退散するまでの一ヶ月間、他の誰かが仕切りの向こう側で食事をしていたことは只の一度もなかった。何とも贅沢な逗留だったのである。
しかし、白いテーブル掛けは、シミだらけの上に無数の虫食い穴まで開いたみすぼらしい物だった。浮かれた旅人は、席に着く度に、自分の質素な生活の原点に引き戻されて萎縮してしまうのだった。テーブル掛けだけではなかった。ホテル全体が、まさにそんな感じなのだ。
小さな一輪挿しに季節の草花が飾られていた。ところが、初日に活けられた花は何日経ってもそのままだった。そして、遂には花瓶だけになってしまっていた、ホテルのイメージが、今までとは随分と違うのだ。
チェックインの時に、フロントが「朝食はパンにするかご飯にするか」と型どおり聴いてきた。予想外の質問なので一瞬驚いたが、「ご飯!」と、答えておく。
その一言で、「食事はそう心配することもなさそうだ」と胸を撫で下ろしたが、それも束の間だった。その日から、想像を絶する食糧事情が待ち受けていたのだ。
朝食の献立は、目玉焼き、白菜キムチ、シラスの佃煮、ジャガイモとキュウリの炒め物と決まっていた。品数はそれで十分だった。しかし、炒めるのも焼くのも、そのものずばりで、余計な付け合せは一切無かった。その上、塩か醤油と、唐辛子だけの味付けだから、なんとも単調な味なのだ。
体調を崩しても食欲だけは無くしたことがない私だったが、ここの食事にはげんなりしてしまうのだった。
華を添えてくれるはずの接待同務嬢は極めつけ無口だった。俯き加減で、無言のまま皿を並べ終えると、上目遣いに「どうぞお召し上がりください」と言うなり、さっさと部屋を出て行ってしまうのだ。1ヶ月の滞在期間に、両親と住む自宅から歩いて通ってきていることを聞き出すだけが精一杯だった。
昼と夜は、それに肉と魚料理が一皿づつ追加された。肉も魚も、かなりの長期間、冷凍室保存された品だった。肉は外側が黒く変色し、水分が飛んで干し肉みたいに固かった。鶏は食べて見てそれだと分かるのだが、豚と牛との判別がどうしてもつかなかった。
魚はカレイかホッケだが、どちらも手のひらにも満たない小振りのものだった。焼くか空揚げにしてあったが、それでもアンモニア臭ささは抜けなかった。我慢して口に入れると、今度は舌にぴりっとくるのだった。
通訳の「柳」と、現地商社の指導員の「趙」は、別室で食事を摂ることになっていた。以後も、この習慣は変わらなかった。
彼らは、私の食事が気になったようだ。時々、食事中に覗きに来た。後日談だが、彼等も食事のことでは心底音を上げていたのだ。
7−3 国家科学院
平城市は、この国の最高頭脳集団・国家科学院や、工業大学、専門学校、先端技術工場が集結する中核的な工業都市だ
市の入り口には石積みの大きな塔が建っていて、乙女たちから花束を献上される主席様の巨大な絵が中央にはめ込まれている。不遜にも、私はここを通りかかる度に紙芝居の絵を連想してしまうのだった。神聖であるべき護符も、異教徒にはただのつまらない紙切れに見えてしまうから皮肉だ。
この塔の並びに、平城市のランドマーク・文化アパート群がある。平城市がTVなどに登場する時は、冒頭に必ずこのアパートが映し出されることになっている。しかし、自慢のアパートも、近くで見ると随分と老朽化が進み、キシキシと悲鳴が聞こえてきそうだった。
アパートをやり過ごすと、すぐ左手に国家科学院の広大な敷地が見えてくる。多くの樹木に囲まれ、ゆったりとした佇まいだ。この中では、選りすぐりの万余の科学者たちが活動しているはずだ。
磁気ヘッドの設備を見てもらいたいと乞われ、私はここを一度訪れている。冬の寒い日だった。副院長が玄関に出迎えてくれて、自ら暖房もない部屋をあちらこちらと案内してくれた。三流の技術者には過分な応対で、私はひたすら恐縮するしかなかった。
古びた部屋も簡素な設備も、ここ何年間も使われた形跡が無かった。どこも、放課後の理科教室のように寂しかった。
磁気ディスクの試作品が、何枚か埃を被ったまま展示されていた。磁性面が茶色の、ごく初期のタイプのものだった。錆びた遠心分離機も近くに転がっていた。磁性粒子の分離か何かに使ったものらしい。この国の「不足」と、研究者たちの苦心の跡が手にとるように分かってしまうのだった。
他にも、電子部品のサンプルらしいものが幾つか陳列されていた。傲慢な技術者の目には、どれもが博物館の展示品にしか見えなかった。
見学の後に、意見交換の場が設けてあった。私そっちのけで、きつい言葉のやりとりが始まった。科学者たちと役人たちとの間には深いギャップがあるようだ。やはり、まともな研究など出来る状況ではなかったのだ。
科学者たちの今にも爆発しそうな剣幕も驚きだったが、正面から議論ができる風通しの良さに救われる思いがしたものだ。
7−4 平壌とはまるで違う人々
ホテルのフロントには、30代の青年、2人組みの不細工な娘たち、無愛想な中年女性が交代で詰めていた。宿泊客は、いつでも我々だけだった。何もすることが無いはずなのだが、律儀にも誰かが必ずいるのだった。
フロントの辺りは昼でも薄暗かった。そこに、派手なイルミネーションをぴかぴかさせた真新しいステレオセットが置かれていた。このあたりの感覚は、外国暮らしが長かった私でも、なかなか理解できるものではなかった。
男は、そのステレオセットで英会話のテープを聞いていることが多かった。私がいるせいか、時々それが日本語に変わった。
私が通りかかると、急いでフロントを抜け出し、待ってましたとばかりに英語で話し掛けてくる。教科書通りの下手な英語だった。わざと朝鮮語で応じると、酷いナマリ混じりの朝鮮語が高射砲のように返ってくる。朝鮮語初級の私とでは、会話が全く成立しなかった。当人は至って無邪気なのだが、食事の恨みも絡んで日増しに疎ましくなってくるのだった。
女たちは前を通り過ぎても全く知らん振りだ。大抵はステレオセットで音楽を聴いているか長電話だ。たまに用事があって話し掛けても、電話が終わるまで振り向きもしなかった。
電話が引いてある家は、平壌でも政府機関の課長級以上だ。「この人たちの身分は推して知るべし」だったのだ。
平壌とは4、50キロしか離れていなかった。小さな国のはずなのだが、人々の間に随分と落差があることがおぼろげながら見えてくるのだった。
自分史を紐解くまでもなく、素朴であることは野蛮やエゴや無知につながる。「これなら、金日成語録もやはり必要だったに違いない」。ふと、私は納得してしまいそうになるのだった。
北朝鮮という国は、我々が思うよりは地域や地方の独立色が強くて、平壌に労働党員ばかりが多く住むことも、一党独裁も、そのような事情からくる必然的な結果なのかも知れないとも思うのだった。
更には、元や清がそうであったように、少数の農耕騎馬民族が莫大な人口を有する多民族国家の上に支配層として乗っかるというこの地域の歴史にまで思いが広がるのだった。
長寿山ホテルに、不可思議な若い女性が居た。たまに顔を合わせることがあっても素知らぬ風で、何か見下すような態度で通りすぎて行くのである。
彼女も、ホテル関係者には違いなかった。「若そうだけど、支配人かな。そう不細工な顔でもないから、笑顔の一つもあれば随分と違うのに・・・」。すれ違う度に思うのだった。
「趙」と「柳」の二人が、食事の件で談判に行った時のことらしい。彼女は机に腰掛けたまま腕組みをし、彼らを目の前に立たせたままで話を続けたという。やはり、彼女はこのホテルの責任者だったのだ。
長く庶民の精神生活を支配してきた儒教がほころび、男女平等、階級絶対社会になった今でも、それはやり過ぎだったようだ。「このマルテガリ!そんな態度だから嫁にも行けないんだ」。生一本の「趙」は、「机を蹴飛ばして怒鳴ってやった」と声を震わした。
「趙」たちは、彼女が独身であることまでとっくに調べ上げてあったのだ。マルテガリも直訳すれば「馬の頭」だが、当地ではかなり辛らつな売り言葉だった。
彼女も負けていなかった。小柄の「趙」に覆い被さるようにして掴みかかって来たという。すぐに「柳」が割って入り、その場は何とか事無きを得たのだった。
「相当なバックがあるな」。二人は帰ってくると、興奮冷めやらぬ顔で頷きあうのだった。
「趙」は、私と同い年の48歳(当時)で、当然分別を弁えている年齢だった。その彼がご乱心したのだから、彼女は相当なタマだったのである。
その後も、二人の間のしこりは長く続いた。「食事がますます悪くなった」と、暫く「柳」も「趙」も元気がなかった。
その「趙」だが、彼は極めて流暢な日本語を話し、感覚的にも日本人に近かった。日本で駐在経験のある韓国人を私は何人も知っているが、そんな彼らと比べても、「趙」の日本語のレベルは格段に上だった。
通訳の「柳」はもっと堪能だった。当節の流行語も時事用語も、難無く使いこなしてみせるのだった。彼は、外交部の事務所にいる時は、日本の新聞を隅々まで読むのだとも語った。
そのようなこともあって、大韓航空機を爆破させたとされる工作員「金賢姫」の下手な日本語が、気になってしょうがなかったのである。
「趙」たちの捨て身の抗議も甲斐なく、ホテルの食事は相変わらず悲惨を極めた。外食しようにも、そのような施設は平城市内には一箇所もなかった。遂に、我々はホテル側に無条件降伏して、全てを受け入れることにしたのだった。
徐々に、体にも変調をきたすようになっていた。歯茎が緩んで、固い肉が全く噛めなかった。残る動物性蛋白源は魚しかないが、これも黒く傷んだ個所と骨を残すと食べられる分は殆ど残らなかった。瓜とジャガイモだけの食事が毎日続いたのだった。
ご飯も凄まじかった。古代の赤米と見間違うばかりに色がついているのだ。味も、極めつけ不味かった。病んだ歯茎に、ガリッと石が当たると飛び上がるほど痛かった。結構な大きさの石が混入しているのだ。
ホテルでは、遠来の客の為に、取って置きの貯蔵米を出してきたようだ。「高句麗の古墳から掘り出した米か?」などと、皮肉のひとつも言ってみたくなったものだ。
私は貧乏な農家の生まれだから、子供の頃は売り物にならない屑米も随分と食べさせられていた。鶏も同じ米を食べていて、いささか複雑な気持ちになったものだが・・・。
そんな私でも、ここの米にはお手上げだった。
そんな日々が続くと、 いつしか、「食」のことが一時も頭から離れない異常な心理状態に陥ってしまっているのだった。
7−5 闇市
ホテル脇の小道を幹線道路とは反対方向に抜けていくと闇市があった。地べたに直に僅かばかりの野菜や餅菓子などを並べ、10人ほどの売り手(おばさんたちだが)が客を待っていた。並べられた商品は、どれも一握り程の些細な量しかなかった。焼き饅頭が入った鍋は、何十年使い込んだものやら分からないほど古びていた。
ままごと遊びのような光景だが、誰もが商売人らしい油断のならない顔つきだけはしている。平壌では、一度として出会ったことがない顔だった。
タバコ売りの前は、客足が途絶えることがなかった。男たちが入れ替わり立ち代りやって来ては、2本、3本とバラで買っていく。それらの闇タバコは全て中国製だ。
「スパイが入り込んでいて、タバコに爆薬を仕掛けたりするそうだよ」。指導員の「趙」が真顔で同意を求めてくる。吉林省などの朝鮮族居住区には韓国人も韓国製のタバコも相当入っていたが、ちゃんとそのことを知っているのだ。「そんなことある訳無いよ」。私がにべもなく否定すると、「趙」は哀しい顔をする。彼だって、本当は分かっているのだ。
ほど近い空き地には、膝ぐらい高さの真新しいコンクリートの凸部が何列も出来あがっていた。道(日本では県に相当する)が管理するフリーマーケットの予定地だという。この国も、否応無しに構造改革を迫られているのだ。
更に奥へと入って行く。丘の緩い斜面には、トウモロコシの林に隠れるように戸建ての住宅が点々と建っている。どれも15坪ほどの似たような平屋だ。現地の案内書などによれば、内部は3部屋か4部屋構成らしい。残念ながら、私自身は一般家庭を訪問する機会が一度もなかった。この国では、外国人を一般家庭に入れることは固く禁止されているのだ。
しかし、たった一度だけその機会が巡ってきたことがあった。冬場の工場では停電が珍しいことではなかったが、その日は特に長い時間電気が停まったままだった。停電するとスチーム暖房も止まるので、やがて工場の中は外気と同じくらいに冷えてくる。工場関係者は、寒さに縮こまっている私を見かねて、近くにあるらしい技師長の家で暖を取ることを熱心に勧めてくれるのだった。
随分と心が動く申し出だった。しかし、彼らの親切心と自分の中にある不純な好奇心とを天秤に掛けて、結局は辞退してしまったのだ。これが一般家庭を訪問する最初で最後のチャンスだった。
家の周りの、20坪ほどのスペースは余すところ無く耕され、自家菜園として活用されている。自家菜園というと聞こえはいいが、ここのは日々の糊口をしのぐ為の必要にして不可欠なスペースだ。
畑には握り拳ほどのものから一抱えもあるものまで、石がごろごろしている。何とも過酷な農業環境なのだ。
畑の隅には、今にも倒れそうな外便所が付いていた。朝の散歩の時、隙間越しに視線があって慌てて目をそらしたこともあった。
集落を唯一貫く狭い坂道は、人間の二本足専用だ。雨が降ると、そこを水が川となって駆け下っていく。そんな道だから、普段でも至る所で大石が角をもたげ、水が湧き出していたりする。加えて、粘土質の土壌だ。蹴躓いたり、足を捕られたりして往生する。
周囲には赤松林が多かった。丘の稜線付近は木が切られて草原になっている。そこに点々と痘痕のように見えるのが、死者を埋葬した土饅頭だ。死者は自分が生活した村々を眼下に見渡せる高台の一等地に葬られることになっているのだ。
7−6 電熱器で作る夜食
「柳」と「趙」の食事事情は、私より更に悲惨だったようだ。目に見えるほど、日々の憔悴が著しかった。それでも、彼らからは祖国を非難する言葉を何一つ聞くことが出来なかった
二人の部屋には、工場の虎の子の鍋と電熱器が持ちこまれていた。この電熱器を使い、工場の畑で獲れた野菜でごった煮などを作っては、毎夜ひもじさを補っていたのだ。
ホテルのロビーには、型通りに売店もあった。土産品のつもりらしい。文具、絵葉書、書画、陶磁器などがごちゃごちゃと小さなガラスケースの中に収まっていた。
壁のガラスケースには、チマチマとしたスナックの袋と一緒に酒が並べてあった。酒は2合瓶の焼酎からヘネシーのX・Oまである。パーケージの色が変色しているのが薄暗がりの中でさえ分かる。これらは、所謂展示品なのだ。
商品は、それだけだった。食に関しては、この売店は少しも役に立たなかった。
現地商社の幹部を初めて接待した時のことだ。予定数を上回る参列者だった。人数分よりは大目に頼んだはずの焼肉は、またたくまに食べ尽くされてしまっていた。さて、追加料理をとフロントを呼びつけたら、「もう、厨房係は帰宅してしまった」とにべもなかった。
普段から、メニューの無い「おまかせ料理」のレストランだった。食材の調達から始めなければならない番外の料理を頼むには、事前に予約をしなければならないのだ。焼肉しか頼んでおかなかった私は、招待者に食事も出せぬまま、途方にくれてしまうのだった。
ビールだけは、厨房の冷蔵庫に余分に入れてあるらしかった。フロントが居なくなる前に調達しておいたビール瓶を提げて、食後に案内たちの部屋をよく訪ねたものだ。彼らの命綱のキュウリ、ネギ、にんにく、青唐辛子がツマミだった。岩塩と唐辛子味だけの野菜鍋の残りのこともあったし、生のまま味噌を付けてそのまま齧ることもあった。
食事は、その後何度交渉しても改善の兆しが無かった。ところが、これには、実のところ、我々の側の事情もあったのだ。ホテルを逃げ出すに当たって、「柳「がおずおずとその事情を打ち明けてくれるのだった。
初日に同行した「鄭」から、ホテル側には「食費は8〜9ウォン(約500円)を上限とする」指示が出されていたのだ。何も知らされていなかった私は、ちょっとばかり赤面したものだ。
撤退の日、件の女性支配人が、ホテルを変わるワケを何度も訪ねるのだった。しかし、「趙」も「柳」も優しかった。「食事のせいだ」などとは、おくびにも出さないのだ。何か言いたそうにしている私にも目配せするのだった。
7−7 散歩道
部屋に閉じこもりがちなホテル生活は、運動不足に拍車をかけることになる。朝の散歩は、海外でのホテル暮らしには欠かせない日課だった。ここでも、毎日午前6時前後に、朝飯前の散歩に出かけることにしていた。
外出には案内が必ず付き添うことになっていた。この時間帯はまだ人通りも少なかったが、少しも身の安全を思い煩うことはなかった。治安は悪くなかったから、案内が煩わしくなることもあった。しかし、何の変哲もない丘の斜面に掩蔽壕が口を開けていたりするから、好奇心旺盛な私にとっては、むしろ案内は居た方がよかったのだ。
道路脇の空き地には、石炭の粉が小山のように積み上げられていた。その傍で黙々と練炭を練る住民の姿も毎朝の変わらない光景だった。練炭は冬の暖房用として欠かせないばかりか、日々の煮炊きの主な燃料でもあるのだ。
強烈な屎尿の臭いが鼻を突く。案内に気付かれぬように、袖口で鼻先を覆い、小走りに通り過ぎる。歩道を横断して穿たれた溝を、茶色に濁った下水が勢いよく流れて行く。小川での魚釣りは断念するしかなかった。
薄っぺらな市街地を出外れると、田んぼが広がっている。小川が流れ、土橋が渡され、ポツン、ポツンと溜池があったりする。絵に描いたような農村風景だ。
日本の倍ほどの密度で稲が植えられている。「主体農法」の研究成果に基づく栽培方法が、これだった。しかし、農家の息子だった私は今でも覚えている。まだ、日本の農業に勢いも希望もあった時代に、大人たちが密植による弊害のことを真剣に話していたことを・・・。
まず稲作りは満遍なく水を張るところから始まるが、ここの田んぼでは所々水が干上がり、苗が黄色く立ち枯れていたりする。勤労奉仕の素人集団が、お題目や笛・太鼓で一気呵成に作り上げた田んぼなのだ。これで、酷寒の地に稲がすくすくと育ってくれるとは到底思えなかった。
突然、朝のしじまを破って勇ましい軍歌が響き渡った。それが合図だった。住民たちがバケツを携えて次々と外へ飛び出して来た。やがて、その集団は大きく膨れ上がり、一つの大きな塊となって一方向を目指すのだった。
人々の後に付いて行ってみた。街外れにある広場に何台かトラックが停まっていた。その周りに人々は黒山のように群がり、次々とバケツの中身を開けていく。たちまち、幾つものこんもりとした土盛りが出来ていく。それは、住民たちが自宅で作った堆肥の山だった。
これらは直ぐにトラックに積み込まれ、再び鳴り物入りで各地の農村へと配られるという。彼らの姿が、本土決戦に立ち向かう帝国人民の姿と、どうしても重なってしまうのだった。
私は、1年の間に4度も、この地を訪れている。脳裏には、北の大地の、狂おしいほど足早に通りすぎていった季節の移ろいが、様々に焼き付いている。
みるみる成長して収穫期を迎えるトウモロコシ畑。甘く香る夏草の優しいみどり。乳白色の帯となって果てしなく続く天の川。頭がくらくらするほど高かった青空。私だけの空間にキラキラ輝いていていたダイヤモンドダスト・・・。夏も終わりの頃、一瞬目にした無数の蝶の乱舞。
・・・際限なく、思い出す。未だ汚れていない自然と人々の姿が、確実に、そこにはあった。
しかし、人類と自然との共生などという戯言は、イギリスの産業革命以前の話だ。今の時代は、人類の側から一方的に収奪しなければ、多くの人々が飢えて死んでしまう。この国だって、心優しき人々が自然農法で食糧の自給が出来るほど、小さくはないのだ。
7−8 闇に蹲る女性兵士たち
深夜遅くまで案内たちの部屋で飲み、したたか酔っ払った日があった。「趙」は、当地の人には珍しく、あまり酒が強いほうではなかった。その日も一足早く傍らのベッドで高いびきだ。
完璧な日本語を話し、私との間で少しも違和感のない会話を交わせる「趙」だった。相当な個人史を持っているはずだが、そのような匂いを少しも外に出さなかった。
「柳」もまた紛れもなくその筋の人間に違いなかったが、結構露骨で自己顕示欲も強かった。時々、彼のプロ意識を疑いたくなったものだ。
私と「柳」は、「趙」を部屋に残して外へ出た。きっかけは女の話だった。「柳」が思わせぶりに切り出した深夜の外出は、禁欲生活を強いられていた私を酷く興奮させるものだった。
食事がどうの自由がどうのといっても、そのあたりの欲望までもが死んでしまうほどの過酷な環境ではなかった証拠かもしれない。いや、その手の欲望は、それほどタフだと言うことなのだ。
我々は川縁の獣道を歩いていった。付近には灯火というものが一つもなかった。前にも後ろにも漆黒の闇が広がっている。満天の星空が、ぐんと近くに見える。今にも、乳白色の銀河が頭上にばさりと覆い被さってきそうだ。
昼間タバコ売りのおばさんたちが屯していた橋の傍に出た。闇の底に、確かな人の気配があった。工場の守衛所から洩れる微かな光が辛うじて届いているあたりに、中腰で蹲る幾重もの黒い人影が見えていた。
さりげなく近づいてみた。大きな軍帽に身を隠すように蹲る女性兵士たちだ。皆一様に小柄で、少女のような体つきをしている。周りを、平服姿の男たちが何人も遠巻きにして立っている。
私にはピンとくるものがあった。一瞬足が震えた。外国人が見てはいけないものを見てしまったのだ。「気がついてはいけないのだ」。私は自分に言い聞かせた。酔っ払った勢いで見せてはいけないものを見せてしまった「柳」の為にも。
こわばった足を引きずりながらそこを通り過ぎ、私は肩で大きく息をした。酔いが完全に醒めてしまっていた。
7−9 濁流
日本の梅雨が終わる頃、ちょうど朝鮮半島は雨期に突入する。北朝鮮の雨期は、韓国より更に苛烈だ。白昼突然空が墨を塗りたくったように真っ暗になると、耳をつんざくばかりの雷鳴が轟き渡り、幾筋もの青白い閃光が網膜に強烈な残像を焼き付けて行く。
空全体が巨大な水瓶だった。雨は厚い水の壁となって行く手を遮り、人々の歩行の自由さへも奪ってしまうのである。
大量の雨水は行き場を失い、すぐに奔流となって地表を侵していく。この国の粘土質の土壌は完全防水加工された床そのものだった。その床を転がる大量の雨水を誘い込むだけの側溝も地下水路もここにはなかった。雨水は好き勝手に低地めがけて流れ下っていく。
外出先で増水の予兆が現れると、我々の車は瞬く間に溢れ出す水に腹まで浸かりながら一目散にホテルへ逃げ帰らなければならなかった。
そうなると、しばらく外出は不可能だ。私は、青白い閃光を、ホテルの窓から何日恨めしげに眺めたことか。
奔流が駆け抜けたあとの幹線道路は、鉄砲水をくらった後の渓谷と変わらなかった。土中のあちらこちらから石が頭をもたげ、車のタイヤを思いっきり突き上げてくる。石をかわすと、今度は粘着質の泥がタイヤをくわえこんで離さなかった。タイヤは、大量の泥を跳ね上げながら、いつまでも虚しく空転を続ける。
川原の僅かばかりの空き地に植えられた黍や粟はとっくに水没して見えなかった。「1週間も続けば枯れてしまう」。指導員の「趙」が泣き出しそうな顔をする。
第8章 平城の組立工場
8−1 路傍の風景
平壌から平城に向かう幹線道路は、平壌の中心街を抜けると、薄っぺらな舗装も消え、雨上がりの山道と変わらない凸凹路になる。乗り上げると横転しそうな隠れ岩や、車のタイヤがまるまる沈み込んでしまう大穴も珍しくなかった。
センターラインもガードレールもなかった。障害物を避ける為、どの車は道幅いっぱいにジグザグ運転しながらやってくる。すれ違う時が大変だ。どうもこの国には路行く車にまで階級があるようなのだ。運転手は相手の車をよく見てから、そのまま突っ切るかその場で待つかを決めるのだった。
真夏の炎天下、道路の補修作業が一斉に行われた。沿道には点々と赤旗が掲げられ、その旗の周りで壮年の男女が忙しく立ち働いていた。
道具らしいものは笊とスコップとツルハシだけだ。ボロボロになったアスファルトを剥がし、砂利や石ころを敷き詰め、人力で路面を踏み固め、平らにならしていく。全ての作業が人海戦術だ。
道端に石を積み上げ、即席の炉が組んである。大きな鉄板が乗せられ、下では松の生木が真っ黒な油煙を上げて燻っている。鉄板の上では、かき集めて積み上げられたアスファルトの塊が、半ば溶けかかっている。新しいアスファルトが補充された形跡は無かった。舗装の幅と厚みは年々細るばかりだ。
道路の管理は、区間ごとに受け持ちの班が決められている。そのせいか、区間によって随分と路面の痛み具合が違う。
道端に放置された故障車が驚くほど多かった。数キロも行かないうちに、また別の故障車が立ち往生だ。荷台で運ばれて来た人々は、人家も何もない所で、修理が終わるのをひたすら待つしかなかった。
沿道には、ガソリンスタンドも、修理工場も、応援を頼む公衆電話もなかった。修理は運転技師殿の腕だけが頼りなのだ。
炎天下でも、凍てつく厳冬期でも、故障車の数は変わらなかった。運転技師殿は、春夏秋冬の別なく、車体の下に潜ったり、ボンネットによじ登ったりと忙しかった。
路の両脇を、重そうな荷物を担いだ多くの人々が黙々と歩いて行く。3割方が軍服姿だ。古ぼけた国産トラックが、時折通り過ぎて行く。荷台は、荷物ならぬ人民たちで溢れんばかりだ。
トラックが通りかかる度に、路行く人々は一斉に手を上げる。しかし、どのトラックも既に満杯だから、これらの人々が僥倖にありつける確率は限りなくゼロに近かった。
たまに、我々の車にもタバコの箱を振りかざすおばさんたちがいる。物売りなのか、「乗せてくれ」と頼んでいるのか、私には分からなかった。軍隊上がりの逞しい運転手は、「ふん」と言った顔をして、いつも無視する。
平壌と平城の境にある峠道に差し掛かると、トラックはスピードを落とし、喘ぎ喘ぎ坂を登り始める。待ち構えていた人々が、ここぞとばかりに車めがけて殺到する。身のこなしが軽くて運のいい奴だけが、素早く車に取り付き、器用によじ登り、荷台へと這い上がってく。
峠はちょっとした広場になっていた。こちら風のパーキングエリアだ。屋根付きの施設があるわけではなかったが、タバコや自家製のもち菓子などを売る大勢のおばさんたちが露店を広げ、賑やかだった。
案内たちも、ここのタバコ売りの御得意さんだった。時々車を止めさせて、闇タバコを仕入れるのだ。物売りのおばさんたちを囲むように、いつも2、30人ぐらいの客人が屯していた。
平城市側は曲がりくねった急な坂道になっていた。冬場、この坂道に連なる斜面に遭難車がゴロゴロ転がっていた。
タイヤは極限まで磨り減り、表面はテラテラだった。その上、チェーンを装着する習慣も無かった。こちらの車両は、凍結した路面に対し、物理的には全く無防備なのだ。
頼るは運転技師殿の腕だけだが、百戦錬磨の運転技師どのでも凍結した急斜面には太刀打ちできなかった。 坂を降りきると、あとは平坦な道が平城の市街地へと続く。幅50mほどの小川が道路と並行して流れていた。
冬場、そのささやかな小川の流れが完璧に凍結すると、子供たちは船底型の小さなソリを持ち出し、抜きつ抜かれつの大レースを展開して見せてくれるのだった。
夏場、男女の別なく、沐浴や洗濯をしている姿を実によく見かけたものだ。半裸の兵士が、川原に洗濯物を広げて乾くのをのんびりと待つ姿も日常の光景だった。スコップで川原を掘り返し、笊で砂や小石を選別して集めるのが彼らの仕事だ。軍隊は、この国の基幹産業でもあるのだ。
8−2 鳴り響く号砲
組立工場は幹線道路を右に折れ、単線の鉄道線路を横切り、トウモロコシ畑の脇の凸凹道を2キロほど入ったところにあった。線路脇には一坪ほどの小屋があり、制服制帽が少しも似合わない農婦然としたおばさんがいつも詰めていた。日焼けで、てかてかと黒光りする顔からのぞく両の目が、ぎょろぎょろとやけに目立つおばさんだった。
クラクションをならすと件のおばさんがすかさず飛び出してきて、地表から斜めに延びた棒の端をグイと手前に引いて遮断機を上げてくれる。木の棒の先にコンクリートの塊を縄で括りつけただけの単純明快な遮断機だった。
単線の鉄路を、本当にたまにだが、時代がかった車両がノロノロと通過して行く。過密なのか、運賃が払えない為なのか、連結器や屋根の上にも人影が見えていることがあった。
蒲鉾型の客車には窓ガラスが殆ど入っていなかった。申し訳程度に白いビニール片をヒラヒラさせている窓もあった。厳冬期でも、それは変わらなかった。
古い戦争映画に出てくる捕虜移送用の貨物列車そっくりの車両が、通り過ぎて行くこともあった。その姿が周りの原初的な光景と重なり、一瞬、今自分が居る時代を捉えきれなくなってしまうのだった。
近くに軍隊の基地か農場でもあるのか、軍服姿の一団とすれ違うことがよくあった。皆20代のはちきれそうな若者たちだった。銃を携帯した整列歩行の時もあれば、てぶらで道いっぱいに広がってだらだらと歩いてくることもあった。
突然、大きな爆発音が聞こえた。ちょうど、北朝鮮の潜水艦が韓国沿岸の定置網に引っかかり、引き上げられたりしていた時期だった。「爆撃か?」。一瞬頭の中が白くなったが、案内同務が笑って言ったものだ。「畑のスズメを追い払ったところだよ」。
我々の車は、その時のものらしい大砲を引っぱって行く一団を追い越した。大砲を引っ張っていたのは半裸の兵士たちだった。その大砲は黒光りするほどよく磨かれていたが、戊辰の役だか日露戦争だかの挿絵で見たものに相違なかった。
牛に引かれた荷車。山羊の群れを従えた若者たち。目を見張るようないい顔立ちの娘さん。いすゞの中古バス。車体が凸凹の軍用トラック。時代がかった多くのモノたちが、このささやかな凸凹道を頻繁に行き来する。
車体の一部からモクモクと白い煙を吐き出し、ノロノロと走って行く車があった。煙は車体から突き出でた筒から出ていたが、煙の間からは青い葉がついた生木がのぞいていた。噂には聞いていたが、所謂、木炭車の類だったのだ。
旅先の光景が非日常的な世界であればあるほど充実した旅情を満喫できるものだが、これほど過酷な現実を見せ付けられると感傷にばかりふけってはいられなくなるのだった。
8−3 自給自足
工場の傍に、開拓農家を連想させるような30戸ほどの集落があった。どの家も15坪程度の同じ形をした平屋だ。工場関係者の多くは平城の市街地から小一時間も歩いて通って来ているようだったが、幹部たちはこの集落の一角に住んでいた。
二軒長屋風のも何軒かあった。社会主義を標榜するこの国でも、やはり全てが万民平等と言うわけではないのだ。
窓ガラス代わりに、ビニールシートを幾重にも重ね張りしている家が多かった。たかが窓ガラスが、この国ではされど窓ガラスなのである。
どの家にも20坪ほどの広い畑が付いていて、隅々まで耕されて自家菜園になっている。大部分は主食のトウモロコシ畑だ。片隅に少量のネギ、唐辛子、キュウリ、ジャガイモ、サツマイモなどが植えてある。季節の野菜が、その時々に収穫出来るようにしてあるのだ。
背丈ほどの木の枝を差し連ねて垣根がわりにしてあったが、そこには豆のツルをびっしりと絡ませてあった。初夏の頃だったが、鮮やかなオレンジ色の花が咲いて、クラクラするような強烈な感動を覚えたものだ。この辺りは、それほど色彩に乏しかった。
集合住宅に住む都市住民にとって自家菜園は望むべくもないが、その代わりに、所属する組織が郊外に農場を所有するようになっている。
東海や西海に漁船を保有している組織もあり、やや進化した自給自足社会とでも言えるような社会体制をこの国は敷いている。
配給品以外は原則自給自足で、それを得る手段は当事者の裁量次第なのだ。勿論、それらの品々を外貨稼ぎに廻すのも裁量権のうちだ。毎週金曜日は野外労働の日と決められ、そのような集団労働に当てられることになっている。
国民の多くがシンプルライフを貫き、米と僅かばかりの魚肉が計画どおりに配給されていれば、この国の経済は十分成り立ち得るような仕組みには一応なっているのだ。
トウモロコシの収穫が近くなると、畑の中には何箇所もの見張り小屋が作られる。トウモロコシの茎を束ねて納豆の藁苞に似た形に組み上げた簡単なもので、一人がかろうじて身を隠せるぐらいの小さなものだ。
「社会主義の国にも泥棒はいるんだ」。皆の前で、私は悪い冗談を言ってみた。「子供たちが悪戯をするから」。案内に軽くかわされてしまった。
集落の前の凸凹道では、小さな子供たちがいつもチョロチョロしていた。小童の数では、日本はこの国に完敗だ。どの子もみすぼらしかった。身に着けているものはドロドロに汚れ、穴だらけツギハギだらけだ。
鼻から垂れ下がった2本の蝋燭も、いずれ劣らず立派だった。「小僧の洟垂れ」は、その地域の栄養と衛生状態を示す指標だ。我々の子供時代も「洟垂れ小僧」が溢れていた。しかし、幸か不幸か、今や日本では、「ツギハギ」や「洟垂れ小僧」が死語になってしまった。
我々の車が通ると、洟垂れ小僧たちは遊びを中断しなければならなかった。年長の真似をして、ヨチヨチ歩きの坊主までが車めがけて棒切れを投げてよこす。たまに運転手がドアを開ける真似をする。すると、餓鬼どもは蜘蛛の子を散らすようにして一目散に逃げて行く。汚れていても、何が無くても、ここの子供たちの逞しさは大きな希望だ。
痩せこけてあばら骨が浮き出た犬が、首をうな垂れつつトボトボと歩いていく。いずれは食用にされる犬たちだが、これでは買い手がつくやら・・・。
不思議なことがまだあった。最も農村の風景に似合うはずの鶏がどこにもいないのだ。工場で自炊をしていた時期、周囲に卵の調達を気軽に頼んだことがあった。ところが、渡された卵は、黄味がどろりと流れ出すようなものばかりだった。そんなものでも頼まれた方は随分と遠くまで足を伸ばし、苦労して調達していたのだ。そのことを後で知り、彼らに当り散らしてしまった私は随分と恐縮したものだ。
平壌の外貨百貨店でさえも、鶏卵は置いてある時と無い時があった。況や、一個人が市井から調達するなど至難の技だったのだ。
朽ちてやせ細った電柱の列がトウモロコシ畑を跨いで続いている。傾いて列を乱している柱も結構目に付く。柱の上部に水平に打ち付けられた薄っぺらな横木が2本の送電線を辛うじて支えている。これをインフラと呼ぶにはあまりにも貧弱だ。
送電線の被覆は遠めにも毛羽立って見えるほど劣化が甚だしかった。末端でも送電線の電圧は数千ボルトあるはずだ。細い横木に乗った子供の握り拳ほどの碍子では、貴重な電気がどんどんと地中へ逃げてしまっているに違いない。「発電所建設の前に、まず送電線を架け直さなければ」と、電気工学専攻の私は思うのだった。
8−4 封印
工場の入り口には、レールの上を移動する真新しいゲートが設けてあった。それが周りの古びて消耗し尽くしたような光景とはあまりにも不釣合いなので、奇異な感じがしたものだ。
傍らの一坪ほどの警備所にはいつも2、3人の男たちが詰めていた。いつも手持無沙汰気だった。この国の資源の中で、掛け値なしに、人々の時間だけは潤沢なのだ。
工場内のセキュリティーは驚くほど厳重だった。私の控え室は勿論のこと全室に鍵が付けられていた。更に、各階の扉の内側に、もう一つ鍵付きの内扉まで設けてあるのだ。
夕方退出する際は、鍵を掛けたうえに、主要な扉には封印が施されるのが決まりだった。封印は、技師長の親指で粘土の塊に糸を埋め込むと言う、極めて原始的なやり方だった。
鍵を掛けるという習慣が殆どなかった私は、海外で生活すると、鍵のことでは戸惑うことが多かった。韓国の三星グループ時代に、社員たちが席を外す時は必ず机に鍵を掛けるのを見て、すくなからずカルチャーショックを受けたものだ。
私の生まれたムラでは、どの家も昼は鍵を掛けずに外出したし、夜の戸締りも簡単にしんばり棒をあてがうだけだった。
我々の少年時代は、夜這いなどという結構なものが、半ば公然と行われていたよき時代だった。近所に評判の小町娘が居たが、ドジな闖入者がいて、身持ちの固いその娘にフンドシを剥ぎ取られる椿事が起きたのだ。薄汚れたフンドシが村の掲示板に吊るされ、主は誰かと、ムラは暫く騒然としたものだ。
その後、その器量良しの娘は、隣ムラの大地主の跡取り息子に見初められ、嫁にいってしまったのだが、婚礼の日、三々九度の酒を注いだのが、少年の日の私だった。
8−5 学校工場
工場は古い2階建ての小さな学校を改造したもので、傍に背の高いポプラの木に囲まれた広い運動場がそのまま残されていた。窓からぼんやりと眺めていると子供たちの黄色い歓声が今にも聞こえてきそうで、なぜかジーンと胸が熱くなってくるのだった。
ポプラの梢越しに見る青空は頭がくらくらするほど高かった。頭の上を、白い雲がゆったりと流れて行った。いつかどこかで見たような景色だった。必死に思い出そうとしたら記憶細胞がパニックになっていた。
工場の内部は暗くて陰気臭かった。廊下を挟んで、両側に10坪前後の小部屋が並んでいる。がらんとした部屋を一つ一つ覗いて歩くと、利かん気の坊主頭やしっかりもののおかっぱ頭が語りかけてくるような気がするのだった。
私には、西の端に5、6坪ほどの室が用意されていた。南側は広い窓で、室内は随分と明るかった。ここだけは窓ガラスが全部入っていたが、透かして見る外の景色はやや緑がかり、顔を動かす度に歪んで見えるのだった。レトロ調の窓ガラスなのだ。
窓の傍にヒバに似た常緑樹が二本あったが、この木の茂みは四十雀や雀たちの溜まり場だった。人々が引き上げてシーンとなる昼休みには、一際小鳥のさえずりが姦しかった。
工場は、山懐に抱かれるように一番奥まった所に建っていた。周囲の丘は中腹近くまで開墾されてトウモロコシ畑になっていた。山頂付近には未だ雑木林が残されていて、赤松と栗の古木が多かった。
枯れ枝も枯葉も、ここでは利用価値のある天然資源だ。雑木林はきれいに下刈りされ、典型的な里山の風景が広がっていた。
草原は山羊の放牧場だ。白い斑点が点々と散らばって見えていた。
「猪やノロ鹿もたくさんいてね。兎や雉は雪が降ると里へ降りてくるから罠を仕掛けてよく捕まえたものだ。しかし、夜は恐ろしくて、一人で外を歩けなかったよ」。20年ぐらい前には、すぐ近くでも虎や熊が出没したという。生え抜きの支配人や技師長たちは、目を細めながら懐かしそうに昔語りを続けるのだった。
8−6 頑張る人々
私の控室の中央には、綺麗なワインレッド色のテーブルが2卓と、それを挟んで、深々と腰をおろせる豪華な布張りのソファーが4脚置かれていた。どれもが新しかった。
入り口の近くには、簡素なものだが別の応接セットも置かれていた。三流の日本人技術者にはもったいないぐらいの気遣いだった。
ロッカーと作業台と電熱器は手造り品で、他に小型冷蔵庫と中国製のポットがあった。物不足の中での精一杯の頑張りに見えて、複雑な気持ちになるのだった。
壁際の長いソファーは午睡の為の格好の寝台だった。私の寝姿を見て、直ぐにソファーを取り払いパイプベッド入れてくれるのだった。
血圧を測る時に腕を乗せるような枕と、寝返りを打つと顔に擦り傷ができるようなゴワゴワの毛布が添えてあった。私は恐縮するしかなかった。優しい気配りの出来る人々なのだ。
当初、お茶と昼食の接待は20代半ばぐらいの娘さんだった。時々、工場のスタッフたちは取りとめも無い冗談を言っては彼女を赤面させたりした。すると、彼女は無言で部屋を抜け出してしまう。私が一人の時はもっと過敏だった。話し掛けるとすっといなくなってしまうのである。
工場の人々と違い、彼女は洋服姿だった。若い肌に化粧もしっかりなじんで見えて、少しも違和感が無かった。女性の化粧にはお国柄や時代が反映されるものだが、彼女のそれはあまりにも我々の世界に近かった。これも、「タメにする」特別な訓練を受けてのことかと思うと、切なくなるのだった。
トイレもそうだった。壁の漆喰までわざわざ塗り替えたらしく真っ白なのだ。
小便用は隣との隔離板なしでズラリと並んでする式のものだが、谷川から引いた水が常時流れるようになっていた。
大便用は4つの内の3つを閉鎖し、残りのひとつを本物の水洗式に改造してくれてあった。頭上の給水タンクに流れ込む水は谷川の水量まかせだ。雨後はタンクから水滴が勢い良く飛び散り、頭や裸の尻を濡らすのだった。
しゃがみながら思ったものだ。このような「頑張り」は、アメリカさんなどには到底理解できないだろうと・・・。
8−7 女性にお菓子
「接待同務が白頭山の戦跡巡りの旅に選ばれた」と、スタッフが悦ばしげに告げにきた。このような企画は年に何回かあり、参加者は生産実績をあげた組織から選抜されるという。この社会にも競争があって、飴と鞭の両方が用意されていたのだ。
私は子供の頃を思い出していた。貧乏百姓に余分な現金などあろうはずがない時代だった。それでも、母親は遠足に出かける朝になると、必ず幾ばくかのお菓子を持たせてくれたものだった。
このいかにも純朴な娘に、私も、そんな親心に似たものを感じてしまったようだ。外貨ショップで菓子を幾袋か買い込み、彼女に持たせてやることにしたのだった。
工場で、案内がいるのを見計らってその菓子袋を差し出してみた。ところが、彼女は当惑した表情を浮かべてなかなか受け取ろうとしなかった。
周囲に促されてようやく受け取ってくれたが、礼もそこそこに居なくなってしまうのだった。私は訳も分からぬまま気まずい思いを噛み締めなければならなかった。
それでも、土産話ぐらいは聞けるだろうと彼女の帰りを心待ちにしていた。しかし、娘は、いつまで経っても私の前に姿を現さなかった。
彼女が戦跡巡りで聞いたり、見たりした日本人の行状は十分想像できた。彼女の心境に何も変化が無ければ良いのだが・・・。そんなところまで思いが行くのが、私の朝鮮半島だった。
それからは、ピンチヒッターのはずだった朴おばさんが、私の世話係になっていた。真っ黒に日焼けした農婦然とした中年の女性で、気持ちもしぐさも素朴さを絵に書いたような人だった。
日本から戻ってきた日には、朴おばさんにもささやかなお土産を渡すようにしていた。チョコレートやキャンデーの類だった。
ここでは、未だ甘いものは貴重品だった。古参の技師長などは、人目もはばからず、一杯のコーヒーに3、4匙もの砂糖を入れたものだ。
朴おばさんは、我々のコーヒータイムとは無縁だった。女は甘いものが好きなものだ。いつも優しい気配りをしてくれる彼女へのささやかな御礼だった。
ある時、昔気質の技師長が真顔で「あのアジュマ(おばさん)はダメだから・・・」と言い難そうに切り出してきた。「寡婦だけど・・・。子供は実子じゃないんだろう」。指導員の「趙」までが口をはさむ。二人して、彼女の複雑な身辺事情まで説明しにかかるのだった。
私がよほどモノ欲しそうに見えたようだ。この国の女性に物を上げることの難しさを教えられたのだった。
8−8 シアヌーク殿下のボディガード
カンボジアのシアヌーク殿下が中国に亡命していたとされる時期がある。しかし、実際のところは、その期間の多くを北朝鮮で過ごしていたのだ。北朝鮮政府のケアは完璧だったようだ。「今でも殿下の身辺警護は北朝鮮の特殊メンバーによって行われている」と彼らは自慢する。
「***国(アラブの同盟国)の大統領執務室のセキュリーティーシステムは我が国が造った物です」。アメリカの情報当局が聞いたら涎が出そうな話まで出てくる。西側から見ての話だが、危ない輸出品は何もミサイルだけに限ったことではないのだ。
工場の中は、二階部分に限って行き来が自由だった。教室は殆どそのままの姿で、事務室、倉庫、測定室、精密加工室、CADルームなどになっていた。測定室には、見慣れた「ミツトヨ」製の大型プロジェクターが設置してあった。その機械で、私も何度か部品の寸法チェックをさせてもらったものだ。
精密加工室には、ロシア製と並んで国産の放電加工機が数台置かれていた。放電加工機はロシアで発明され、日本企業が実用化にこぎつけた装置で、いまや金型産業には欠かせない設備になっている。どちらも手動式のかなり素朴なものではあったが、やはり一つの国家ともなると、産業にも計り知れない奥行きがあるものだと感心させられたものだ。
自慢のセキュリティー関連の機器を作っているという現場は一階らしかった。興味津々だったが、そこは最後までは案内してもらえなかった。
隣接して平屋の機械工場があった。高い天井には照明が一つも無く、昼でも内部は薄暗かった。大型の旋盤、フライス、プレス機械がずらりと並び壮観だったが、殆どの機械は稼動していなかった。機械の顔ぶれから判断すると、この工場は大型機械の部品造りが専門のようだ。どの機械も相当使いこんであった。
20Wほどの電気スタンドで旋盤工の手元を照らすようにしてあった。まるで、映画で見た戦時下の地下工場だ。
他にもメッキ場と樹脂の成型室があると聞いたが、それらも「汚れているから」と、最後まで案内してもらえなかった。
8−9 心優しき人々
夕方、仕事が終わると、工場の若者たちの何人かは、運動場へと直行する。サーカーの練習をする為だ。練習を見ていて、私はいつもイライラするのだった。血気な若者たちの敏捷な動きに比べて、ただのぼろきれを丸めただけのサッカーボールの軌跡はあまりに貧弱なのだ。
互いの垣根がとれた時分に、その青年たちのリーダー格が「サッカーボールが欲しい」と頼んできた。北京の空港でも買えないことはなかった。それでも、私はメッセージを込めたつもりで、日本で買って持っていった。あれだけプライドの高い人々が、私に心を開いてくれたのが本当に嬉しかったのだ。
翌日には、早速紅白試合が行われた。かつての学校の運動場に生徒たちが帰って来たかのように、大きな歓声が響き渡っていた。
「青少年たちの日」というのもあった。運動場は、何処にこんなにいたのかと思うほど、多くの青年男女で溢れかえっていた。我々熟年組は遠くから眺めるだけだ。
フォークダンス、一本足相撲、騎馬戦と、男女入り乱れての競技が熱っぽく進行していく。
娘たちの尻相撲があった。丸い土俵に上がり、互いの尻をつき合わせると大歓声だ。号令一過、尻が両方から勢い良く突き出される。一勝負が終わると、またドッと大地を揺るがすような歓声があがる。娘たちは、初めは恥らいつつも、ついついムキになって、大胆に腰をくねらせる。健康過ぎるほどの色気がこぼれて、昔の青年まで熱くなってしまうのだった。
昔、村の青年団の行事もこんな風だった。その頃は、人々は野蛮だが優しくて、粗雑だが道徳心があって、モノが少なかったが足りていて、今よりはむしろ心穏やかな時間が流れていた。
運動場に隣接して二反歩ほどの畑があった。半分ほどが唐辛子畑になっていた。残りの土地にはナス、ネギ、ニンニク、桔梗、かぼちゃなどが植えられ、季節ごとに収穫できるようにしてあった。
唐辛子は、収穫すればするほどたくさん実を付けるという。収穫は女性たちの仕事だ。初夏から秋口にかけて、赤いスカーフを顔に巻きつけた女性たちで、毎日、畑は賑やかだった。
秋には、唐辛子は跡形もなく刈り取られて、越冬用の白菜畑になった。
平城市内のホテルから撤退して、平壌から小一時間かけて通っていた時期だった。工場にも市内にも、私が利用できる食堂はなかった。「街に出てランチでも」といかないのがこの国なのだ。私の昼食が大問題だったのである。
平壌のホテルから弁当を持参する手があった。しかし、夏場の暑い時は衛生面で不安があった。そこで、自炊にしたのだった。
工場側は、「畑で採れた野菜を差し入れする」と申し出てくれた。当地に来て最も困惑したのが、生鮮食料品が簡単に買えないことだった。これは、何ともあり難い申し出だった。
資材管理責任者の「姜」が、自家菜園でとれた野菜を、別に届けてくれることもあった。野菜に限れば、何の心配もなかった。
私は当たり前のように、それらを無償で頂いていた。「プロジェクトの成果で報いればいいや」と簡単に考えていたのだ。しかし、そのプロジェクトも、たいした成果を上げることもなく破綻した。私は、今も胸のあたりに、そのことでしこりを抱えたままでいる。日本にいて知り合いの農家から野菜のお裾分けをしてもらうのとは訳がちがうのだ。
平壌から同行する案内同務や運転手にも、時々、野菜の分配があった。膨らんだズダ袋を帰りがけの車のトランクに詰め込む彼らは、いつもより嬉々として見えたものだ。
建物の脇に石梨(トルぺ)の古木が一本あった。秋に、その梨の実がピンポン玉ほどに育っていた。ある日、男たちがその木に群がり、枝を揺すぶって実を振るい落としていた。早速、私のところにも大皿いっぱいの差し入れが届いた。
もぎたての果物は、本当に久しぶりだった。早速、まるごと齧り付いて見た。ところが、名前の通り、石のように硬くて歯が立たなかった。そのうえ、青臭いだけで甘味が少しもなかった。
話のタネにと、2、3個は食べてみたものの、「さて残りをどう始末するか」と、頭を抱えこんでしまった。ところが、帰りがけには、ビニール袋にごっそり詰めたものを更に持たしてくれるのだった。
極寒の大地に根付く果樹は限られる。こんな梨の木でも、ここでは季節感を運んでくれる大切な宝物なのだ。
「新しい顕彰碑が完成した」と、スタッフが入れ替わり立ち代り報告にやって来た。党中央より贈られた「太陽賞」の記念碑のことだった。
記念碑が完成した翌日、私は、技師長、案内同務、通訳の3人に伴われ、その記念碑に花を供えに行った。朴おばさんが工場の敷地内に咲く花々を集めて作った小さな花束だった。
横長の碑には、畳2畳分ほどの金日成主席を描いた色彩画がはめ込まれていた。真っ赤な太陽を背にして、偉大なる金日成主席が工場労働者を指導している図柄だった。この組織は模範的な生産集団だったのだ。
すぐに工場の支配人が私の仕事部屋を訪ねてきて、「主席閣下に花を供えて頂きありがとうございました」と丁重に挨拶をして帰っていった。
8−10 初物野菜
「初物は、まずお客さんに」。工場で資材管理責任者の地位にあるらしい「姜」は、その年初めて収穫した作物を必ず私の所に持ち込み、主だったスタッフたちも集めてご馳走してくれるのだった。彼らの優しい心遣いは、冷ややかに見ると、人間が集団生活を送る上での基本に極めて忠実でもあった。
この国の農業は、劣悪な経済事情の他に、気候、地質、地形上からも極めて厳しい条件が突きつけられている。だからこそ、収穫の恵みに対する祈りや感謝の念が、この地の人々には一層強かったに違いない。
古来、収穫したものはまず神に供え、しかる後に互いに分かち合うことが農耕民族の大事な儀式だった。しかし、日本では、農民出身である私のような者でさえ、随分と前からそういったことをすっかり忘れてしまっている。
農産物に季節感がなくなったのは何時の頃からだったろうか?その為に、失ったモノも代償も大きかったことに、やがては思い至るのだろうか?
米の飯と肉のスープが国民に行き渡ることが未だに最大の悲願である国にいて、私は高い鉄塔によじ登って下を眺めているような不安に駆られるのだった。
「姜」が一番始めに差し入れしてくれたのがキュウリだった。日本にいれば、キュウリなど一年中出回っていて珍しくないから、手にとってみて、あらためて感動したことなど一度も無かった。しかし、ここにいると、キュウリが何か生命を持っているように思えてきて、何とも感動的なのだ。
キュウリはずしりと重く、片手で握りきれないほど太かった。棘が少ない、以前は日本でも普通に見られた品種だ。茶色に熟れかかったものは、味噌汁の具にすると以外に美味しかった「流通」に合わせた新品種が跋扈する日本の野菜市場からは、既に姿を消して久しい。
自炊のメニューは、中国製のインスタントラーメンに野菜の油炒めを放りこんだものが定番だった。生キュウリは、食後のフルーツ代わりだ。朴おばさんが、自家製の味噌を冷蔵庫にいつも補充してくれてあった。それをたっぷり塗りたくってがぶりとやる。瞬間、むせるような青臭さが肺の奥まで入り込んでくる。まさしくキュウリの味だった。
季節が通りすぎていって、ジャガイモが収穫の時を向かえた。随分と小振りで、かつて秩父の山奥の民宿で出されたものにそっくりだった。
もうもうと湯気の立つバケツが私の仕事場に運び込まれて来た。現場にいるスタッフたちがゾロゾロやってくる。バケツに手を突っ込み、火傷しそうな熱いイモを拾い出す。砕いた岩塩をつけて、フウフウ言いながら頬張る。あまり、美味しいものではなかった。人々と一体感を共有しているということが、一番のご馳走だった
川原で車座になり、煮えたばかりのジャガイモを競争して頬張った少年の頃の記憶が蘇ってくる。ここの人たちは、未だそのような時代の中にいるのだ。
8月も末になるとトウモロコシが獲れるようになる。これも随分と小振りだった。朴おばさんが茹でたてを皿に大盛りにして運んできてくれる。技師長ら、居合わせたスタッフたちと一緒に小休止だ。他に、気の利いたお菓子や美味しいお茶がある訳ではなかった。そのトウモロコシと、ぼそぼそとした会話がご馳走の全てだ。
熟し過ぎていて随分と固かった。原種に近いのかアクが強く、甘味が少しもなかった。子供の頃食べたものの方が、まだ美味しかった。断りきれずに3本も平らげてしまったが、後で歯が少し痛かった。
サツマイモはコロンと丸くて、まるでジャガイモのようだった。これも極めつけ不味かった。それでも、顔馴染のスタッフたちと一緒にワイワイ言いながら食べていると、何となく格別な味がしてくるのだった。
8−11 弁当
涼しい季節は、ホテルの弁当を持参した。前夜注文しておくと、朝食後にレストランのレジで弁当を手渡してくれる。ここで弁当を受け取ってから出かけるのは、何も私だけではなかった。配給制というものは、人々が活動の範囲を広げようとすると随分と不便な制度なのだ。
ホテルの弁当はプラスチックの透明容器二つに詰められ、なかなかの豪華版だった。一つ目の容器には小さめのおにぎりが4個入っていた。4個で200グラム相当だから、ほぼ平壌市民の一日の配給量に相当する。
この国では、食堂に入ると主食はグラム数で注文を聞かれることが多かった。名物の冷麺などもそうだ。「100グラムですか?200グラムですか?」と聞かれて、最初は戸惑ったものだ。
二つ目は総菜用だ。肉と魚を中心に、センチェ(なます)かナムル、それにジャガイモの炒めたものなどが添えてあった。コンビニ弁当などよりはずっと本格的で、ボリュームも倍以上あった。
アサリの塩辛やイリコを佃煮風にしたものが隅っこに入っていることもあった。そんな時は、弁当を詰めてくれた人の気遣いが感じられて嬉しくなったものだ。やはり、感謝というのは、不足である事と表裏一体なのだ。
飽食の時代になって久しい我々の社会が、「感謝」と疎遠になってしまったことは無理からぬことなのだ。
毎回網焼きにした牛か豚肉が入っていた。いつも、塩味だけの単調な味付けだった。冷えた弁当のおかずとしては一工夫欲しかった。
カレイの空揚げか塩マスを焼いたものも日替わりで入っていた。魚好きの私には、これも随分と物足らなかった。
センチェ(なます)はトラジ(桔梗根)か大根で、ナムルは緑豆モヤシと決まっていた。
若い通訳がついたことがあった。当地に来てからは社会に対する不満を誰からも聞いたことがなかったが、珍しいことに、その彼が工場で出される食事の不味さを愚痴ったことがあった。若いから正直なのだ。
それ以来ずっと、平壌から一緒に通ってきている関係者たちの昼食が気になってしょうがなかった。彼らは、私とは別の場所で食事を済ますことになっていて、如何ほどの物を食べているのか、さっぱり分からなかった。
ホテルの弁当は、私一人の分量にしては多過ぎだった。指導員の「趙」に「半分づつ食べよう」と、幾度か提案してみたことがあった。「運転手がご飯を持ってきているから」と、「趙」はその度に断るのだった。どうも、彼らも手弁当だったらしいのだ。
国際合営総会社や外交部の役人たちは別格だった。彼等は私と同じホテルの弁当を持参し、独りでぺろりと平らげてみせるのだった。
8−12 自炊
真夏には、方々にアイスキャンディー売りの露店が出現する。手軽に出入り出来る所謂商店というものが皆無だったから、それは感動するほど存在感があった。現地の人々にとっても、それは同じらしい。縦長のアイスボックスとビーチパラソルを囲んで、どこも大変な人だかりだった。
この国の主要な輸送手段は人間の二本足だ。人々は背にパンパンに膨らんだリュックを負い、強い陽射しの中も、凍てつく寒風の中も、ただひたすら歩き続ける。
緯度が高い割には、夏の陽射しは強烈だ。人々は、誰もが汗を掻き掻きやってくる。アイスキャンディーの屋台は、そんな人々のささやかなオアシスだった。
両手に握ったアイスキャンディーを交互に舐めながら歩いてくるおばさんも珍しくなかった。そんな彼女たちを眺めていると、ほのぼのとした気持ちになってくるのだった。
子供たちも親の目を盗んではせっせとアイスキャンディーの買い食いに走る。しかし、このアイスキャンディーが、夏に発生する食中毒の一大要因でもあった。
「柳」は「子供が、ここ一週間ほど下痢続きですっかり痩せこけてしまった」とこぼす。
彼の小学生の息子は、卓球のオリンピック選手を目指して毎日特訓中だった。練習後のアイスキャンディーは、その子の最大の楽しみだったのだ。
そんな事情もあって、夏場は弁当を止めて自炊にすることにしたのだった。工場にはちょっとした厨房があった。しかし、そこは朴おばさんの憩いの部屋でもあったから、私は遠慮するしかなかった。
昼頃になると、朴おばさんが大皿に野菜をいっぱい盛りつけて運んで来てくれる。それを潮に、応接セットのテーブルの上に電熱器を取りだし、おもむろに調理に取りかかるのである。
カセット式ガスコンロも、とっくに日本から届いていた。ところが、肝心のガスボンベが手に入らず、使えなかったのである。
ガスボンベは機内への持ちこみが禁止されている。どうしても、現地で調達する必要があった。
平壌中を探し回り、ようやく大使館街の外貨ショップで見つけたのだが、店の棚にある時からシューシューと音を立ててガス洩れしていたそのボンベは、装着するとコンロの安全弁が作動して点火出来なかった。
そんな事情を見かねて、工場側はわざわざ電熱器一台を新しく造ってプレゼントしてくれたのだった。粘土を焼成して筐体を造り、溝にニクロム線を手巻きした完璧な手作り品だった。
金属の箸と陶製の皿も、工場側が用意してくれた。私が炊事道具として買ったのは小型のアルミ鍋一個だけだ。
食用油、醤油、缶詰、調味料なども外貨ショップで一式買い揃えたが、それらはみな中国製だ。日本のものもあったが、やはり値段が高いのだ。
インスタントコーヒーと砂糖の補充係も私だった。平壌中からインスタントコーヒーや砂糖が消えることもあった。
朴おばさん運んできてくれる野菜は、青唐辛子、ジャガイモ、ネギ、キュウリ、ナス、ニンニクなどだったが、いつも丁寧に下ごしらえを済ませてくれてあった。
生で齧る分を除いて、他は温まった油にそのまま入れるだけで良かった。電力不足は恒常化していたから、電気コンロの火力はすこぶる弱かった。野菜炒めのはずが、いつも野菜の煮物になってしまうのだった。それでも、定番の中国製インスタントラーメンの具には上等過ぎるぐらいだった。
朴おばさんは「青唐辛子は見れば辛さが分かるのよ」と、こわごわ齧りつく私を見て笑う。比較的辛くないものを選び出してもらっていたはずだが、現地流に味噌をつけて生で齧っていると、額や首筋が汗でべっとりとしてくるのだった。
昼休みは2時間たっぷりある。あてがわれた部屋で、一人気ままに料理に取りかかればよかった。旅先での自炊も、またいいものなのである。
在日の「金」が帰国する際、日本製のカップラーメンを2個置いていってくれたことがあった。食べようと手に取ったら、賞味期限が2年も前に切れているではないか。随分と迷った挙句、(ここにいると、食べ物を残したり、捨てたりすることには結構過敏になってしまうのだ。)結局ゴミ箱に捨ててしまったことがあった。
ビールなども頻繁に賞味期限の切れた品が出回るらしい。「どうも困ったもので・・・」。案内同務が顔をしかめる。しかし、そう言う彼らも、期限切れフィルムの調達の話やらを持ちかけてくるのだった。
食料品の買出しの際には賞味期限を見ることも忘れないようにしなければならなかった。ここで生活していると、食に対する直接的、間接的なエネルギーの消耗が随分と激しかった。
8−13 青空の下の宴
一人だけの3ヶ月が、とうとう過ぎようとしていた。この3ヶ月というもの、非常に感傷的な気分になってみたり、狭い部屋で拘束されているような閉塞感を感じたりと、私の心模様は揺れ放しだった。今までの常識の枠がガラガラと崩れ去っていくことも度々だった。
私の中には確実に新しい変化が芽生え始めていた。それが私の中でどんな花を咲かせ、どんな実を結ぶのかはまだ分からなかった。或いは、自由に空を飛びまわり、好き勝手に木の実を啄ばんでいた鳥が、急に狭い籠の中に押し込められたことによる単なる後遺症のようなものだったのかも知れない。
善意の人々が周りに居てくれたにしても、それだけでは異邦人の心は癒されなかった。私は日に日に消耗していった。事故で一度、精神的な消耗が激しくてもう一度、入院もしている。よくぞ、3ヶ月間も、もったものだと思う。
歓送会が開かれたのは9月の中旬だった。雨期が終わってからは、空の水瓶がすっかり枯れ尽きてしまったかのように晴天ばかりが続いていた。
その日も、格別に澄み切った青空が何処までも高く広がっていた。空を見上げるたびに、空がこんなにも青く、こんなにも高かったのかと童心に返って感動してしまうのだった。
工場は早終まいだ。裏山の見晴らしのいい高台に、青年たちによって料理の入った籠やビールの入ったダンボール箱が次々と運び上げられていく。まるで予行演習でもしたかのように手際良かった。私は黙って傍で見ているしかなかった。
イカのシッケ(なれ鮨)、赤、白、緑の三色センチェ(なます)、ネギと肉が入ったチョンニャ(朝鮮風卵とじ)、チャプチェ(春雨料理)・・・。朝鮮の代表的な家庭料理が、地べたに敷かれた真っ白い紙の上に並べられていく。
朝鮮料理は彩りもご馳走のうちだ。奥さん連中が、唐辛子の赤、菜っ葉の緑、根菜類の白、卵の黄色、・・・と、素材の色をそのまま生かして、模様を描くように料理を皿に盛り付けていく。
ハレの日にはソンピョンも欠かせない。米の粉を練って餡を包み、半月の形に仕上げたものを蒸し上げた餅菓子だ。草餅もある。きな粉餅そっくりなのがチャルトックだ。普段思い出しもしなかったのに、甘い物好きの女房や娘たちの顔が浮かんできた。
大きな弁当箱ほどもある豆腐の塊を皿にデーンと乗せ、「さあー、食べろ」と、上機嫌で目が線になった技師長が勧めてくれる。支配人の奥さん自慢の手造り豆腐だ。日本で食べるのよりは少し固めだ。ぶっかくように切り崩し、刻みネギと唐辛子が入った醤油で頂く。柚子の肌みたいに荒削りだが、青臭くも甘い大豆の味が口の中いっぱいに広がっていく。
豆腐をひと口サイズに薄く切り、両面を油でこんがり狐色に揚げたものもある。これがまた美味かった。
工場では山羊を30頭ほど飼っていたが、この日、そのうちの一頭が我々の胃袋に納まることになってしまった。山羊一頭の闇値は5千円ほどだった。この金額は、公定レートでも一世帯の半月分の生活費に相当する。闇ならその20倍だ。何とも気前の良い贅沢な宴だった。
山羊の飼育を奨励するキャンペーンが繰り返しTVで放映されていた時期があった。番組は、山羊を飼育することの有益さ、社会的な貢献度などの啓蒙思想から始まって、山羊の解体の仕方から料理法まで紹介する幅広い内容のものだった。
山羊は道端の雑草を与えておくだけでも成長してくれる。メスが混じっていれば、毎日乳も飲める。子供の頃に山羊を飼った経験がある私は、思わず「うん」「うん」と頷いてしまった。
松の生木を燃やして出来た炭火の上に鉄板を乗せ、いよいよ山羊肉バーベキューの始まりだ。鉄板は工場で出来上がったばかりの「新製品」だ。火の通りを良くする為、蜂の巣状に穴まで開けてある「高級手作り品」だ。必要な生活用品を、彼らは大抵自分たちで造ってしまうのだ。
一口ほどの大きさに切ってある山羊の肉を、焼けた鉄板の上にどっさりと乗せる。下に脂が垂れ、ジュクジュクと燃え、白く香ばしい煙が辺りに立ち込める。誰もが、鉄板の周りにクギ付けだ。
焦げ目のついた肉の塊に岩塩をパラパラと振掛けて口に運ぶ。予想に反してクセのない味だった。きっと噛むと甘い肉汁がしみだしてくる。岩塩が肉の味を甘くするのだ。
青年たちの食欲はすこぶる旺盛だ。一心不乱に食べている。ふんだんに乗せたはずの肉が直ぐに無くなってしまう。
韓国語が頭に浮かんだ。「隣の奴が死んだのが分からないほど美味い」。韓国人が美味いものを食べている時も圧倒されるほどの迫力があった。気弱で、いい格好しいの日本人は、いつも気後れして箸が出せなくなるのだ。
奥さん連中は初対面のはずなのに誰もが自然体で馴染みやすかった。恐らく、ここの女たちは敢えて自己主張などする必要が無いに違いない。にこにこと、順番に酌をして回る。男たちが乱暴に差し出すビールも、いやな顔一つせずに口に運んでいる。
韓国なら、良家の子女が男に酒を注ぐなど、もってのほかだった。儒教の国では、女は客人の前では笑顔さえ噛み殺すのが礼儀なのだ。韓国にいた頃は、仕事仲間の自宅に招待されることもあったが、山の神のよそよそしさがつい気になり、早々に退散したものだ。
後先を考えて飲む酒は嫌われる。「ピョンヤンビール」で軽く喉を湿らせた後、25度の焼酎の一気飲みが続く。多勢に無勢だ。途中から「私」が曖昧になってくる。
「さあ踊ろう」。技師長が腕を引っ張り上げる。周りも立ち上がる。焚き火の周りに踊りの輪が出来る。韓国・朝鮮の庶民は踊りで思いを語る。
「歌を唄え!」とはやし立てる。「夕焼け小焼けの赤とんぼ〜・・・・」。唄っている間に涙がこぼれてきた。
8−14 東海からの贈り物
「南浦港で船の進水式があるから」と、スタッフの誰もが嬉しそうだった。バスの中古エンジンが欲しいと頼まれた事があったが、そのような部品を寄せ集めて自分達で船まで造ってしまうのだ。彼らの実践的な技術力には心底脱帽だった。この組織は、東海と西海に、それぞれ漁船を置いていた。食料の自給と外貨稼ぎの為に漁業も営んでいるのだ。
冬、東海岸にはキュウリウオ、ハタハタ、スケソウダラが産卵の為に大挙して接岸する。過酷な冬だが、漁業にとっては掻き入れ時なのだ。
小雪が舞う寒い日だった。工場に、はるばる東海から産地直送のキュウリウオが届けられた。凍結した悪路を、消耗しきった車両で、一昼夜以上もかけて運ばれてきたものだった。運転手は命がけだったに違いない。 仕事が終わるや否や、私の控え室に、もうもうと湯気の立つ大鍋が運び込まれてきた。キュウリウオは体長25センチほどのカマスに似た細長い魚だ。スタッフたちも集まり、どこからか秘蔵の密造酒も運び込まれてきた。「乾杯」、「乾杯」で50度の焼酎が喉を焼いていく。飲むほどに、皆、いい顔になっていく。分厚い技師長の顔も緩み放しだ。腹には卵がびっしりと詰まっていた。唐辛子と岩塩だけの素朴な味付けだが、最高のご馳走には違いなかった。
ここの人々は誰もが勧め上手だ。私は、つい遠慮も忘れて、大ぶりな物を10尾近くも平らげてしまっていた。こちらへ来てからは肉も魚も全て冷凍モノだった。本当に久々の鮮魚だったのだ。
12月の下旬には、スケソウダラの第一便が到着した。昼食の時間に大鍋が運び込まれてきた。朴おばさんがつきっきりで、魚がどんぶりから飛び跳ねそうなほど大盛りにして勧めてくれる。これも、腹がパンパンの抱卵ものだった。岩塩と唐辛子だけで味付けだから、魚の味がそのまま凝縮し、濃厚過ぎるほどだ。
周りは「もっと食べろ!もっと食べろ!」とハヤしたてる。掛け声に会わせて、朴おばさんはまだ中身の残っているドンブリを引っ手繰るように取り上げ、またまた山盛りにしてしまう。ねちっこい愛情表現に、私は故郷の人々を思い出していた。部屋中に、幸せな時間が充満していくのだった。
大鍋に、ふっくらと盛り上がった炊き立てのご飯も湯気を立てている。「ご飯を食べろ」と、また無理強いをする。もう、私の胃袋にはご飯の入る余地はなかった。しかし、彼らの誰もがドンブリに山盛り一杯のご飯を平らげて見せるのだった。
第9章 工業事情
9−1 30回線しかなかった国際電話回線
プロジェクトの期間中は、北朝鮮と日本との間で週に2度、曜日と時間を決めて電話での連絡が行われていた。北朝鮮側は国際合営総会社の「李」課長、日本側は「金」が窓口だった。割引料金が適用される午前8時前と時間を決め、殆どは「李」課長の自宅に「金」の方から電話が入ることになっていた。私が現地に滞在していてもそれは変わらなかった。
現地の国際通話料は、電話が1分間10ウォン、日本円で約550円、FAXはA4サイズ1枚が30ウォン、日本円で1700円もする。平嬢にいる私の方も、気軽に、「金さんに電話を」とはいかなかったのである。
それは、私と在日メンバーとの間では、直接的な対話が必要無かったということでもあった。このプロジェクトの性格が、そんなところからも分かるのだった。
現地の通信事情も同じだ。宿泊先のホテルと工場間の直接的な通信手段が全くなかった。いつも、商社経由なのだ。それがインフラの問題なのか、他の理由によるものなのかは分からず仕舞いだった。
日本へ電話を掛ける時は、ホテルか国際郵便局に設置された専用の電話ボックスを利用する。勿論、交換経由だ。
家内が2度ほど、ホテルに電話をしてきたことがあった。片言の英語しか話せない家内だったが、幾つかの交換を経由して無事繋がったのである。
どっちにしても、一語一語検閲(盗聴)されているから、きつい冗談や無邪気な正直さは、当然、慎まなければならなかった。
平壌ホテルの脇の三叉路には、小鳥の巣箱のような公衆電話が幾つか設置されていた。受話器を握っている人もいたから、まるっきりのおもちゃでもなさそうなのだ。まさか、電話を掛ける通行人までがサクラではないだろうし・・・。
しかし、どのみち、大半の市民にも、我々旅行者にも、それは無縁のものには違いなかった。
平壌に、在日同胞が合弁で運営する「通信センター」なる施設がある。そちらに、日本からのFAXを取りに行かされることもあった。何故か、その施設はホテルにもなっていた。カラオケバーで料金が払えなくて、当局に申告されたのもそこでのことだった。
この国の通信事情は、我々にはよく分からなかった。海外からの電話やFAXは一旦ここに集約され、一旦検閲を受けてから配信される仕組みだったのかも知れない。
国際電話回線数は30回線しかないという。その程度の回線数なら、通信傍受も検閲も、さほどの仕掛も必要とせずに思いのままに行えるはずだ。
早くて正確な情報伝達は、独裁や鎖国体制をとる集団には諸刃の剣だ。それを敢えてやろうとしても、自国だけでは賄いきれない膨大な資金と西側陣営が所有する先端技術が必要だ。
国家エネルギーをイデオロギーの進化にばかり注ぎ込み、化石と化してしまったこの国は、やはり我々の社会とは隔絶された遠い存在だったのである。
9−2 北朝鮮の商社
北朝鮮の対外ビジネスは、各組織に所属する貿易商社を通して行われるようになっている。ナンバーワンは、労働党が経営するデソン商社で、ここは銀行でも何でも持っているらしい。国家権力付きの財閥グループと思えば分かり易いようだ。
人民軍、国家保衛部(警察)、政務院(内閣)などの国家中枢の機関も同様、傘下に幾つもの商社を抱えていて、取引先や事業内容によって商社や関係者の顔ぶれも変わるという。
北朝鮮の頭脳・国家科学院も同様だ。私は、工学碩士や理学博士の称号を持つ商社マンとも何人か会っている。
下部機関も身の丈にあった中小規模の商社を持っているが、大小に拘わらず、こと商売に関してはかなりの自由裁量権を持たされているようだ。しかし、外貨とご当地産品の不足と閉鎖性は覆うべくもなく、それゆえ取引は限定されたものになってしまっている。
偽札造りも、麻薬の密輸も、この国の国家犯罪として糾弾されている細分化された経済組織だ。裏の組織だってあるに違いない。どこかが関っていることだってあり得ないことではない。しかし、現地の外貨ショップでも、差し出された交換紙幣やドル札を、目の前で定規に当てたり、透かしてみたりすることが普通に行われている。この国の一般市民もまた被害者なのだ。国家イコール全国民でないことも、我々は常に念頭においておかなければならない。
プロジェクトが破綻した後、日本企業との商談に積極的だった何社かに日本からFAXを入れたことがあった。しかし、どこからも反応が返って来なかった。FAXが途中で抜き取られ、相手に届いていない可能性も否定できなかった。
平壌滞在中に、日本へ、国際郵便局から治工具の設計図面を郵送したことがあった。これは、結局、日本に届かなかった。現地のスタッフは事も無げに言ったものだ。「見てもナンだか分からなかったから抜かれたんだよ」。
9−3 担ぎ屋商売
日本人の対北朝鮮ビジネスは、在日朝鮮商工人を介してやるのが一般的になっている。
長い間、私は韓国や韓国人と濃密な関係を保ってきた。だから、朝鮮半島に係わる事柄では、その辺の評論家には負けないつもりでいた。
しかし、在日朝鮮商工人という人々は、全く異質で、私の理解や尺度を遥かに超える人々だったのである。日本人社会との長期にわたる複雑微妙な関係は、極めて特異な人々をも、日本と北朝鮮とのハザマにつくりあげてしまったようなのだ。むしろ、私は、北朝鮮の人々の方に、より多くの共感を覚えるのだった。
平壌高麗ホテルの土産売り場で、玉製(と思われる)の印材がたったの2ウォン、110円ほどで売られていた。随分と安かった。「これなら日本でも商売になる」。一応事業家の私は、何本かのサンプルを買い込んで帰国した。
帰国後、山梨の宝飾加工業者に早速持ち込んでみたのだが、「これはダメだ」とにべもなかった。素人の浅はかさだった。翡翠に似て否なる軟玉は、二束三文の価値しかなかったのだ。
同時進行で、在日朝鮮商工人が経営する朝鮮専門の商社にも見積もりを頼んであった。暫くして、その商社から回答がきた。現地で1ドルだったものが25ドルになっていた。彼らの商売のスタンスは、我々とは随分と違うのである。
適正な設備と原資材を用意することはモノ造りの基本だが、それ以上に大事なことは必要なスキルを持った人材を集めることだ。一本の生産ラインを維持・管理するだけでも、生産管理、製造技術、品質管理、資材、・・・など幾つもの専門的な知識と経験が要る。そして、そのようなスキルを持つ人材の値段にも世間相場というものがある。
「バナナの叩き売りじゃあるまいし!」。途中で投げ出し、去って行った仲間が憤慨して私に言ったものだ。在日朝鮮商工人といわれる人達は、自分たちが買う段になると何でも闇雲に値切るのだった。
製造業は、工場を確保し設備を揃えるところから始まる。どうしても莫大な初期投資がかかるようになっている。いざ生産が始まっても直ぐには期待するような品質やコストの製品が出来上がってこないものだ。機械にしろ作業者にしろ、一見無駄とも思えるウオームアップの期間が必要なのだ。
生産量だって、緻密な販売計画のもとに、生産現場の習熟具合を視野に入れて段階的に増やしてくのが普通だ。
生産ラインが、何かの事情でストップすることだって、月に一度や二度はあるものだ。況や、発展途上国と言われる国々では尚更だ。
営業環境だって時々刻々と変わっていく。絶えざる情報収集と軌道修正が必要だ。そうこうしていると半年や1年はあっという間だ。
高利貸しがやるように、札束を泳がしておいて太らせてから網で掬うような因果な商売とは訳が違うのである。「さあー、一年過ぎたから金手繰りに行くぞ!!」と本音をぶつけられても、我々堅気の衆は当惑してしまうだけなのだ。
在日朝鮮商工人たちは担ぎ屋商売が本業だ。所詮は、経済制裁という特殊な状況下で、国家の「計画経済」に寄生して咲く仇花なのだ。現地では彼らをポタリジャンサ(棒振り商売)と呼ぶ。揶揄と皮肉を込めた言い方だ。そんな彼らに北朝鮮の産業近代化を託すしかないとすれば、何とも絶望的で、お粗末過ぎる話しなのである。
9−4 狸オヤジ
出来上がった商品の販売はT社という個人商社が担当することになっていた。T社は練馬駅に近いマンションの一室にあった。
当時、練馬駅の周辺は、地下鉄の乗り入れ計画が動き出し、駅前では再開発が始まっていた。この駅前の工事区間に「鄭」は不動産を所有していた。そのこともあって、「鄭」がT社担当ということになっていた。
「鄭」が所有する不動産は競売物件だった。そこに自社ビルを建てるのだと、彼は会うたびに目を細めた。やはり、「鄭」はただものではなかったのだ。
T社は、主に香港を舞台に、電子材料や部品の売買をしていた。香港は世界の秋葉原といわれるほど、電子部品・機器の巨大なマーケットだ。ここの市場では、クズから最先端のものまで、電子部品・機器なら何でも取引されていた。
大手電気メーカーの中国駐在員で、香港にプライベートカンパニーを設立して部品の横流しをしていた優れモノがいて、私も1、2度、彼の香港人ダミーに部品を巻き上げられたことがあった。裏ではそんな危ない連中が暗躍する街でもあるのだ。
そんな連中がよく手がけるのが、電気製品や事務機などのサービスパーツの裏取引だ。同じ部品でも組立工場に正規に流すのと、地下でサービスパーツ市場に流すのとでは価格に数倍の開きがある。真に美味しいビジネスなのである。
今では、トナーなどの複写機の消耗品は純正品以外でも市民権を得ている。しかし、そんなものが裏社会のしのぎだった時代もあったのだ。「お前、命をなくすぞ」。ビデオの偽造部品でしこたま儲けていた連中に、よくクギを刺されたものだ。
そのT社だが、社長と、えらく横柄な中年女性(社長の奥さんだった)と、二人の若い女性事務員だけの小さな商社だった。それでも、社長のIは、これから北朝鮮で生産しようとしている電子部品に関しては、業界通で、その筋には顔も利く筈だった。
「彼は狸だからな」。途中で脱落していった技術屋の一人がポロッと洩らした事があった。彼と社長のIとは長い付合いで、間を取り持ったのも彼だった。確かに、社長のIは、言質を取られないように、終始掴み所の無い話をする人物だった。しかし、我々には、そんな人物でも頼りにしなければならないほど、他の選択肢が残されていなかったのである。
9−5 捕らぬ狸の皮算用
北朝鮮側との委託加工契約は、密かに「金」と「鄭」が現地に乗り込んで結んできたようだ。それを私は随分経ってから知るが、契約内容に関しては、最後まで一切伏せられたままだった。多少の行き違いや閉鎖性は覚悟の上だったが、現実は予想を遥かに超えていたのだ。
この時に彼らが欲得で提示した契約数量の為に補償問題まで発生したようだが、それも私が外れた後の話で、人づてに聞いたに過ぎなかった。
「出て来てくれ。困ってるんだ」。半年も一年も経ってから、そんなことを打ち明けられても、私の心が動く訳がなかった。
プロジェクトを「金」たちに提案した際、生産量を何通りか想定して試算した損益表を提出してあった。その生産量の上限値に近いものが、彼らの独断で契約書に書き入れられたようなのだ。
たしかに、製造業は生産量が多くなるほど利益は急増する。しかし、製品を造れることと、製品が商品となって売れていくこととは別なのだ。
「金」たちは、試作品が出来上がるとすぐに、「その数量が売れないから」と脅し、私をプロジェクトから外しにかかった。彼らが負担する私自身に係わるコストが小さく無かったからだ。
しかし、その段階では、我々のブツは未だ試作品で、製品でもなければ、いわんや商品でもなかった。製品から商品に至るまでには長いプロセスがあるというマーケティングの基礎知識さえも、彼らは持ちあわせていなかったのだ。
これは現地側の話だ。契約時、数量に関しては随分と再考を求めたという。現地側の方が、ちゃんとモノ造りが分かっていたのだ。
生産計画は、造る側と売る側があらゆる観点から慎重に検討したうえで立案されるべきものだ。更には、刻々と変化する周囲の状況に合わせ、柔軟に修正もされなければならない。希望的観測や姑息な利害打算など入る余地がないものなのである。
大手といわれる企業にいて、絵に書いた餅のような生産(開発部門もそうだった)計画が却って評価される場面を何度も見てきた。どれもが幹部のスタンドプレーだった。実務担当者こそいい面の皮だ。
今思えば、高度経済成長時代も、所詮は良き神話に彩られた虚構の時代に過ぎなかったのかも知れない。馬鹿が、何をやっても、そこそこに帳尻の合う時代だったのだ。
「金」たちの描いた餅にはそれなりの思惑があった。担ぎ屋の品は大風呂敷に包むに限るのだ。「金」たちは、かの国の内部事情に関しては先刻承知だ。出来そうにも無い数量をわざと相手にぶっつけることは、彼らにとっては一種の保険でもあったのだ。ウリナラ(我が愛する祖国)を標榜していても商売となると彼らはしたたかだった。
「金」は、ロシア経由で北朝鮮に入ってくる木材を、建材やパレットなどに加工して日本に輸入する事業も行っていた。なかなかの実業家なのである。
北朝鮮は労働者をロシアの寒冷地に送り、木々の伐採に従事させていた。そのみかえりの木材だった。
その「金」が、「日本の市場に合った品物が出来上がってこない」とぼやく。「言った通りにやらんのだよ。やつらは・・・。全く信用が出来ん連中だよ」。つい本音が出てしまう。機械を与え、規格を指し示し、ケツを叩けば、それで完璧なモノが出来上がると錯覚しているのだ。
会社勤めをしていた時、インドでVTRの生産工場を立ち上げたことがあった。プロジェクトは、現地の技術者を日本に呼んで一通りの研修を行うところから始まる。その後、我々が現地に乗りこんで一緒に製造ラインを構築し、一定量の試作品を造ってみる。出来あがった試作品は、現地と本社で厳密な品質検査をし、品質基準をクリアした時点で、いよいよ量産段階に進むのである。
当初は品質が安定しないものだ。一定の品質の製品がコンスタントに出荷できるようになるまで、本社から所要の人材を現地に派遣し、付きっきりで指導しなければならなかった。海外生産を軌道に乗せるには、そんな一連のプロセスが必要なのだ。
現地の生産体制は、日本側のおどろおどろした思惑とは別に、予想をはるかに上回る順調な立ち上がりを示していた。現地側は、体制にがんじがらめの国というイメージを払いのける柔軟さと対応の速さを示してくれていたのだ。「背に腹はかえらぬ」特殊事情も見え隠れしていたが・・・。
プロジェクトの第一ステップは商品サンプルの承認だ。これは販売を請け負った練馬のT社の役割だ。原材料の一部はT社を介して購入することにしてあった。これは一種の保険だった。T社はプロジェクトの進捗も十分把握できる立場にあったのだ。
しかし、「担当者が中国に出張中で・・・」。などと、社長のIは些細な口実を設けてはサンプルの認定をズルズルと引き伸ばしにかかるのだった。
工場では試作品が出来あがった直後から人員が集められ、量産開始の号令の待っていた。先を読む現地の対応は完璧で申し分なかったが、それに我々混成部隊の戦力がついていかなかったのだ。
「モノが造れたこと」と、「そのモノが売れる」ということとは全く別の次元ことなのだが、現地の期待は分からぬでもなかった。
サンプルの承認が届くまで、何人もの生産要員が停止した生産ラインの傍で虚しく時を費やさなければならなかった。
「どうせ奴等はやることがないのだから」。珍しく工場に足を運んだ「金」は、あくまでも太っ腹だった。確かに、現地の状況は、「金」の言う通りではあったのだが・・・。
その「金」だが、何故か「奴ら」というのが口癖だった。そんなささいな事柄からも、彼我の関係が見えてしまうのだった。
9−6 初めて商品を造る人々
現地の技術スタッフは技師長を含めて6名だった。メンバーを順番に紹介されたが、プロジェクトに必要なスキルは完璧にカバーされていた。現地側は決してモノ造りの素人ではなかった。それに比べて、我が方は、自称技術者の「金」と私で全てだった。何とも見劣りがして恥ずかしい思いをしたものだ。
このメンバーは誰もが名刺を持っていなかった。韓国・朝鮮人の名前は、漢字に置き換えると分かりやすいのだが、彼らの中で自分の姓名を漢字で書ける人は一人も居なかった。私はカタカナで不確かな音をメモするしかなかった。
技師長は50代半ばぐらいだったが、彼でさえもロシア語とドイツ語は多少分かるものの漢字や英語となるとサッパリなのだ。英語に関しては、若い技術者たちも同じだ。
工場関係者の中に、「息子が日本語を習っている」と話す人もいた。日本語を正規科目に取り入れている学校もあるらしいのだ。
長い韓国暮らしで、反日、嫌日に人一倍過敏になってしまっていたが、そんな話を聞かされるとついほろりとさせられて、この国が無性に好きになってしまうのだった。
プロジェクトの実務は、使用する部品の金型を造るところから始まる。私が作成した製品の設計図面は計画の初期段階で「金」たちに提出してあったが、私が現地に調査に入った時にはその金型が既に出来上がっていた。それどころか試作品まで揃え、「どうだ」と、言わんばかりに待ち構えていたのである。
契約以前に設計図面を渡すなどということは本来なら有り得ないことで、私としては手のうちまで見せる大サービスだった。取り扱いについては自主規制が働くものだと期待していたが、やはり空手形だったのだ。
手弁当で、私があちらこちらと引き回されたり、分厚い資料を提出させられたりしている間に、既にプロジェクトは進行していたのだ。ここでも、在日パートナーたちの商習慣の特異性を見せつけられ、不信感が募るのだった。
試作段階では寸法精度の検証が重要だ。仕上がり寸法の分布を統計的に処理し、量産時の不良率を推定しながら金型の修正を行うのである。
しかし、現地流だと、何個かのサンプルを拾い出し、ノギスなどで主要部の寸法を測定し、図面の寸法公差内に入っていていれば「良し」だった。何百分の一、何千分の一の確率で発生する不良が、生産コストや、その部品が組み込まれる製品の品質に大きく影響するのだが、未だその辺の考え方は確立されていなかった。
人手は有り余るほどある。寸法を外れた部品でも、ペンチで曲げるか、ヤスリで削れば充分に使える。「多少恰好が悪くたって動けばいいじゃないか」。そんな彼らの言い分も、当地に限れば至極もっともなことだった。
計画統制経済下では企業間の競争は不要だ。投入された原資材に対し、要求する数量が出来上がりさえすればよかった。しかも何割か余分に出来たりしたら自由裁量の幅が広がるし、正直にお上に報告したら表彰ものだ。使えるものをみすみす捨てるなど考えも及ばないことなのだ。
しかし、我々の製品は、輸出品だった。
このプロジェクトに関しては、現地企業側に対する国家からの物質的なインセンティブは一切無かったようだ。計画経済のもとでは、余剰な物資は一切存在しないことになっている。国家の計画以外のことをやろうとすると、金でもモノでも自前で調達するしかないのだ。
だから、各機関はこぞって、ありとあらゆる手段を使い外貨獲得に奔走する。時には危ない仕事にも手を出すことになる。そんな構図も浮かび上がってくるのだった。
9−7 傭兵は一年限り
パートナーの「金」たちが予め設定していたプロジェクトの期限は、きっかり1年だったようだ。彼らの資金力では、それが限界だったのだ。符合するかのように、威勢のいい若手金融業者の「河」が動いた。
彼らとの間には業務契約書を取り交わしていなかった。だから、何時始まり、何時終わり、如何なる結果が出ようとも法的には全く問題がなかった。しかし、姑息なスタートと一方的な脅しによる終結宣言は、私の中の「在日」に、特殊性の一文字を濃厚に書き加えることになる。
その時期、生産効率や品質はともかくとして、現地では客先からの承認が出ればいつでも生産できる体制になっていた。もう、在日側は金のかかる私をプロジェクトに引き入れておく必要がないと判断したようだ。
「河」から、「一杯やろうか」と、帰国していた私に誘いの電話だった。それまでの雰囲気から、何かがありそうなことは予想の上だった。「まさか、命までとられることもないだろう」。私は、応じることにした。何れにしても、彼らがそのような考えであれば潮時だった。
老練な「金」や「鄭」は、やはり姿を見せなかった。道の両側をうめつくす看板にはハングル文字が溢れ、「ここが日本か?」と訝しくなるほどだった。
案内されるままに居酒屋の暖簾を潜り、席に着いて直ぐだった。「詐欺師か、この野郎!金返せ!」。大袈裟に恫喝が始まった。他にも客がいたが、誰もが、蚊に刺されたほどの反応も示さなかった。客も、店の者も、皆、身内なのだ。
売れるか売れないかはこれからの話で、営業はむしろ日本に居る彼らの役目だった。ずっと現地に張付いていた私が出来る仕事ではなかった。
「もう、たくさんだ」。席を蹴って立ち上がろうとしたら、袖口をがっちりと掴まれてしまっていた。並の掴み方ではなかった。私には柔道をやっていた時期があった。その種の技には敏感だ。引き手を切るようにして振りほどき、その店を後にした。
「鄭」の射撃の腕前といい、「河」のその種の心得といい、彼らの特殊性がどんどんと私の中で増幅されていった。「世間の噂や評判もあながち嘘ではないものだ」。普段の「私」を見失いそうになっていた。
この辺りの飲食店は、アジアの他の国々からの侵食が激しかった。彼らの逞しさは賞賛に値することではあったが、裏を返せば我々日本人の嫉妬と愛国心を刺激する何物でもなかった。よけいに腹立たしくなるのだった。
やけにネオンがチカチカする小路を足早に通り過ぎながら、「投げ出してしまおう」、そう心に決めた。
ところが、随分と経って、「金」から関係修復のシグナルが送られてきたのである。電話口で抗議すると、「おれたちは知らん。河が勝手にやったことだ」と、あくまでも賢かった。しかし、覆水は盆に戻らなかった。彼らの策動は続き、私の中の彼等に対する不信感は膨れ上がっていった。
我々の不穏な関係は北朝鮮側にも伝わっていたようだ。彼らの勧めもあって、3ヶ月の予定だった四度目の滞在を1ヶ月で切り上げて、このプロジェクトに終止符を打ったのだった。
9−8 貿易管理令
冷戦時、ハイテク機器は「ココム規制」なるもので共産圏への輸出が厳しく制限されていた。そして、冷戦時代の雪解け(これは共産主義、社会主義の実質的な敗北・崩壊だったが)とともにココム規制が撤廃され、その代わりに「大量破壊兵器等の不拡散の為の補完的輸出規制」なる項目が貿易管理令に追加されることになる。
そこでも、北朝鮮はイラク、リビア、シリアとともに栄誉(?)ある「懸念4カ国」なる特別分類に名を連ね、規制を厳密に遵守するなら、無許可で輸出できる品目は日用雑貨品くらいしか残らないように追い詰められていた。
東京タワーの傍に当局の代行機関があった。かつてソ連に電子部品の製造ラインを輸出するプロジェクトに関わった私は、何度もそこに足を運んでいる。当時、赤の枢軸は金も勢いもあった。だから、甘い汁にありつこうとする有象無象の輩でいつも混雑していた。
勿論、我々も例外ではなかった。しかし、我々は小物だったし、プロテクトも小物にしては万全だったから、そのことで追求されようなことは一度もなかった。
ようやく順番が回ってくると、次には意味不明の様々な条文を振りかざし、理詰めで迫ってくる係官のクールな対応が待っていた。腹を据えて掛からないと、いつも途中でめげそうになってしまうのだった。
実際、規制の対象となるハイテク機器は、複雑な流通過程を辿りながら雪だるま式に価格を膨らませ、危ない国々に大量に送りこまれている。だから貧乏な国々が(制裁を受けているのは、大抵国力のない貧乏な国々だ。)割高な品物を買うには、自国民を飢えさせるか、それなりに付加価値の高い外貨稼ぎのブツが要る。
軍備の拡充は独立国家の最優先事項だ。軍需物資は、国家存亡の為に、何を差し置いても、幾ら高くても調達しなければならないのだ。
そして、大いに拡散している大量破壊兵器の主たる原産地は、規制を高らかに叫ぶアメリカであり、旧ソ連であり、中国だということである。
我々日本人は、似非人道主義者としてではなく、国益を最優先する冷徹な外交官の目でも世界を眺める習慣を持たなければならないのである。
それらの規制に対しては日本企業もしたたかだった。下請けという日本独特の陰湿かつ洗練されたシステムを利用するのである。大抵中堅商社が元請になり、個人商社へ、そして末端の実働部隊へと仕事は流れていく。元請の正体が実働部隊にまで洩れることはないし、実働部隊から元請が割れることもまずなかった。
ソ連が崩壊するまで、秋葉原界隈にはそのような実践部隊を動かす個人商社のワンルームオフィスがたくさんあったものだ。金払いの良さで、当時のソ連はその筋からは圧倒的な人気があったのだ。
知り合いの社長には、儲け過ぎた金で白金の坩堝を買い、備品扱いにしていた知恵者もいたほどだった。
第10章 電波事情
10−1 ノイズに隠された韓国放送
レストランの片隅で一人だけの夕食を済ますと、あとは、一人で、もっと飲むか、読むか、寝るかしかなかった。案内同務が同じホテルにかならず一緒に寝泊りしていたが、せめて夜のひと時ぐらいは離れていたかった。
スタンドバーが何処のホテルにも設置されていた。大抵、通路脇にあって、中は通行人からは丸見えだ。PTAのお母さんたちが店番をしているようなスタンドバーだから、行き付けのスナックみたいにはいかなかった。止まり木に座ってはみるものの、何とも退屈なのである。
持ってきた本は既に読み尽くし、案内兼通訳の「柳」から池波正太郎の鬼平犯科帳のシリーズものまで借りて読んだ後だった。何故か、「柳」は、「乳房」などと鳥肌が立つような題名のものまで渡してくれるのだった。
何度も読み返した本を持ち出してページを繰ってみるのだが、活字が目の前を素通りしていく。電力不足で部屋は薄暗かった。ベッドに身を投げ出し、虚ろな天井を眺めていると、不安や寂しさが込み上げて来て突然逃げ出したい衝動に駆られるのだった。在日メンバーへの不信感と軋轢で、プロジェクトに賭ける意気込みも、既に半減してしまっていた。
千円もしないちっぽけなラジオは「ナイターが聞けるから」と、後で在日朝鮮商工人の一人が届けてくれたものだった。「ラジオは持込禁止だ」と言われて、当初は持ってきていなかったのだ。
外が暗くなると、ようやく待ち焦がれていた日本からの電波が届くようになる。まず、鳥取、島根、福岡あたりの放送がやってくる。ツマミを僅かづつ動かしながら、懐かしい母国からの微かな電波を拾いにかかる。この作業は、繊細な指の感触だけが頼りだ。
突然、大きく鮮明に鳴り出すのが現地放送だ。平壌発らしいAM放送とFM放送が、それぞれ2種類あった。どれも金父子を称えるプロパガンダ放送で、語り手の硬い言い回しが耳障りだ。間髪をいれずに、ツマミを回す。
AM放送帯には、強烈な妨害電波が3箇所に挿入されている。猥雑な電子音がヒステリックに鳴り響く。韓国の放送電波に混入させて聞こえなくしてあるのだ。この部分は、チューニングの合う範囲が広かった。急いでツマミを回しても、耳障りな音がなかなか消えなかった。それに比べ、日本からの電波は狭小で、聞こえてくる音も蚊の鳴き声のようにか細かった。
夜が更けるにつれて中国語やロシア語の放送が割り込んでくる。中国語やロシア語の放送が終了する深夜には、NHKの「ラジオ深夜便」が雑音の海から微かに聞こえ始める。いつも音が歪んでいて聞き取り難かった。時々、ふっと音が掻き消えてしまう。そんな時は、ツマミを弄らずにそのままにしておく。暫くすると、消耗した体力が戻る時のように回復してくるのだった。
この放送を聞こうと思うと、隣の部屋の、男女の睦みごとを盗み聞きする時のような集中力とエネルギーとが必要だ。
更に夜が更けると、高い周波数帯の何箇所かで韓国の放送が聞こえてくる。宇宙空間を自在に飛び回る電波だ。全てを捕捉することなど、どだい無理なのだ。
感度は比較的良好だ。女性アナウンサーの滑らかな語りが心地よかった。バックには軽い調子の流行歌が流れている。ソウルやカンナムの煌めくネオンや押し流されそうな雑踏が目に浮かぶようだ。
合間に読み上げられるのは、北朝鮮にいる離散家族へのメッセージだ。哀愁を帯びた優しい語り口だ。送る側と受ける側の氏名も読み上げられる。閉ざされた場所で、耳を清まし、涙している人々の姿がちらつくのだった。
現地のAM放送もFM放送も、0時近くになると、数字の羅列を延々と読み上げる声に変わる。各地に散らばった工作員向けの暗号指令だ。
現地の人々は否定するが、この数字が株価や朝鮮各地の気圧配置などではないことは明らかだった。
「今は、人の耳に聞こえないように通信ができるのに」。「日本の携帯電話を持って来なかったの?」。この事に関しては、彼らはあくまでも挑戦的だった。
私の虎の子のラジオは、帰国する際には工場で保管することになっていた。帰国前日には、私を立ち合せて日本語の本などと一緒に厳重に封印をし、倉庫の奥深くに仕舞こむのである。しかし、その厳重さは、何も私の為ばかりではないのだ。
10−2 宮廷御用達TV局
TV放送も2CHしかなかった。平日の放送は夕方から始まる。番組は、「これでもか!これでもか!」と、金日成主席の事績を紹介する宣伝放送に終始する。世界各国の要人と接見している場面や、朝鮮各地の工場や農場を巡り現地指導をしている場面が、飽きもせず繰り返し繰り返し流される。主席様は、森羅万象、社会、国家の全ての事柄に対して第一人者なのだ。
何の脈絡もなしに番組がいきなり中断し、金父子を称える軍楽隊の交響曲や、人民軍合唱団の合唱が挿入される。想像を絶する短絡的なプロパガンダだ。
会見の場での金日成主席は、威厳に満ち溢れて見える。主席様は名優でもあるのだ。どこかの大国でも俳優が大統領になったことがあった。一国の元首とは本来そのようなものらしい。
日本の政治家は、どうも頭を下げ過ぎるきらいがあるようだ。見劣りがしてならなかった。もっとも、刻印無しの金塊を土産にもらえば、自然に頭も低くなろうと言うものだが。
後日談だが、山梨に行った時、その代議士の息子が頻繁に北朝鮮を訪問していると聞いてまた納得したものだ。
夕方には定時のニュース番組が組まれていた。毎日、同じ男女のアナウンサーが登場し、代わる代わるニュースを読み上げていく。
海外の新聞(アフリカ諸国が殆どだが)に載った北朝鮮指導者の礼賛記事や訪朝中の海外要人や訪問団の動向を伝える内容が主だった。カメラは終始同じアングルでアナウンサーの顔を追い続ける。その間、関連映像が映し出されることが全くないという異様なニュース番組なのだ。
日本や韓国の政治姿勢を激しく糾弾しているような場面になると、芝居じみたアナウンサーの口上は、更にハイテンションになる。その度に、笑うべきか、同情すべきなのか、途方にくれたものだ。
しかし、日本のTV放送も新聞も、思えば、何人もの金日成や金正日に奉げられたモノに相違なかった。内実は、全く同じなのだ。
日曜日の映画の時間には、長編大作「民族の運命」が連続放映されていた。定番の抗日闘争劇だ。子供の頃に熱中した「ハリマオ」や「白馬童子」を思い起こさせる古い画面構成だった。どうしても、違和感が先に来てしまう。
ホテルの売店には、同じ題名の何巻もある本やビデオテープが並んでいた。相当に「リキ」の入った大作ではあったようだ。
30分ほどの子供番組もあった。縫いぐるみなどが出てくるところなどは、朝鮮版「おかあさんといっしょ」といったところだ。
アニメ番組は、トラ退治をする昔の英雄の物語で、ストーリーも絵柄もほのぼのとしたものだった。
親たちの夢の一つが、子供を歌舞音曲の子役スターにすることだった。この国でも、子供の稽古事が随分と盛んで競争も熾烈なのだ。「うちの娘はブスだから諦めました」。通訳の「柳」が冗談とも本気ともとれる口調で語ったものだ。
だから、子供の芸能発表番組は大人気なのだ。30分ほどの番組だったが、小学校の低学年ぐらいの子供たちが次々に登場して、プロ顔負けの楽器演奏や歌や踊りを披露する。技だけでなく、化粧も服装も舞台しぐさも非の打ち所がなかった。それゆえに、鳥肌立つ思いがするのだった。
番組表が配られるわけではないからスイッチを捻るまで何が出てくるか分からなかった。
野草のセリが長々と登場したこともあった。毒ゼリと思われる写真を持ち出し、両者の違いを丁寧に説明している場面だった。首都・平嬢でも、ものの20分も車で移動すると、目の前に豊かな田園や緑豊かな丘陵が広がっている。そこでは野草や山菜の類も豊富そうだった。季節になると、山野草が普通に庶民の食卓にのぼるものとばかり思っていたが、案外都市住民には無縁のようなのだ。
薪を効率よく燃やす手造りコンロの紹介があった。発明者でもある大学教授が出演し、直々にご飯が炊き上がるまでを実演して見せてくれる。大型のブリキ缶に、ただ穴を開けただけにも見えるコンロだった。小枝をくべるとチロチロと炎が燃え上がり、上に被せた鍋の水がじきに沸騰を始めた。
ドキュメンタリー番組もあった。どれも、アフリカ辺りで収録された鳥獣虫魚の話だ。たまに映し出される原住民の生活場面は、確かに、この国のそれよりはずっとシンプルだ。未だに、こんな映像だけを見せておけば「地上の楽園神話」は崩壊することがないとでも思っているらしいのだ。
1996年に開催されたオリンピックは、当地でも相当な時間を割いて放送された。どれもが、何とも異様な映像だった。レンズは、選手と観客席だけを、ひたすらドアップで追い続けるだけなのだ。開催地の都市景観や競技場の外の暮らし振りなどは、一切放映されることがなかった。
思えば、ここへ来てからというもの外国の近代都市を写した写真や映像には一度もお目にかかっていなかった。何事に付けても無用心な私だったが、土産のカレンダーを選ぶに当たっては、その辺は十分過ぎるほど気を使ったものだ。
第11章 北朝鮮釣り紀行
11−1 デソン貯水池
北朝鮮訪問2度目は、6月中旬から9月中旬までの3ヶ月に及ぶ長期滞在となった。それまで一番長かったのがインドでの35日間だから、諸条件を勘案すると、これは途方もなく過酷なスケジュールだった。
北京領事館で発行されたビザは、有効期限が18日間となっている普通のものだった。ビザの期間延長は、出先機関ではなくて本国で行うようになっていた。平壌到着当日に、外交部から派遣された監視人兼案内人の「安」指導員に連れられて平壌の入出国管理事務所に出頭し、期間の延長を申請した。3カ月の滞在許可がおりるのに一週間とかからなかった。
おそらく、この滞在許可は特例中の特例だったはずだ。北朝鮮側が海外企業との合弁事業を如何に重視していたかである。
入国して直ぐの日曜日、同行した在日の「鄭」はゴルフ場へ、私は魚釣りへと出かけた。「鄭」に限らず、在日メンバーはゴルフに異様な執着心を示した。どうも、彼らはゴルフをすることが実業家のステータスのように思っている節があった。
私はゴルフをやらなかった。嫌いな理由の一つが、ゴルフ場がえりの連中の気取った自慢話だった。我々釣り仲間の泥臭い自慢話とは温かみが違うのである。そんな目から見れば、在日のゴルフ好きも、屈折した彼らの自己顕示に見えてしまうのだった。
まず案内されたのがデソン貯水池だ。平壌郊外のデソン山の一角にこの貯水池はあった。この貯水池は大同江の水を二段揚水で汲み上げて溜めこむ大規模な灌漑施設でもあった。満水時には1億2千万立方メートルの貯水量を誇り、付近の5000haの田畑を潤しても余りあるといわれている。
「鄭」が来ているはずのゴルフ場を横切り、斜面を降りていく。雨季の直前だった。何年ぶりかの渇水とかで、その巨大な人造湖はほとんど底を見せて干上がり、カラス貝の大きな黒い貝殻がそこらじゅうに散乱していた。対岸では、若い兵隊たちが素っ裸になって水に浸り、刺し網に魚を追い込んでいる最中だった。
運転手が車内をガソリンで拭いて清掃したとかで、車の中にはガソリンの強烈な匂いが充満していた。現地に着くまでその車の中に3,40分も閉じ込められていたものだから、途中から頭がクラクラしてきていた。釣りをする気力などなかったのだが、「せっかく来たのだから」と勧められ、竿を出してみる。
小一時間ほどだらだらと粘ってみたが、誰の竿にもアタリがなかった。薄濁りの水の中を何度も覗き込んでみるのだが、小魚一匹見当たらなかった。少し温くなったビールをビンごと回し飲みして、早々に貯水池を退散することにする。
帰路の山道で、人々を満載したトラックと頻繁に交錯した。狭い道だから、々交わすのが大変だ。我方の血気盛んな運転手はかなり強引に突き進んでいく。気の毒なことに、大事な人民を乗せたトラックは巨体を後ずさりさせながら道を譲るしかなった。
荷台は、くたびれた人民服に身を包んだ老若男女で満杯だ。この時期、組織単位で野会(遊山)がよく行われる。荷台のどの顔も真っ黒に日焼けし、健康そのものだ。
子供たちのグループも来ていた。子供たちはカラフルな服装で、親達のようにはみすぼらしくなかった。そのような時代を経てきた私には、親たちの子への思いが直に伝わってくるのだった。
枯れ木を集める子、石を積み上げて炉を造る子、火を炊く子、鍋を持ち運ぶ子と、働き蟻のように大忙しだ。ぼんやりしたり、はみ出したりしている子は一人も居なかった。
日本ではとっくに失われたセピア色の光景だった。しかし、どの集団からも圧倒されるようなエネルギーを感じ、文明国日本から来た私はタジタジだった。
11−2 浮上したワウ島の主
デソン山を下り、平壌と南浦市を結ぶ産業道路に出て、南浦市郊外に広がる湖沼地帯へと移動する。目的地は大同江の河口にある著名な遊園地(公園)ワウ島だ。
一見小島のようだが地続きの小高い丘がワウ島だった。周囲にはただの池にしか見えない水泳場や、養魚場や、夥しい沼が点在している。多くの釣り人たちがいなければ、河口に広がるただの寂しい荒地だ。それでも、ゲートのところでしっかりと入場料を徴収されてしまった。
ゲートの手前には外貨食堂があった。これが唯一観光施設呼べるものだった。ここは、我々も何度か利用した。入り口近くのスタンドバーの止まり木で、いつも簡単に昼食を取るだけだったが、奥にはテーブル席もあり、随分と広かった。しかし、何時行っても他に客の姿を見かけることはなかった。
漁港が近かった。そのせいか、カレイのから揚げは、ここが一番美味かった。
ここから眺める大同江は海のように広かった。河岸は漁船の船着場にもなっていた。結構大きな漁船まで、岩陰に隠れるように係留されていることがあった。どれも、ボロ舟だ。
ハマグリの水揚げをしている場面に出くわしたこともあった。横付けされたトラックの荷台には、アサリほどの小さなハマグリが山積みだった。
船員たちの副業なのか、幾ばくかの金を払うと大鍋に煮た貝を食べさせてくれるらしいのだ。トラックの陰に隠れるようにして、何人かが貝を摘み食いしていた。
北朝鮮産のハマグリは、日本が大のお得意先だ。「***の焼き蛤は、みな朝鮮産だよ」。案内が自慢する。
海上で日本の船が待機していて、所定の量が集まると日本へ持ち帰るのである。日本海側のウニやカニなども同じ方式らしかった。件の小さなハマグリは、それらの規格外品だったのかも知れない。
園内には、遊歩道が湖沼を縫うように続いている。手ごろな沼で竿を出してみる。密生する菱の葉を避けてエサを振り込むと、直ぐに浮きに変化が出た。魚は確実にいる。透かして見ると、小魚の魚影が夥しかった。
コマセがきいてくると、皆の竿に、魚がぽつりぽつりと釣れ始めた。日本からわざわざ持参した練り餌だった。これでも十分いけそうだ。
釣れてくるのは、こちらでサルチ、ピラミと呼ばれる小魚が多かった。たまに、子ブナやコイの幼魚も混じる。
周囲は、夥しい釣り人たちだ。雨季が迫っていた。時々ザーと強い通り雨が来る。しかし、誰もがじっと浮きを見続けたまま動こうともしなかった。
水草の中に立ちこみ、腰まで水につかりながら、一心不乱に竿を振りつづけるナクシクン(釣りキチ)もいる。道楽にしてはやや気合いが入り過ぎのようにも見える。
しゃがみこんで糸を手繰っているのは、ゴムチュルナクシ(ゴムヒモ釣り)の釣り人だ。手ごろな小石に長いゴムヒモを結び、そのゴムヒモの一端に10本から20本の枝バリが付いた仕掛けを結びつける。小石はオモリの替りだ。
その仕掛けのもう一方の端は、手製の木枠に巻いた麻糸に連結する。これで道具は出来あがりだ。
エサはミミズだ。小石を掴んだ腕を大きく振り回し、エサの付いた仕掛けを遠方のポイントめがけて思いっきり投げてやる。後は、麻糸を指の間に挟んでアタリが来るのを待つだけだ。
アタリがあったら鋭く合わせて魚をガッチリとハリ掛かりさせてから、おもむろに糸を手繰ってくる。ゴムが伸びてハリのついた部分がずるずると手元に引き寄せられてくる。
魚を取り込んだら、エサを取られたハリにはミミズを補充し、糸を手から離してやる。すると、仕掛けはゴムの張力で、スルスルと元のポイントに独りでに戻っていく。ソ連で教わってきた釣り方だという。これは間違いなくアイデア賞ものだった。
水際に生えた水草の周りを、せっせと網ですくっている人がいる。大型の腰ビクは半透明の川エビで重そうだ。大型の手長エビも相当混じっていた。農薬大国日本などとは違って、生命の水はまだまだ清浄無垢なのだ。
10cm角ほどの発泡スチロールの小片が1mくらいの間隔で岸近くの水面に浮いている。これも川エビを捕るための仕掛けだ。浮き下の動物の骨を入れた三角網を、適当な時間を置いて順番に引き上げていく。引き上げられた網の上では、如何にも美味そうな小エビが10尾ほど、ピチピチと跳ね回っていた。
地元の釣り師が教えてくれた好ポイントは、養魚場の排水口周辺だった。そこらあたりの護岸だけはコンクリートが真新しかった。ゆるい傾斜の護岸の上に腰を下ろし、竿を出すことにする。
やや沖目に絶好の隠れ岩があった。その辺りがちょうどいい具合に深く落ち込んでかけ上がりになっている。絶好のポイントに違いなかった。ポイント選びは、どこの国の釣り師でも共通のようだ。
流れ着いた水草の切れ目から、うじゃうじゃと小魚の群れが透けて見えている。魚は間違いなくいる。我々は競うようにして、思い思いに隠れ岩の周りに餌を振り込んだ。
雨後は魚の活性が高まるものだが、こちらでは水温が低下してしまい、不調だった。粘って20cm前後のコイとフナを5、6尾ほどものにしたが、仲間たちは結構満足そうだった。
11−3 ハマグリのガソリン焼き
3ヶ月の長期滞在がようやく終わろうとしていた。「一切の娯楽とは無縁の地で、不良中年が、3ヶ月もの長い間、一人でよくも耐えたものだ」と、我ながら自分がいとおしくなるのだった。
そんなおり、対外経済委員会合営総会社の関係者が送別会を企画してくれたのだった。馴染みのワウ島で釣りを楽しみ、その後で、ご当地名物ハマグリのガソリン焼きパーティーを開いてくれるというのだ。
釣りは朝のうちが勝負だ。彼らも、負けず劣らず、極めつけの釣りキチだった。まだ暗いうちにホテルを出発だ。
やはり、朝マズメ時の釣りはナクシクン(釣りキチ)の思いを裏切らなかった。次々と仲間の竿が弧を描く。獲物は、20cm前後のコイとフナだ。
出遅れ気味だった私の浮きの周りにも、ぷつぷつと泡が湧き出してきていた。大物が寄ってきた兆候だ。全身に神経を集中する。緊張の一瞬だ。浮きが大きく上下し、横倒しになったまま静止した。大物が食らいついたのだ。
手ごたえを確かめながら、ソロリソロリと竿を立ててやる。根掛かりのような重量感だが、糸の先には確かな生命感が躍動している。やはり、かなりの大物だ。
「ヤバイ!0.4号だった!」。一瞬、釣り人は無力感に襲われ、自暴自棄になりそうになる。一瞬気を引き締める。
獲物を刺激しないようにソロリソロリと引き寄せてくる。0.8号のハリスで、5キロのひらめを釣ったことだってあるのだ。私は、自分を鼓舞した。
やがて、黒い影が潜水艦のようにゆらりと浮上してきた。4、50cmは確実にある。そこまでは、計算通りだった。
ところが・・・。ほんの一瞬だった。黒い影はいきなり体を反転させ、隠れ岩の脇の深みへと向かって逸走したのだ。
竿先から垂れた糸が微風に流されて、ヒラヒラと宙を舞った。汗ばんだ指先には大同江の大物の確かな手ごたえだけが残されていた。
私には、それで十分だった。仲間たちの好意を全部もらったような満足感が全身を包んでいた。
大物をかけた余韻が覚めやらぬままに竿をたたみ、近くの高台に登っていく。松林を縫って傾斜の急な踏み分け道が続いていた。モタモタしている中年組みを尻目に、若い運転手はハマグリの詰まった大きな麻袋を肩に担いで、ヒョイヒョイといとも簡単に登っていく。
平らな所を見つけ、いよいよご当地名産・ハマグリのガソリン焼きの開始だ。周りには、先人たちが食い散らしたらしい貝殻が大量に散乱している。その量は半端なものではなかった。何か、わくわくしてくるのだった。
20キロ入りの麻袋の紐を解き、水をタンと沁み込ませた麻袋の上に、ざーっと中身を開けていく。開け終わったらハマグリの山を均し、貝のお尻が上を向くように一個一個きれいに並べ直す作業がある。この時間が、腹っぺらしには何ともじれったかった。現地の人々は、私の3倍のスピードでこの作業を進めていく。
燃料は、運転手が口にゴム管をくわえ、車の燃料タンクから抜き取ったガソリンだ。ガソリンを焼酎のビンに受け、其の辺にある枯草で栓をしておいたものが数本準備されていた。このビンを逆さにし、ガソリンをハマグリの上に満遍なく振りかけていく。
ガソリンが行き渡ったら紙切れにライターで火をつけ、それを並んだハマグリの上に放り投げてやる。ずらりと並んだハマグリのお尻をなめるように、サーッと紅い炎が走っていく。
やがて、ジュージューと汁の焼ける音がして、美味そうな香りが辺りに充満する。バチン、バチンと貝殻の割れる大きな音が姦しかった。火の勢いが衰えたらガソリンを補充してやる。枯草の栓が絶妙らしく、火がビンの口まで這い上ってくることはなかった。15分ほどで焼きハマグリは出来上がりだ。
車座に地べたに座り込み、口の開いたアツアツの貝を拾い出す。ぐりっと殻をねじ切り、身の付いていない片方の殻をスプーン代わりにして、もう一方から身をすくい取る。ガソリンをぶちまけて焼いたにしては、少しも臭いがしなかった。至福の時が流れ、皆の足元には、競うようにみるみる貝殻の山が築かれていった。
小奇麗なバスケットに詰められた手料理も、どっさりと並べられた。対外経済委員会の李課長の奥さんが作ってくれたものだ。李課長は40代半ばぐらいで、東欧に留学経験もある対外経済委員会のエリートだった。痩身で一見なよなよして見えるが、育ちのよさと、この国の人特有の頑迷さがほどよくミックスしたような好人物だった。
彼は普段全く日本語を話そうとしなかったが、今日はしきりに「てんぷら」を連呼する。韓国、朝鮮料理には様々なティギム(フライ)料理がある。目の前に並んだ奥さんの料理にも様々なティギム(フライ)が入っていた。その中のどれかが、奥さんが日本の料理雑誌を見ながら作ってくれた「てんぷら」らしいのだ。
会話の中で、「アンアン」などと言う雑誌の名前まで飛び出すので、距離感が一気に縮ったような気がしたものだ。大型のタッパーに、びっしりと白いご飯も詰めてあった。彼らは代わる代わるご飯を食べろと勧めてくれる。やはり、白米のご飯はたいそうなご馳走なのだ。
以前に案内同務が洩らした言葉で、私は一日の米の配給量が大人一人あたり200グラムであることを既に知っていた。満腹であったのは事実だが、それ以上に、200グラムのことを思い起こすと手が出せなくなってしまうのだった。
口を開けたハマグリが、まだ3分の1以上も残されたままだった。5人では、20キロのハマグリはとても食べきれるものではなかった。
膨らんだ腹をさすりさすり、満ち足りた気持ちで後片付けを始めたら、いきなり数人の男たちが闖入してきたのだった。それまで、私は全く彼らの存在に気付いていなかった。一瞬頭の中が白くなり、身構えることさえ忘れてしまっていた。
しかし、他の人々は、それには目もくれず、平然と後片付けを続けるのだった。その姿は、あまりにもわざとらしかった。彼らの顔には、一様に気まずさが浮かんでいた。見せたくないものを見せてしまった気まずさだった。
闖入者たちの狙いは、脇に転がった空き瓶だった。他のものには目もくれず、ビンだけを引っ手繰るようにして持ち去っていった。私は唖然として同行した人々の顔を見回したが、尚も、何事も無かったかのように無言で後片付けを続けるのだった。
やや離れた松の木の陰に隠れるようにしてじっとこちらを見ているおばあさんの姿が目に入った。彼女は枯れ木のように生気がなかったが、一直線に投じられた視線からは強力な意志が伝わってくるのだった。私の手には最後のビール瓶が握られていた。私は何かに突き動かされるように彼女の傍まで行き、その最後のビール瓶を手渡してやった。まだ、男たちは近くにいて、こちらの様子を窺っていた。彼らの獣のような視線が身体中に痛かった。
11−4 養魚場の釣り名人
平壌の中心部から南浦市方面へ車で20分も走ると、のどかな田園地帯が広がっている。金日成主席の生地・万景台の脇を流れる小川を少しさかのぼると、田圃の中に灌漑用の溜池が点々と出現する。その溜池の多くが養魚場にもなっていた。ここが、我々の秘密の釣り場だった。
平壌ホテルの風呂場で転倒し、したたか頭を打ち、そのまま入院してから、私は随分と弱気になってしまっていた。その後はずっと、体力的にも精神的にも、どん底の日々が続いていたのである。
これには、語るにオチル経緯があった。長寿山ホテルを逃げ出して再び平壌に戻っていたが、レストランの食事が一番まともな高麗ホテルには予算不足で泊まれず、ワンランク下の大同江ホテルに泊まっていた時期だった。
ホテルで昼酒を飲んで泥酔し、土産物売り場のおばさん同務に「させてくれ-!!」と、せまって大騒ぎになってしまったのである。
この共和国には、他人の不正に対しては申告という伝家の宝刀があった。即刻、私はその満月のような丸顔のおばさんに申告されてしまったのだ。
異邦人には案内同務が四六時中ピッタリ張り付き、逐一監視することになっていた。ところが、その監視人も、ベッドの上ならぬ床の上に転がったまま高鼾で、とても業務が遂行できる状態ではなかったのだ。
真昼の深酒も、元はと言えば、案内同務が火をつけたようなものだった。昼食に軽くビールでも飲もうとホテルの地下にある外貨食堂でタソガレていたところに、彼が外交部の副局長と称する人物を連れてきて引き合わせたのだ。
通訳を介しての話は弾まなかった。そんな時は、飲むに限る。我々は何時しか日本酒の一気飲みにのめりこんでしまっていた。
結局、副局長氏はお抱えの運転手に抱きかかえられるようにしてホテルの一室でお休みになるし・・・、私は私で積もり積もった欲望を果たそうと徘徊を始めるし、大変だったのである。
一応、留置も強制送還も免れたが、それからと言うものは何とも居心地が悪く、とうとう逃げるようにして大同江ホテルを引き払ったのだった。
その翌朝の、荷を解いたばかりの平壌ホテルでの、まさかの事故だった。まさに天罰としか言いようがなかった。私はそのままホテルに待機していたタクシーで、大使館街にある外国人専用病院に入院したのである。
本当なら、頻繁に出入りしている在日同胞たちやその関係者たちに私はあやかるべきだったのだ。彼等は、その辺の手当てはちゃんとしてあって、私のような問題は起こさなくてすむようになっているのだ。後で、「柳」が冷たく言い放ったものだ。「あんた、ウデが悪いね」。
「テレビもねー」「電話もねー」「キャバレーもねー」で、2ヶ月も生活すると、我々文明人と称する人種は身体も頭もどっかおかしくなって来るものらしい。眠れない晩が何日か続くと、たちまち身体までが変調をきたすのだった。
そんな時は工場行きを止め、ゆっくりと朝食を取ってから、その養漁場に釣りに行くことにしてあった。たいてい朝起きてから決める予定外の行動だった。それでも、現地の関係者は、いや顔をひとつ見せずに付き合ってくれる。
「趙」は、朝鮮の典型的なナクシクン(釣りキチ)だ。釣り場に着くと、いつも自分の立場を忘れて一番熱くなる。私が日本から持参した練り餌を捏ねながら「硬さは若い女性の乳房ぐらいがいい」とか、「耳たぶだと餌持ちがする」とか、いろいろとうるさかった。「若い女性の乳房など、もう何十年も触っていないから忘れたよ」と混ぜっ返すと、大受けで、一同で大爆笑だ。
いつも、日が高くなってから竿を出し、夕マズメ時には竿をたたむというパターンだった。養魚場といえども魚は早々簡単には食いついてくれなかった。それでも、真夏の刺すような陽射しの中で無心に浮きの動きを見つめていると、長い異国暮らしでほつれの目立つ心に生気が蘇ってくるのだった。
イゴ(コイ)、ブゴ(フナ)、ナプチュレギ(タナゴ)、サルチ、ピラミなどがポツリポツリと釣れてくる。時おり養魚場の管理人が心配げに覗き込んでいく。釣れていないと、まるで自分たちのせいでもあるかのように、すまなそうに慰めの言葉をかけてくれる。異国から来た密猟者は、その都度、心底恐縮させられてしまうのだった。
鼻薬に上げるビールだけのせいだけではなかった。この地の人々は、誰もが随分と優しいのだ。管理人たちも釣りが好きだった。リール竿を持ち出し、飛ばし浮きを放り投げて水面を縦横に探っていく。ハエと毛ばりを交互につけた仕掛けを追って、銀色に輝くサルチが果敢に飛びついてくる。
ある日、珍しく先客がいて盛んに竿先をしならせていた。惚れ惚れするほど見事な腕前だった。昨日今日のへら師ではなかった。
道具立てもつり方も、日本のへら鮒釣りと少しも変わらなかった。スカリを持ち上げるとずっしりと重かった。30尾以上は入っていそうだった。
我々は終日釣っても4、5尾がせいぜいだった。逸る気持ちを押さえながら、彼の傍で竿を出させてもらうことにする。
既に日が高くなって、魚の食いも一段落した後だった。こうなると、我々の腕では1尾釣り上げるにもかなりの忍耐が要る。ところが、名人はいとも簡単に目の前で2尾、3尾と釣り上げて見せるのだった。
指導員の「趙」は、名人の浮きにぶつかるほど近くに餌を振り込んでいたが腕の差は如何ともしがたかった。
名人は、道具の目利きも尋常でなかった。私の持ち物が気になるようなのだ。帰り際に0.4号と0.5号の釣り糸を進呈した。律儀にも、彼の方からも手製の浮きとシモリ仕掛けをお返しにくれるのだった。
11−5 朝鮮半島ヤマメ事情
釣りは、フナに始まり、フナに終わると言われている。しかし、じっと同じ場所に座っていなければならないフナ釣りが、私はずっと苦手だった。
しかし、渓流釣りは別だ。少年の頃から鳥肌が立つほど好きだった。渓流釣りは、最初の一流しが勝負だ。その緊張感がたまらなかった。釣れなければ、どんどんとポイント変えて上流へと遡っていく。立ち止まった時が、釣りの終わりだ。それは、我々の生き方にも通じることだった。
子供の頃、ヤマメは人家の近くの清流にもウジャウジャいた。小川でドジョウ捕りをしていると、その網の中にまで入ってくるほどだった。
しかし、強い農薬の使用が常態化し、小川はコンクリートの樋に変わり、ヤマメはおろか、「どじょっこ」までが姿を消して久しくなる。
ヤマメもイワナも、僅かばかりの入漁料と引き換えに混血を強いられ、その姿からも、振るまいからも、野生美と敏捷さが消えつつある。それでも、年年歳歳、この釣りへのいとおしさは募るばかりだ。
体力勝負のこの釣りは、中年の私のもとからどんどんと遠ざかろうとしている。生来の渓流釣り師は、体力が続く間だけは、フナに終わることなく、せっせと釣り歩かねばと気が急くのである。
朝鮮半島のヤマメ釣りは、既に韓国では経験済みだった。ソラクサン(雪岳山)やオーデサン(五台山)を源流とし、東海に注ぐ河川の上流部には、確かに、ヤマメが生息していたのである。
ケナリ(レンギョウ)の咲く頃だったが、ソウルの金浦空港に降り立った時は小雪が舞っていた。空港まで出迎えてくれた釣具メーカーの車に乗って、東海側にある港町・カンヌン市へと向かった。
ソウルから東海へ抜けるには、勾配のきつい五十曲がりの道をたどって大関嶺を越えなければならない。未だ、峠は多くの残雪に覆われたままだった。それでも、東海側に下ると雪も消え、春は確実に萌し始めていた。
山水画を彷彿とさせる田舎屋の風景を見ながら清流沿いの道を遡って行った。沿道には、ケナリの花が盛りだったような気もする。
オーデサン(五台山)に源を発する連谷川は減水し、流れにも生気がなかった。お目当ての大渕も流れを失い水溜りのようだった。それでも20cm前後の銀毛ヤマメが活発に餌を追ってきて、興奮の一時を過ごしたのだった。
今を盛りの猫柳の枝に獲物を突き刺し、それを自慢気に突き出している写真を、互いに何枚撮り合ったことか。
朝鮮半島北部にも、テぺク(太白)山脈から東海に注ぐ小河川が何本もある。「ヤマメは必ずいるはずだ」と、私は確信していた。
ヤマメは、韓国語だとサンチョノ(山川魚)だ。魚の名前は、地方によって変わるものだ。釣りバカは、念の為にとヤマメの写真までしのばせていったのだった。その写真を見せたところ、北朝鮮でも間違いなくサンチョノだという。しかし、釣り場となると各人の見解はまちまちだった。
モノ知り、ワケ知りの「柳」は、霊峰・白頭山に行けばうじゃうじゃいると太鼓判を押す。 「そこにしよう」と衆議一決したが、後で聞くと、白頭山まではかなりおおがかりな旅になりそうだった。それに、白頭山は金王朝の後継者・金正日将軍の生誕の地でもあった。殺生を咎められ、反乱罪で死刑宣告などされたらたまらなかった。ここは断念することにした。
傍らで、指導員の「宋」が、子供の頃にたくさん捕まえたことがあると自慢する。韓国人が金日成魚と呼ぶヨルモゴ(熱目魚)も見たという。ヨルモゴは、主席様に精をつけてもらおうと競って献上される特別な渓流魚だ。
そんな話を聞いたら釣りキチは発狂してしまう。身を乗り出して聞き惚れたものだが、そこまで行くには車を降りて40キロの山道を歩かなければならいという。これも、聞き流すしかなかった。
9月初旬、三ヶ月もの長い拘留生活(?)も終わりに近づき、帰国が迫っていた。しかし、ご当地のヤマメに対する恋心は募るばかりだった。この国では、すべからく一期一会と思い込んでいたからかもしれない。
工場で見せてもらった地図には、金剛山を源とする河川が何本も東海へと流れ込んでいた。となれば、サケも遡上するだろうし、親族のヤマメも必ずや生息しているはずだ。漁師の計算は、日を追うごとに緻密なっていくのだった。
金剛山周辺の小河川に的を絞り、ともかく行って見たいのだがと切り出してみた。金剛山は、白頭山と並んで北朝鮮の代表的な観光地の一つでもあった。彼らとてまんざらではないだろうという読みもあった。
北朝鮮では、金曜日は野外労働の日、土曜日は学習の日と決められている。工場でも特別緊急な仕事がない限り、人々は皆これらの行事に参加することになっている。彼らは、「この日を利用して出発しましょう」と提案してきた。もちろん、異論は無かった。
土曜日、日曜日は車の使用制限があり、当局に前もって申請をし、許可をもらわなければならなかった。私の滞在ビザは地域限定だから、指定地域外に出る時は、その変更手続きも必要だ。関係者たちは、本業の合間を縫って、それらの煩雑な手続きを密かにやってくれていたのだ。
現地商社の副社長は、「日本車では疲れるだろうから」と、自分専用のベンツを運転手付きで出してくれた。相当に年季の入ったベンツだった。しかし、この国の凸凹道には、華奢な日本車よりはずっと安心だった。
プロジェクト専用車として、現地でトヨタクラウンの中古車を買ってあった。相当な年代物だが、北朝鮮が乗用車の輸入禁止に踏み切った直後だけに、これはかなり割高な買い物だった。
北朝鮮経由で日本の中古車が随分と中国に流れていたが、中国政府がとうとう音を上げて北朝鮮当局に圧力をかけたのである。我々の中古車は、日本でならただでも引き取り手がないような車だったが、ここでは50万円以上もした。
11−6 貸し切だった高速道路
金剛山は、東海側の韓国との国境線近くにある。平壌から行くには、半島を東西に貫いて東海側の港町・元山とを結ぶ高速道路を利用することになる。道路には、中央分離帯も、車線表示も、ガードレールもなかった。コンクリート舗装の路面も穴ボコと段差だらけだ。運転手が減速を怠ると、たちまち天井に頭をぶつけることになる。制限速度の100キロ走行など、夢みたいな話だった。
驚くのはそれだけではなかった。路肩は公認の歩道でもあるらしいのだ。人々がのんびりと歩いていく。時には、牛車までが、のろのろと目の前を横断していったりする。路肩の木陰では、大の字になって気持ちよさそうに午睡をむさぼる若者までいる。
対向車と出会うことも稀だった。車が殆ど通っていないのだ。人々が利用したがるのも無理からぬことだった。
沿道には、北海道の大平原を思わせるような丘陵地帯が広がる。一面見渡す限りのトウモロコシ畑だ。数年前までは豊作続きで、余剰分はアフリカ諸国向けの最大の輸出品にもなっていた。それが異常気象の影響もあってか不作が続きで、ここのところは内需を賄うだけでも精一杯らしいのだ。
川筋に近い低地には田んぼが作られている。既に稲穂は黄金色に波打ち、収穫を待つだけのようにも見える。たまに果樹園らしいのもあるが、木々は痩せこけ、生彩が無かった。
禿山が多かった。岩肌が露出し、ちょぼちょぼと潅木が生えた朝鮮半島独特の光景が車窓を横切っていく。韓国人は「日本人が来て木を切り、全部持って行ってしまった」と平気で言ったものだが、ここではさすがに面と向かってそのようなことを言う人はいなかった。
川が見えてくると車内は色めきたつのだが、どれも落差のない平凡な川ばかりだ。とてもヤマメが住めそうな渓相ではない。
途中一度だけ、車は休憩所に立ち寄った。山間の湧水池の傍に立つ50坪ほどの地味な施設だった。
駐車場は10台分ほどしかなかった。3組の先客がいたが、いずれも乗用車で乗りつけてきた家族連れだった。一般人民でないことは確かだ。
その施設の脇の切り立った岩壁のくぼみに珍しいものがあった。木をくりぬいて造ったミツバチの巣だ。日本でも、同じモノが中国山地や和歌山の山間部に残されている。何かの本に、それが古代の民族移動とも関連があるらしいと書いてあったのを思い出した。ささいな発見だったが、民族移動の航跡を思い描いたりして、何か壮大な気分になってくるのだった。
湧水池の水は水晶を溶かしたように澄みきっていて、水中の様子が鮮明に透けて見える。黄緑色の水草がユラユラと揺れ、その間をたくさんの小魚が泳ぎまわっている。形のいい岩山が水面に逆さに映っていた。一幅の山水画が嵌め込んであるようだ。
ホテルを出てからずっと飲まず食わずのままだった。売店に駆け寄り、皆で、冷たいビールをビンごと一気に流し込む。在外同胞たちでさえもあまり口にしないという国産ビールだったが、とてつもなく美味かった。
定年をまじかに控えた運転手も、皆と一緒にひとビンを一気飲みする。
店内には、名物の蛇酒が置かれていた。焼酎の入った大きなガラス容器の中で、真っ黒いのやら、黄色と黒のだんだら模様をしたのやらがとぐろを巻いている。酒は好きでも蛇嫌いの私は、そっと目を逸らす。「どの蛇も昔に比べて小柄になった」と、「宋」指導員はかまわず薀蓄を傾ける。
シイタケ、キクラゲ、レイシなどのキノコの類、ゼンマイやタラの芽などの山菜を乾燥させたもの、瓶詰めの蜂蜜などがお土産品として並べてある。農家が副業で出している道端の無人店舗程度の品揃えだ。
包装もラベルも随分とお粗末だ。蜂蜜のビンなどはゴミ捨て場から拾ってきた再生品のようだ。外観で購買意欲が凋んでしまう。
子供の頃から本物の蜜の味を知っている私は、蜂蜜は興味津々だった。聞くと結構な値段だった。しばらく躊躇したが、サイダービンより一回り大きなものを一本買ってみた。これは、期待通り、中身はまじりっけなしの極上品だった。
狭い切通しが続き、車は吸い込まれるようにトンネルへと入って行く。中は真っ暗だ。ヘッドライトに照らされる壁はゴツゴツと岩が剥き出しで、天然洞窟そのものだ。肘などを突き出そうものならコソゲとられそうで、身をすくめていなければならなかった。
足元からは伏流水がぼこぼこと噴出していて、 地中から突き出した大岩が車体を激しく突き上げてくる。最大限に減速し、ノロノロと這うように進むしかなかった。これも、防衛の為か・・・?思いが直ぐそちらにいってしまう。
トンネル内には、灯火が一つもなかった。ヘッドライトの光芒の先に、いきなり故障車が出現する。
黙々と歩く通行人がライトに照らし出される。真っ暗な闇の中で、予想だにしなかった多くの人々が蠢いているのだ。どの背中も、パンパンに膨らんだリュックで重そうだ。人々の背中こそ、この国の主要な運搬手段なのだ。
半島北部を東西に貫く唯一の幹線道路なのに、呆れるほど交通量が少なかった。たまにすれ違うトラックの荷台は人々でいっぱいだ。荷物を積んだトラックは五本の指で数えるほどもなかった。物不足は、物流不足でもあるのだ。
路肩に放置された故障車が多かった。まるで道標のように、数キロおきぐらいに出現する。
11−7 元山の名物鮨屋
新潟とを結ぶ定期便・万景峰号は、ここ元山市の港に入ることになっている。港町のせいか、何となく人々の表情も開放的に見える。桟橋に群がって釣りをしている光景などは、他の国と変わらぬのどかさだ。遮ろうとしても、港には、必ず海の彼方から自由の風が吹き込んで来るものだ。
帰国者が経営する有名な食堂で、昼食を取ることにしてあった。店は、美味い鮨を食べさせてくれると在日の人々の間では評判だった。
店は松原の中の海が見渡せるいい場所にあった。大の刺身好きが、魚らしい魚を3ヶ月近く殆ど口にしていなかった。ここで握り鮨を食べることが、私の中でいつしか切実な夢になっていたのである。
値段は普通の鮨屋の並といったところだ。迷うことなく、握りを2人前注文する。同行者たちは、鮨ではなく冷麦や焼肉を注文したが、値段はどちらもそうは変わらなかった。冷麦も焼肉も、食材は日本からの持ちこみ品だ。だから、値段も日本並なのだ。
期待通り、鮨ネタは鮮度抜群だった。思わず吐き出した平壌の鮨ネタとは雲泥の差だ。白身魚はカレイかヒラメのようだ。他に、ホッキ貝、サヨリ、ハマチ、スルメイカ、タコ、アワビが一カンずつ入っていた。
生の魚と女性(不謹慎ながら)には、死ぬほど飢えていた私だった。ようやくここまで来て、その欲求の片方が叶えられたのだ。私は人目も気にせず、あっという間に、ガツガツと独りで二人分を貪り食ってしまっていた。しかし、たかが魚にこれほど貪欲になれる自分に、恐ろしくもなるのだった。
他にも、イカのプルコギ(焼肉)やメウンタン(唐辛子の効いた海鮮鍋)なども注文してあった。久々の魚料理に貪りついていると、ようやく娑婆に帰ってきた心地がしてくるのだった。
平壌でも、二軒の鮨屋に入っている。一軒は、高麗ホテル地下の日本食堂内にある鮨屋だ。ここは、純日本風の内装で、はっぴ姿の板前が立ち働く、純日本料理屋でもあった。丼モノや麺類も、ここの売りだった。
しかし、ガラスケースのネタは、どれも脂焼けしていて色が悪かった。値段は一流なのだが、舌がピリピリするほど鮮度が落ちてしまっていた。
二度と足を運ぶような店ではなかったが、私はこの鮨屋に三度も入っている。ここでは、他に選択肢がないのだ。
丼物にしても、麺類にしても、通貨レートからすれば随分と高かった。それでも、毎回現地の人々が、そこそこ入っていた。この国にも金持ちはちゃんといるのだ。
もう一軒はポトンガン(普通江)区域あった。ポトンガン区域は、何となく、我々堅気衆には近寄りがたい場所だった。ポトンガンホテルなどという一般向けでないホテルもあった。このホテルは、合同結婚式で有名な文鮮明教祖率いる統一教会と関係があるとも聞いたが、確かなところは分からなかった。
日本の衛星放送も、新聞も、そこへ行くと見ることが出来るらしいのだが、案内は一向に連れて行こうとはしなかった。私のような貧乏人向けのホテルではないのだ。
鮨屋のある建物は、かつて、外国から出稼ぎ女性を連れてきて、その種のことをさせていた特別な場所だった。そのせいかどうか、今でも何となく秘密めいた隠微な雰囲気があった。ここは一度しか行く機会が無かったが、口に入れた鮨を吐き出して顰蹙をかった場所でもあった。ともかく、ネタも雰囲気も極めつけ悪かった。
11−8 漁村が消えた海岸線
元山市からは東海の海岸線に沿って南下し、一路金剛山を目指して直走ることになる。元山市街を抜けると広々とした水田地帯が広がる。この国では、稲は密植が奨励されている。田圃は緑が過剰なほどだった。
道路は、むしろ平壌よりはよく整備されている感じだ。丘陵と海岸線を交互に走る快適なドライブが続く。それにしても、集落が異常に少なかった。
格別な場所でも無さそうなのに、検問所が設けられていたりする。その度に、案内同務が渋々車から降りていく。
我々のベンツに立ち止まって敬礼する兵士がいたほどだから、検問は簡単だった。車で、持ち主の身分や所属が分かるようになっているらしいのだ。
船溜まりの脇を通り過ぎていく。どこにも小船一艘繋留されていなかった。海辺にあるべきはずの漁村も一箇所も見当たらなかった。何とも不思議な海岸線なのである。
車を停めて皆で立小便をしながら眺めた大海原は、見るからに魚がわんさかと捕れそうな海だった。ところが、そこにも船影一つなかった。「今、朝鮮で魚がうんと捕れるところは38度線の近くだけだよ」と誰かが言った。
沿道では、元山港と金剛山を結ぶ鉄道工事が進行中だった。北朝鮮は金剛山を世界の観光地として売り出す計画でいるのだ。工事現場の土盛りが、車の窓からも見え隠れする。どこにも土木機械らしいものは見当たらなかった。石ころを積み上げるのも、枕木を運ぶのもすべてが人海戦術なのだ。
岩肌を露出させて屹立する岩山が、行く手を阻むかのように連なっている。花崗岩質の岩肌が風雨に浸食され、角が取れて丸くなった独特の地形だ。所々にひねた松がしがみつくように生え、水墨画のように美しかった。目的地は近いようだ。昔から金剛山は「一万三千峰」と称されるほどの、深々と連なる名山なのだ。
手ごろな川があった。もう夕方近かったが、車を停めて入渓してみることにする。まずは、餌の川虫探しだ。日本から持参したネットをあてがって、水中の石をひっくり返してみた。何度やっても、網の中には動くものが何一つ入ってこなかった。
草原に分け入り、虫を捕らえることにする。コメツキバッタが、何匹も勢い良く足元でジャンプする。
橋桁の周りに魚影が見えていた。そこをめがけて、捕まえたばかりのコメツキバッタを流してやる。直ぐにアタリがあり、釣れてきたのはアブラハヤだった。
岩に着いているコケを、銀鱗を閃かせながら盛んに食んでいる15cmほどの小魚がいた。このような食性を持つのは鮎に違いないのだが、遠目にははっきりと分からなかった。そっと餌を流してみる。案の定見向きもしなかった。鮎は成魚になると動物性の餌を捕食しなくなるものなのだ。しかし、こんな北の川に鮎が生息することについては確信が持てなかった。
数人の子供たちが橋桁に乗って釣りをしている。足元の深みで、ヨシノボリを狙っているのだ。随分と小さな子供も混じっている。1mほどの柳の小枝や生竹が彼らの釣り竿だ。
クリクリした坊主頭が、記憶を過去へと引っ張っていく。年かさの子が年少の子を引き連れて遊ぶのが当たり前の時代だった。少年たちは、良いことも悪いことも、そのようにして教わりながら成長していったものだ。
小一時間ほどで、ポドルチとヨシノボリを合わせて15尾ほどの釣果になった。私の独断で、一番小さな子供にその魚を上げることにする。同行者たちの顔が、一瞬未練がましく見えたような気がしたものだ。
指導員の「宋」が呼ぶと、その子は仲間の方を振り向き振り向きしながらやってきた。近くで見ると、随分とみすぼらしいナリだった。「日本という国は、稀に見るウンのいい国家だったのかも知れない」。改めて思うのだった。この国と一衣帯水の位置にありながら、少なくとも、戦後は大国のハザマで捨石にされることだけはなかったのだ。
その子は周囲に促され、照れたような或いは当惑したような表情を顔に浮かべて、おずおずと手を差し出すのだった。モノを引っ手繰るような「すばしっこさ」は、少しもなかった。この国の欠乏は、かつてのインドのそれなどとは全く違う次元のものなのだ。
11−9 金剛山ホテル
金剛山ホテルに到着したのは、辺りが薄暗くなってからだった。異様なことに、ホテルの中は外と違わないぐらいに暗かった。
それが電力事情や少ない宿泊客のせいだと後で知るのだが、そのような状況を何の違和感もなく受け入れていた自分自身も異常といえば異常だった。私は、この国にかなり順応していたのだ。やはり、人間は適応の動物なのである。
証明書がどうの、食事がどうのと急かせるフロントの言葉を遮って、何よりも先にヤマメの消息を尋ねてもらった。しかし、誰もヤマメのことを知らなかった。話が違うのだ。悪い予感がするのだった。
こちらでは、どこのホテルでも食事時間はかなり厳密に決められている。既に、その決められた時間が残り少なくなっていた。「急いで料理を注文してくれ」と、伝票を持った係りの者が傍に付きっきりだ。
名物の温泉はホテルから少し離れたところにあるらしい。そこで一風呂浴びてからでは間に合いそうにもなかった。断念するしかなかった。
ここは海にも近かった。ハマグリのプルコギ(焼肉)やカレイのから揚げなど、海のモノを多めに頼むことにする。「料理が出来上がったら呼びに行くから、其の辺で待て」と言う。今思えば、何ともおかしなホテルだったのである。
そのまま一階のスタンドバーに飛び込み、ビールで乾いた喉を潤すことにする。道中、自動販売機やコンビニがある訳ではないから、昼食後は全く飲まず食わずだったのだ。
このホテルでも、客人と現地の人々とは、食堂が別々だった。私一人が連れて行かれた大食堂は200人がゆうに入れそうなほど広かったが、他には誰も居なかった。部屋は端の方が良く見えないぐらい照明が暗かった。宴会がはねた後、残り物でその日の仕事を締めくくる使用人になったように、妙に気持ちが沈みこんでしまうのだった。
ハマグリと称するものが運ばれてきたが、皿の中のものはまだ凍みがとけていなかった。卓上の携帯ガスコンロの上で焼くと、噛み切れないほど硬かった。西海で捕れる本物とは全く違う種類だ。正体を確かめようにも、暗くて手元がよく見えないのだ。
カレイのから揚げも、珍味だと強調された山菜も、少しも美味くなかった。これしかないと出されたサッポロ缶ビールで何とか流し込んで、そそくさと食堂を後にする。どっと疲れが出てきて、果てしもなく遠くへ来たものだと心細かった。
そのまま寝てしまおうかと思ったが、薄暗いロビーで顔を合わせた同行者たちは、これからだと言う顔をしている。せっかくの慰安旅行だ。もう一度、一階のスタンドバーに立ち寄ることにする。利用できそうな娯楽施設は、このバーしかなかったのだ。ホテルの内部は、他はどこも灯を落として真っ暗だった。他へ行こうにも歩き回れないのだ。
スタンドバーの接待同務は保母さんが似合うような無垢な娘さんだった。過剰なサービスなど期待出来そうになかった。窮屈な日常を背負ったまま、旅の夜が更けていく。
中国語を話す家族連れが、我々には目もくれず、家族の団欒をひとしきり楽しんでいる。彼等が、他には唯一の客だった。カウンターに置かれたヘネシーのXOが威圧的だ。父親の身分は推して知るべしだが、年頃の子供たちは多少不良娘や不良息子に見えなくもなかった。
棚に並んだスナック類は、どれも日本や香港や中国からの輸入品だ。国産品といえば、焼酎と干ダラとスルメぐらいだ。私はサントリーオールドと干ダラを注文する。醤油を注いだ小皿が一緒に出てきたが、魚醤のような癖のある匂いがして猛烈に塩辛かった。
これでも随分と気張ったつもりだった。車は現地で手配してくれたが、外貨ショップでの飲み食いは全部こちらもちだ。相手は運転手を入れて3人だから、いくら物価が安いと言っても貧乏所帯には結構な負担なのだ。
平壌でもそうだった。工場から車でホテルに帰ってくると、同乗者と一緒にそのままスタンドバーへ直行ということも度々だった。皆を返して、一人でというのも嫌だったのである。指導員や案内クラスでは、外貨食堂もショップも無縁の存在だ。支払いは、当然覚悟の上でのことだった。
客だか職員だか分からない人々が入れ替わりで、ビール1本飲んだぐらいでサーと帰っていく。疲れからか、話はあまりはずまなかった。運転手は、60歳で、定年を迎える年齢だった。その彼が止まり木の上でコックリコックリし始めたのをしおに引き上げることにする。老体には長距離運転がだいぶ堪えたようだ。
ガタガタと横揺れのするエレベーターが動いていた。同行者は、途中で降りてしまっていた。何階かでエレベーターを降り、人気の無い廊下を、一人で指定された部屋に向かう。オンドル部屋だった。日本のビジネスホテル並に狭くて調度品も粗末だった。朝食付きで一泊4000円。一番下の等級だ。
壁には金日成父子の肖像画が、堂々と掲げられていた。平壌のホテルでは、取り外されて壁に白く四角い跡が残っていただけだったのだが・・・。
ポットは空だし、飲料用の水も置かれていなかった。勿論、冷蔵庫もなかった。浴室のお湯だけは辛うじてチョロチョロと出た。山の夜は結構涼しかった。ザッとお湯を被っただけで、さっさと布団の中に逃げ込む。
かび臭さと疲労から持病の喘息が軽く出た。しばらくゼイゼイしていたが、そのうち寝付いてしまっていた。
11―10 九龍の滝
随分と目覚めが早かった。再び寝付けそうもなかった。起き出して、一人で竿を出してみることにする。
ホテル前の雑木林の向うが川であるらしいことは分かっていた。丈の低い雑草を踏みしだいて、シーンと静まり返った雑木林を抜けて行く。
川は以外に大きく、水量も豊富だった。いかにもヤマメの大物が潜んでいそうな大渕が随所に点在している。
勇躍餌探しを始めたが、水生昆虫は一匹も見つからなかった。それならばと、草むらに押し入ったが、朝露のせいかトンボもバッタも飛び立つ気配すらなかった。餌のない川には魚もいないものだ。またもや、いやな予感がするのだった。
毛ばり釣りに変更だ。点々と続く絶好のポイントに何度も何度も毛ばりを打ち返してみる。やはり小魚一匹出てこなかった。
ホテルの入り口で、指導員の「趙」が心配顔で立っていた。「この辺の川には、魚は一匹もいないそうだよ」。これが最終宣告だった。
金剛山は鉱物資源の宝庫でもあった。豊富な鉱脈から染み出した鉱物質で川の水が汚染され、生き物が住めないようになっていたのだ。
どこかに大規模な金鉱脈も未だに眠ったままらしい。「偉大なる金日成指導者同志のご指導で鉱山開発は中止し、人民のための保養地にしたのです」と、「宋」が大仰に説明する。本気で言っているのかと、つい彼の顔をまじまじと見てしまった。
無駄な殺生は止め、金剛山の霊気に打たれてみることにする。何しろ、70歳を超す老幹部が金剛山の気に感応し、同行した若い女性秘書と最後まで戦い抜くことが出来たと言う逸話までが、まことしやかに伝わっていた。
枕詞に「偉大なる指導者」を欠かすことのない「宋」が登山に同行することになった。「趙」は「帰りのガソリンが心細くなった」と、知人の勤め先までガソリンの調達に出かけた。物々交換の品があったのかと心配だったが、私にはそれ以上打ち解けてくれなかった。彼らにまかせることにする。
「宋」は、鳥獣虫魚に関しては滅法詳しかった。「あそこには松茸が絶対ある」。山の形を見ては、興奮気味にあちらこちらと指差すのだった。「このあたりの松茸は後2、3週間経たないと顔を出さないよ」と地元の人々が宥めるのだが、今にも崖をよじ登っていきそうな勢いだ。
登山口にはオンボロバスが2台停まっていた。他にも観光客がいたのだ。人民服姿の老若男女が一軒だけの売店に群がっていた。登山用の杖を買っているところなのだ。宋」が尋ねると「慰労と学習を兼ねて**(地方)からやって来たのだ」と、満面の笑顔で応じてくれる。
彼らを追い越し、きれいにコンクリート舗装された遊歩道を登っていく。木々の植生はあまり日本とかわらなかった。ブナ、ナラ、イタヤカエデ、モミの木などが遊歩道に被さり、涼しげな木陰を作っていた。
看板が出ていて、それには最終目的地のクリョン(九龍)の滝までは約8キロの道のりと書かれていた。団体を追い越した後は、全山、我々二人だけの貸し切りだった。我々は若者のように華やぎながら、後になり先になりして遊歩道を辿って行った。道はよく整備され、足元には少しも神経を使う必要がなかった。
ところが、途中から景色が一変する。深い森が消え、荒涼とした巨大な岩肌が行く手に立ち塞がる。低く雲が垂れ込め、屹立する断崖絶壁を陵辱するかのように纏わり付いている。峰々に雲が湧くこの荒々しい光景こそが、まさに名峰・金剛山なのだ。
眼下の渓谷には、家一軒分もあるような大岩が随所に転がっている。淵はエメラルドグリーンの水を満々と湛えて美しかった。川原全体が妙に白っぽかった。花崗岩の地の色なのだ。水に含まれる鉱物質のせいで、石の表面にはコケや水草が全く育たないのだ。
長い年月をかけて侵食された岩肌は、不思議な造形をも見せてくれる。仏の顔だとか、象の頭だとか、それらしい名前が付けられたものもある。いつしか、我々は圧倒されるような大自然に取り囲まれ、言葉を失ってしまっていた。
はっと目を引く巨大な一枚岩には、必ず社会主義思想の宣伝文句や金日成父子を称える大きな文字が刻み込まれていた。生々しく、青や朱の顔料が埋め込まれたものまである。痛々しい光景だった。
垂直に切り立ったつるつるした岩肌だ。巨大かつ精緻な文字を刻み込んでいくのは大事業だったに違いない。偉大なる狂気の痕跡に、またもや鳥肌立つ思いがするのだった。
「日本軍が、金剛山のありとあらゆる峰の頂に鉄柱を打ちこんである」と、「宋」は私をなじる。日本軍の行為は行為としても、この巨大文字が彼のいう日本軍の行為に通じることに気づいていないのだった。
韓国でも同じような話を聞かされたことがあった。1997年にようやく撤去されたが、旧朝鮮総督府の建物が、首都ソウルに国立博物館としてずっと残されてきた。壮大な石造建築で、北漢山を背に、李朝の宮殿・京福宮を扼すかのように建っていた。その北漢山の峰々にも、旧日本軍の手で同じように鉄柱が打ち込まれているというのである。
今でも韓国には風水の思想が根強く残っているが、代々の朝鮮王朝の宮殿も風水の思想に則りその場所が決められてきた。京福宮も、北漢山の峰々の気が一気に駆け下り、それが地下の気脈を伝わって吹き上がる要に位置している。そこから溢れ出た気は全土をあまねく潤し、国家鎮護の基となるはずだった。
それを、旧日本軍はまず北漢山の峰々に鉄柱を打ち込んで気を殺ぎ、朝鮮総督府の壮大な建造物で気を封じ込めてしまったというのだ。
このような記事が、韓国の新聞や雑誌には何年かおきに掲載される。時の政権が、国民の求心力を高める為にだ。
紅葉には2、3週間ほど早い時期だったが、遠来の旅人の前に、平壌の美術館で見た山水画と重なる壮大な景観がパノラマのように展開していった。
頻繁に記念写真をとりながら登っていく。ここではカメラのアングルに、全く神経を使う必要がなかった。カメラを向けると、「宋」は名優のように一々ポーズをとるのだった。しかし、如何な美男子「の「宋」同務でも、圧倒するような周囲の情景には到底太刀打ちできそうになかった。
落差90mといわれるクリョン(九龍)の滝は、絹布を流したような優美な姿で艶やかな岩肌を伝って流れ降っていた。放心して滝からほとばしる水しぶきに打たれていると、先の老幹部の話ではないが身体中に生気が漲ってくる気がするのだった。
帰路、バスで乗りつけた団体とすれ違った。のんびりと登ってきたようだ。皆屈託がなかった。端に寄って道を譲り、笑顔で挨拶してくれる。優しい人達なのだ。
こんなところでも、この国の普通の人々が、ある時代の日本人とそっくり重なって見えてしまうのだった。
第12章 二月一六日
12−1 果てしない行列
2月16日は、北朝鮮の三大明節の一つ、金正日将軍の誕生日だ。この日を挟み、北朝鮮全土で様々な祝賀行事が催されることになっている。当日の平壌は人々も着飾った風で、父親に手を引かれて見て歩いた村祭りの光景にどこか似ていなくもなかった。
万寿台の故金日成主席の銅像へ連なる道々は、何日も前から、花束や花篭を抱えた人波でごった返していた。人々は、地区ごと、職場ごと、或いは学校や家族単位で集い、その巨大な銅像に感謝と敬意を捧げに行くのである
道(県)、市、職場、学校ごとに建設された金日成主席の彫像や肖像画の数は夥しいらしいが、そこにも人々は列をなし、周囲は花で埋まるという。
人々は、ひたすら歩いて聖地万寿台へと向かう。平壌市内の交通機関は、これらの夥しい数の人々を運ぶにはあまりにも貧弱なのだ。
新興都市東平壌とをつなぐ玉流橋も大同橋も、遠くから眺めると黒い蟻の行列に占領されたかのように見える。橋の上の、行列は延々と途切れることがなかった。古びたこれらの橋が、彼らの重量と溢れんばかりの期待を支えきれるのかと私は心配でならなかった。
各組織は、この日の為に、何ヶ月も前から準備に入るという。大同江ホテルの理容所に立ち寄った際、どこからか盛んに楽器演奏やら歌声やらが聞こえていたことがあった。「将軍様の誕生日に職場で開くパーティーの歌や踊りを練習しているところです」と、理容所の主人は楽しげに告げる。そして、「あなたも是非顔を出しなさい」と、熱心に誘ってくれるのだった。
彼の言葉には、巷間伝えられるような一点集中の狂気は少しも見当たらなかった。ここの人々にとっては、名節の日の催しものは数少ない娯楽だったのだ。
将軍様に、各地からお祝いの手紙を届ける習慣もあった。手紙は人々の背に負われた四角いカバンに納められ、オリンピックの聖火のようにリレー式に平壌へと運ばれて来るのだった。
TVでは、これらの様子が連日たっぷりと放送される。トラックが先導し、手紙の入ったカバンを背負った人が、それを駆け足で追いかけるのである。金正日将軍の顔を染め抜いた深紅の旗を持ち、トラックの荷台に立つ旗手たちの顔も、一様に誇らしげだった。
私が宿泊していたホテルにも、日本から手紙を運んできた若者たちの姿があった。それと分かるように、彼らは胸にゼッケンを着けた運動着姿のままホテル内を闊歩した。誰もが偉丈夫で、見栄えのする、いい若者たちだった。
12−2 マスゲーム
子供達が演じるマスゲームも金正日将軍の誕生を祝う恒例の行事だ。私たちも「親愛なる指導者同志金正日将軍の暖かいご配慮」で、マスゲームに招待されることになった。
朝方は零下15℃以下まで気温が下がり、一歩外へ出ると露出した肌がぴりぴりと痛むほどだった。
会場前の広場はゆうに数百台を越す乗用車で埋め尽くされ、夥しい人々でごった返していた。車はピカピカのベンツが多かった。普段消耗し尽くしたボロ車ばかり見せられていただけに、何処にこんな車があったのかと訝しかった。中古の日本車は、入り口付近で我々を降ろすと、かなり離れた場所へと移動させられてしまった。
手の平ほどもある金ぴかの勲章を、重そうに何個も胸にぶら下げた人々が多かった。チマチョゴリで装ったハルモニとトゥルマギを羽織ったハラボジが、互いを労わりながら会場へ消えていく。歴戦の勇士も、今は好々爺然として優しかった。カーキ色の軍服姿も多かった。しかし、威圧感は少しもなかった。
入り口を入ると高い吹き抜けの空間だった。正面の壁には金日成主席を真ん中に配した巨大なモザイク画がはめ込まれていた。気温が外と幾らも変わらなかった。暖房設備が全く無力なのだ。
廊下は薄暗かった。運動着姿の小柄な子供達が、そこにずらりと並んで出番を待っていた。中腰のままだった。大理石の床が冷え切っていて、座ることも出来ないのだ。薄っぺらな運動着をまとっただけだった。子供たちは猛烈な寒さに耐え兼ねて、しきりに身体を動かしつづける。
会場の中は少し暖かかった。それでも、観客たちは防寒具を着けたままだ。四角い館内の壁に沿って座席が階段状に幾重にも巡っている。数千人はゆうに入れそうだ。
「安」同務が用意した整理券には座席番号が書いてあった。我々の席は、VIP席に比較的近い位置だった。 全員の起立と拍手で迎えられて、内外のVIPたちが入場した。彼らが着席すると、マスゲームはすぐに始まった。
出演する子供たちは、幼稚園、人民学校、高等中学校の生徒たちだ。この国の学制は、幼稚園1年、人民学校4年、高等中学校6年の11年制を取っている。この日の為に、どの学校でも半年前から準備に入るのだという。「偉大なる徒労だ」と、資本主義経済社会の申し子は思ってしまうのだった。
色とりどりの体操着が、直線から円に、円から直線に、点から面へ、面から点へと縦横無尽に形を変え、様々な模様を描き出していく。現代体操あり、行進あり、曲芸ありと、目まぐるしかった。
赤や青の旗や布がたなびき、バトンやボールが宙を舞い、人垣が前後左右に激しく揺れ、それが奔流のごとく逸走する。演技の区切りごとにポーズをとる子供たちに、観客はそれぞれの拍手で感動を伝える。
党をシンボライズする赤と青の強烈な光線が頭上の空間で交錯し、金日成・正日父子が描かれた大きな旗が登場した。観衆はおもむろに立ち上がり、神妙な顔つきで一斉に拍手を送る。しかし、それは以前映像の中で拡大して見せ付けられた熱狂的なものとはまったく次元の違う顔だった。それにしても、一体この乾いた表情は何を物語っているのだろうか?
平凡な景色がレンズを通過することで、思いもよらぬ絶景に仕上がっていて、自分でも驚くことがある。同じ様に、常に断片としてしか伝える術がない報道もまた受け手側の自家撞着的な思い込みとの相乗効果で、時には完璧な虚像を提供してしまうことだってあるらしいのだ。
我々の北朝鮮像は、まさにそれではないのか・・・?ふと、そんな気もして来るのだった。
この大掛かりな行事は、恐ろしいほどきっかりと時間通りに終了した。「この日の為に、半年もの間訓練を重ねた二万人以上の子供たちが動員されました」と、「安」は満足気だった。しかし、それにしてはあまりにも儚かった。見終わって、私は無性に虚しかった。
12−3 歌舞公演
翌2月17日には歌舞公演への招待があった。私は、主義や宗旨にはあまりにも鈍感な質だった。「私などが招待されていいのかな」。そんな気持ちも、心の片隅にあった。
この公演は16日と17日の二日間だけ行われことになっていた。正確な情報が隅々まで行き渡らなかった時代には、権力は集団の求心力と闘争心を鼓舞するために歌舞音曲を使うことを常套手段にしてきた。今でも、この国は世界トップクラスの芸能大国だった。
この日の私は落ち着かなかった。ヒラヒラと舞う艶やかな踊り子の姿がちらついて胸がときめくのだった。舞台を見るなどということは、中学校の修学旅行で入った日劇以来だった。席に着くと、私までもが緊張しているのだった。
重厚な緞帳がするすると上がり、純白のチマチョゴリを纏った女性司会者が楚々として登場した。色白の高麗美人だった。口上が始まる。容姿と違って戦闘的かつ煽情的だ。声まで一オクターブ落としてある。これで、浮かれ気分の旅人は一瞬にして現実に引き戻されてしまうのだった。
バックスクリーンに大写しにされた白頭山の正日峰。その岩肌に深く刻まれた「正日峰」の文字が大写しで迫ってくる。激しく流れる風雲。チンダレ(山つつじ)が咲き乱れる林間の丸木小屋。金正日将軍の生家であり、抗日パルチザンの象徴だ。
日本語の看板がそっくり再現された日帝時代の街並み。広いステージを、銃を抱え、血の滲んだ包帯を巻きつけた兵士たちがのたうちまわる。轟く銃声。阿鼻叫喚。全てが過激な抗日運動へと収斂していく。
日本に住む園芸家が育成し、献上されたという蘭・「正日花」の真っ赤な大輪の花が舞台いっぱいに咲き乱れる。精巧に造られた大道具、小道具が手際よく繰り出される。
音響装置から放たれる高温、高圧のエネルギーは、広い館内に隈なく充満し、干渉しあい、人々の心の奥深いところまで侵入しようとする。観衆の全てを、唯一絶対の世界に収斂させようと躍起だ。下手に感動などすると、翻弄され、圧倒され、思考のバランスを失ってしまいそうだ。
カーキ色の軍服を金モールで飾った軍楽隊が登場し、王朝人を称える荘厳な吹奏楽が始まった。笛、太鼓、カヤ琴など、朝鮮の伝統的な楽器を取り入れた壮大な交響曲が観衆の耳目を圧していく。
広い舞台いっぱいに展開し、躍動感溢れるバレー劇。この優雅であるべきはずの芸術さえも革命の赤い血潮がモチーフだ。
腹にしみわたるような野太い独唱。見る人、聞く人をして、非日常の世界へと誘い、昂奮を掻き立て、感動の渦に引きずり込もうとする。
金父子大写しの顔が、バックスクリーンに投影される。観衆は、機械仕掛けの人形のように一斉に立ち上がり、乾いた拍手を送る。誰もが仮面を被り、感情を押し殺した顔だ。やはり、この国の深奥には、旅人には窺い知れない何かがあるのだ。
アジアの現代史に、「日帝」は、一時期、消し様も無い汚点を残してしまった。あの忌まわしい時代から半世紀が過ぎようとしているのに、「日帝」はアジアの過激集団を昂揚させ、組織の求心力を引き出す新鮮なネタとして繰り返し繰り返し使われている。
これでは、聖戦の名のもと異国で寂しく散っていかなければならなかった多くの英霊たちが、いつまでたっても浮かばれない。
一方、無辜の民を無益な戦争に駆り立て、多くを死なせた無能な戦争犯罪人たちは、敗戦後一切口をつぐみ、一片の責任をとることもなく、権力の側でのうのうと生き抜き、老いさらばえようとしている。
日本という国は、いつこれらのことに終止符を打つつもりなのだろうか?
12−4 不毛の交流
平壌にはいくつもの大劇場があり、今でも専属歌舞団が国内外で活発な演劇活動を繰り広げている。在日朝鮮人社会のその手の組織では金剛山歌舞団が一番有名だが、この歌舞団と祖国との交流は極めて活発のようだ。宿泊先のホテルでは、毎日のように彼等を見かけたものだ。
彩りの少ないホテルで、若い男女の芸能人集団はいつも目立っていた。彼らが大挙してやってくると、大食堂の定席にはキッコーマン醤油やキューピーマヨネーズや梅干やふりかけなどが賑やかに並んだ。日本からの便りを運んで来てくれたようで、私までもが華やいでくるのだった。
しなやかな容姿の娘たちが、ホテルの廊下や階段の踊り場で、熱心に踊りの練習に励んでいる姿もよく目にしたものだ。いつも声を掛けるのが憚られるほどの熱中振りだった。私は体を小さくして彼女等の傍らをすり抜けなければならなかった。彼女たちは朝鮮大学校の女学生たちだった。私は日本語で話したかった。しかし、ここでは日本語は厳禁だった。
朝鮮高級学校、朝鮮大学の学生たちは、数十人或いは100人規模で、ぞくぞくと日本から送り込まれて来ていた。平壌ホテルは、そんな彼らでいつも大賑わいだった。
大きな行事がある期間は、ホテルの玄関先に「朝聯」と書かれた大型のRV車が必ず停まっていた。朝鮮総連から派遣された取材クルーのものだ。
このように頻繁で濃密な交流があるというのに、こんなにも双方の時の流れに大きな隔たりが出来てしまったのは何故なのだろうか?
私が抱くギャップとジレンマを、これらの若い在日朝鮮人たちは少しも感じることがないのだろうか?
それとも、在日朝鮮人といわれる人々もまた日本人社会の中で、まったく異質な集団を密かに形成しているのだろうか?
ホテルの前や大同江の河岸には、きっちりと整列して社会主義のお題目を唱える彼らの姿がいつもあった。彼らの屈託のない姿を見るたびに、持って行き場のない困惑と焦燥感を覚えるのだった。
第13章 半万年の歴史
13−1 蘇った檀君
朝鮮半島の人々は、自国の歴史を「半万年の歴史」と自慢する。これは、二千年の歴史しか持たぬ成り上がり国家・日本を大いに意識してのことだ。
この五千年の歴史とは、朝鮮族の始祖・檀君が平壌に都した「古朝鮮」という国家を起源とする。檀君には、日本書紀や古事記に語られる天孫降臨神話と類似の降臨伝説も伝えられている。
金官伽耶の始祖王・首露王もそうだ。釜山にほど近い地に同定されている金官伽耶国やその周辺地域もまた、倭国や大和の大王との濃厚な関係が指摘されている古代国家なのである。
金日成政権以後だが、平壌市郊外・江東地区の丘の上にある高句麗式積石塚が、その檀君陵に特定されている。北朝鮮の学者たちは、古墳の形式と古墳の主の年代が合わないのは高句麗時代に改葬されたからだと説明する。
この古跡は、つい最近、大々的に改装されている。ここも我々外国人の学習コースに入っていた。考古学少年だった私は、お決まりの学習コースでも興味津々だった。
2月の中旬のこととて、遺跡が眠る大朴山は冬枯れの荒涼とした姿を曝していた。その冬枯れの原野を切り裂いて、コンクリート舗装の広い道が陵墓のある南側斜面へと続いていた。
白色花崗岩で精緻に組み上げられた広くて長い階段を登っていく。両側には、巨大な武人像や文官像が威圧するように立ち並んでいる。
陵墓は、その石段が尽きる頂上に築かれていた。白色花崗岩のブロックを積み上げ、9層の高句麗式積石塚の古墳として復元されている。使われたブロックの最大のものは21トンもある。重さが90トンもあるという虎の白い石像が墳墓の傍らで牙を剥く。
当地の記録による。底辺が50m四方、使用された積石は全部で1994個とある。1994は竣工した年を表わす。この国の建築家たちは、主体塔を支えるブロックの数もそうだが、数字に意味を持たせることが随分と好きなようだ。
それにしても、新築の古墳というのも随分と奇妙なものだ。古いもの好きの罰当たりの目には、どれもが、ただただ大きいだけの稚拙なレプリカにしか見えなかった。
百済の都が今のソウル付近にあった漢城時代(B.C18年〜A.D475年)に造られた高句麗式の積石塚が、ソウル市石村洞にも何基か残されている。南米ペルーのマヤ文明の神殿を思わせるような趣のある石造物だった。
そこでは、崩れかかったものは崩れかかったままに保存されていた。二千年の時の流れを刻んだ姿は、そのままでも充分壮麗で感動的だった。
大朴山の遺跡は16世紀の朝鮮の古文献にも周410尺の古墳として登場する。しかし、不幸なことだが、植民地時代に日本側によって盗掘され、遺物の殆どが持ち去られたとされている。
北朝鮮の歴史学者の憤りは激しかった。初代朝鮮総督寺内が、檀君を朝鮮の歴史から抹殺することを策動して、それらにまつわる数十万巻の文書を集めて焚書を強行したとも書いてあった。寺内総督が、あの偉大なる秦の始皇帝並みの悪行をしたことになっているのだ。
一つの民族の文化や歴史に外から手を出すことが、如何にその民族を刺戟し、敵愾心を煽ることになるか鳥肌立つ思いがしてくるのだった。
朝鮮解放後の発掘調査で、男女二体の人骨と、金銅製王冠の前たて部飾り金具と帯金具の一部が見つかっている。人骨は、電子スピン共鳴年代測定法から5011年±267年前のものだとされた。
これらの研究成果を踏まえて、「朝鮮の事大主義者と日本帝国主義者に抹殺された檀君建国の古朝鮮3000年の歴史が、偉大なる首領様・金日成主席の指導のもとにあきらかになった」と持ち上げる。歴史もまた時の権力者への献上品なのだ。
この遺跡の背後のなだらかな丘陵には、紀元前2000年前後のものと見られる青銅器時代の支石墓もあった。やはり、朝鮮半島は古い文明を伝える地域ではあるのだ。三方と天井を平らな一枚岩で囲まれた半地下式の墳墓は、人一人が足を伸ばしてようやく横たわれるくらい大きさだった。
海の道を辿り、大同江を遡ってきた人々のものなのだろうか?墳墓は、軸線が遥か眼下を流れる大同江を向くように築かれていた。
踏み分け道を歩いていると、藪陰から雉が4羽大きな羽音を立てて飛び去っていった。
13−2 東明王陵
平壌市街から大同江を渡り、元山行きの高速道路を40分ほど走った所にある真坡里地区には、高句麗の始祖王・朱蒙を葬ったとされる東明王陵が残されている。古墳の形式は、墳丘下部だけが石積みの土盛り墳だ。私が訪ねた時は夏の暑い盛りで、傍らの松林の木陰が涼しげだった。墳丘の緑の芝生はきれいに刈り取られ、積み石は真新しい花崗岩で葺き替えられていた。
この古墳も埋葬された主と古墳の築造された年代とが合わないが、高句麗勢力の南下にともない、鴨緑江沿いにある古都・集安あたりから移築されたものだとされている。
松林越しに、奥まった方に更に二基の古墳の墳頂が見えていた。しかし、そちらは立ち入り禁止で、傍迄も行くことが出来なかった。どちらも整備中ということだった。
松の木陰に入ると、運転手が面白い話をしてくれた。この松林には、昔から蟻の子一匹見当たらないのだという。良くある話だった。半信半疑で地面に視線を這わしてみた。確かに、蟻の子一匹はおろか、動くものは何一つ見当たらなかった。
古墳前方の低地には、「定陵寺」と書かれた扁額が掛かった大きな寺院が極彩色豊かに復元されていた。古墳と寺院がセットになるのは、典型的な高句麗様式だ。日本にも、聖徳太子の時代に、同形式の古墳がいくつか存在する。
大同江の河岸に造られた楽浪古墳群も有名だ。前漢から後漢にかけての古墳が二千近くも存在する。この遺跡も、日本の古代史を考えるうえで重要なものだとされている。見学を申し入れてあったが、ここも整備の為に立ち入りが禁止されていて願いは適わなかった。
今、北朝鮮では、高句麗時代の十二の遺跡が、平山画伯などの尽力もあって、世界文化遺産に登録申請がなされているところだ。
13−3 歴史博物館
歴史好きには、金日成広場の一画にある歴史博物館は必見だ。案内同伴で、私も一度ここを見学している。入り口には、「日帝断罪」と漢字混じりの朝鮮語で書かれた特設展の看板が、一年越しで掲げられていた。この国では、今でも、「日帝」は日常的な言葉なのだ。
ここは旧石器時代から李朝時代までの展示が主だ。金王朝の拠り所である抗日の歴史は朝鮮革命博物館に過激に展示されている。しかし、幸か不幸か、私はそこを訪れる機会がなかった。
展示の目玉は、高句麗時代に描かれた装飾古墳の壁画だ。故国原王陵、安岳古墳群などの実物模型や壁画の模写が、かなりのスペースを割いて展示されている。
そこ空間は、まさに冥界そのものだった。喜怒哀楽、生老病死、・・・、人間界の定めや怨念を具象化したと思われるおどろおどろした造形で、四方の壁面も天井も完全に埋め尽くされていた。
日月の象徴である3本足の烏とヒキガエル。得体の知れない神像たち。楽器を奏でる天女たち。遊泳する天女の流れるような衣文は、生ある人々をも黄泉の国へと誘っているようだ。
玄室の天井には星宿図が、四方の壁には四神図が描かれている。高句麗古墳の伝統的な壁画の構成だ。明日香古墳との同質性は疑うべくもなかった。
高松塚の壁画に描かれた女官が、そのままの姿で、こちらの壁画にも描かれている。同じ様なストライプの裳裾を引きずる高句麗美人もまた明日香美人と瓜二つだ。やはり私も日本人だ。どうしても明日香美人の方が美しく見えてしまう。
壁面に必ず描かれる三本足の烏も、古代日本との繋がりを強く示唆している。朝鮮の伝承による。その昔、空には太陽が三つあって地上は焼けるような熱さだった。遂には、二つの太陽は武人の弓で射ち落とされ、この世に平安が戻ってくる。三本足の烏はその原初太陽神の象徴だ。
中・朝国境に近い中国領・集安にも高句麗古墳に繋がる積石塚が数多く残されている。集安は扶余族の一派・高句麗が平壌に都を移すまでは王城の地だったところだ。そこの王陵の壁画にも、三本足の烏が月の象徴であるヒキガエルとともに描かれている。倭が海を渡って攻めてきたことを記した広開土王碑があるのもこの地域だ。
三本足の烏は、古代日本では八咫烏となって神武東征に登場する。熊野の山中に分け入ろうとする神武の夢枕に立った天照大神が神武軍の先導役として遣わした烏だ。この烏に従って道を切り開いたのが大伴氏の遠祖・日臣命、後の道臣だ。
その昔、日本に割拠した各部族は固有のトーテムを持っていた。八咫烏もその一つなのだ。日を冠した地名が日本各地に残されている。それは即ち古代日本列島の開拓者であった彼らの足跡そのものなのだ。
館内の展示は、国民性そのままに念入りかつ緻密だった。北京の故宮博物院の無造作な展示を見た後だけに、その差がえらく気になったものだ。
案内の中年女性はすこぶる日本語が達者だった。もしかしたら、日本での生活体験がある人だったのかも知れない。
彼女も模範的かつ猛烈な民族主義者だった。日本の歴史や文化は全てこの国発でなければ気が済まない性質らしいのだ。
森浩一先生や江上波夫先生はこちらでも有名人だ。私が二人の名前を口に出すと、「貴方は歴史に詳しい」と、初めて笑顔をのぞかせるのだった。
第14章 入院
14−1 天罰
やはり、ここは神の国なのかもしれない。金日成主席が没した時も、様々な天変地異が目撃されたという。
「たくさんの鶴が、特別な方角に向かって飛び去るのを見ました」。「柳」が真顔で語る。普段は、「知的で、極めて現実的な男」が、である。そんな国なら、悪いことをすれば神が罪人に鉄槌を降すことも充分有り得ることだった。
大同江ホテルで大トラを演じ、居たたまれなくなって平壌ホテルに引っ越した翌日だった。私は危うく死にかけたのである。まさに、天罰としか言いようがなかった。
いつもの朝のように洗濯を終え、鼻歌混じりで浴室を出た瞬間だった。濡れたスリッパの底がツルリと滑ったのである。消耗し切ったスリッパだった。当初から、それなりに注意はしていたはずだった。
一瞬だった。何か巨大な力に吹き飛ばされたかのように体が宙を舞った。体勢を立て直す間もなく、後頭部を壁にしたたか打ち付け、そのまま床に崩れ落ちてしまっていた。
天罰は、さらに容赦がなかった。コンクリートの床が尾底骨を直撃した。私は完全に意識を失ってしまった。
意識が戻った瞬間の恐怖と絶望感は、今でも脳裏に鮮烈に焼き付いている。全身が電気に打たれたようにビリビリと痺れていた。私の中を不思議な時が流れていった。意識が今息をしていないということをはっきり捉えているのに、少しも息苦しくないのだ。
目の前の光景が、映りの悪いTVの画面のようにざらついて見える。子供の頃、溺れかけて水中に沈んでいく時に見た水中の様子に似ているようでもあった。
ぐったりと壁にもたれたままの上半身を、何とか動かそうとするのだが、身体には意志が伝わらなかった。「ああ、ここでは死にたくない」。真っ白な意識の中で、何度それだけを思ったことか。
人は死ぬ前に家族の顔を思い浮かべると聞かされてきた。しかし、その時私を捕らえていたのは、死に対する不安と拒絶の思いだけだった。一家の長としては、私は完全に失格だった。
初めはパクパク口を動かすだけの瀕死の魚だった。それが、徐々に息をしているのだという実感が戻ってきていた。私はパクパクする自分を感じながら、「殺生した報いだ」と、本気に思った。長年、私は自他ともに認める釣りキチだった。
人間社会で犯した数々の、しかし、ささやかな過ちもあった。謝らなければならなかった女性もいないわけではなかった。しかし、そのようなことは一つとして意識に登らなかった。
何とか身体も動くようになってきていた。このまま安静にしているべきか、救急車で病院に駆けつけるべきか、朦朧とした頭は、必死で考えようとしていた。「やはり、早く病院へ行くべきだ」。私は、そう結論付けたようだ。
痺れる体を辛うじて支えながら、電話口まで這って行く。ともかく、同じホテルに泊まっていた「柳」と連絡を取りたかった。じっとしていることが、そのまま死に繋がる様で不安だった。しかし、電話は通じなかった。
やむなく、身体を引きずるようにして部屋を出た。無駄なはずなのに、「柳」の部屋の前に来てしまっていた。日頃目障りと思っていても、いざとなると、やはり彼が頼りなのだ。
「柳」は出てこなかった。そのまま這いつくばるようにして階下のフロントまで降りて行く。一人しかいないフロント係は電話の対応で大忙しだ。瀕死の重傷のはずの私を一瞥しただけで、相変わらず受話器を握り締めたままでいる。日本人の気働きが無性に恨めしかった。
たどたどしい朝鮮語だ。事態を呑み込んでもらうまでには随分と長い時間が掛かったような気がする。フロントは、「ともかく、案内を探すから待て」と、隅っこに置かれたソファーを冷たく指差すのだった。
「柳」は朝食にでも行っていたらしい。いつもの調子でのんびりとやってきた。そして、「何をやっているんだ。お前は」と、言わんばかりにクールな視線を投げてよこすのだった。未だ大同江ホテルでの一件がシコリとして残っているようだ。
幸い、ホテルには常時タクシーが待機していた。それに乗って、ようやく病院へと向かったのだった。行き先は、紋繍街区にある外国人専門病院だった。大同江の東岸に広がる紋繍街区には各国の大使館や連絡事務所が集中している。病院はそこの一画にあった。
途中で、車は停車を命じられた。いつもの検問所だった。その時間が、腹立たしくなるほど長く感じられるのだった。
14−2 外国人専門病院
病院は3階建ての小規模な建物だった。あてがわれた病室は3階の日当たりのいい部屋で、ベッドが二つ置かれていた。
医師は、まずペンライトを当てて瞳孔の反応を見るのだった。次いで、頭を持ち上げて左右上下に曲げてみる。そして、淡々とは「神経系統は大丈夫です」と診断を下した。
重症だと思いこんでいる私から見れば、子供だましのような診察だった。無事を宣告されても、不安は解消されなかった。
頭の中は、鉛を詰め込まれたように重苦しかった。尚も私が不安を訴えると、医師は少し考えたあげく、「脳の中の圧力を調整して、毛細血管から血液が染み出さないようにするから」と、注射を1本打ってくれた。またもや、医師の処置がおざなりに思えて不信感が募るのだった。
「兵士をたくさん抱える国だ。このような外科的な応急措置は得意に違いない」。そう思うことで、自分を慰めているのだった。
一通り診察が終わると、部屋に日立製の中型の冷蔵庫と中国製と思われる扇風機が運び込まれてきた。冷蔵庫のコードの先には、差込プラグが付いていなかった。何処かに仕舞い込んであったものらしい。
件の医師が、慣れた手つきで先端の銅線部分をコンセントに直接差込んで使えるようにしてくれた。随分と乱暴なやり方だが、冷蔵庫は退院の日までプルプルと働き続けてくれた。
冷蔵庫の中には、いつもミネラルウォーターが1、2本入っていただけだった。病院内はおろか近所にも売店がなかったから、何も補充が出来なかったのである。結局、三度の病院食以外は、その水だけで過ごしたことになる。それでも、特に不満や不自由さは感じなかった。既に、当地の生活環境にすっかり適応してしまっていたようなのだ。
浴室と便所が付いていたが、お湯は退院するまで一滴も出なかった。便器は床との取り付け部分がひび割れ、そこから常時水が染み出していた。浴槽の縁には、何時のものやら分からないほど黒く変色した脱脂綿の塊までが放置されたままだった。
漢方薬を溶かすのに使う茶碗を洗う為に、看護婦が時々出入りしていたが、全く無頓着なのだ。退院するまで、その状態は変わらなかった。
ベランダは中庭に面していた。中庭は、悉く長めの芝で覆い尽くされ、黄緑が目に染みるようだった。大きな藤棚が真ん中にあった。葉をいっぱいに繁らせ、樹下に涼しそうな木陰をつくっている。周囲を取り囲むように植えられたマリーゴールドが満開だ。
病院全体が周りを深い木立に囲まれ、娑婆の雑音から隔絶された別世界になっている。「ここにしばらく居ようかな」。真面目にそう思ったものだ。
担当医は40代半ばぐらいで、外科部長だと自己紹介をした。日に2度は回診に訪れたが、いつも瞳孔と首や手足の反射神経を確認しただけで帰って行く。実際のところ、私の症状はたいしたことがなかったのだ。
少しばかり世間話めいたことをすることもあった。日本のことにはかなり関心があるようだが、自制している風だった。核心に近づくと直ぐに話題を変えてしまうのだ。私も、壁の耳を考慮して話題には用心することにする。大抵は、電気製品の話などに落ち着くことが多かった。
「日本では、医師は大変に社会的な地位が高くて金持ちも多いのだが・・・」と、水を向けてみた。「ここではそんなことはありません。誰もが同じです。医師は一人前になるまで時間が掛かるし、自分の家庭にいられる時間も少ないので大変です」と屈折した表情を浮かべる。
ラジオ用の乾電池を見て、「ペンライトに入れるから2本頂戴」とおねだりだった。ここでも、モノは足りていないのだ。
20代半ばぐらいの看護婦が付いてくれていた。当地では珍しく色黒で、不美人だった。物怖じしない性格のようだ。私に対してもおしゃべりだった。「両親が医者で、自分も将来は医者になるつもりだ」と、自分から打ち解けてくれる。
一日3回決まった時間に訪れ、注射をしたり、体温を測ったり、飲み薬の世話をしたりして帰って行く。注射は、蚊に刺されたほどの痛みも感じさせないほど上手だった。それだけで、私は彼女に好意をもってしまったほどだ。
ここのはガラスの注射器で、当節の使い捨てのものではなかった。体調が回復し、余裕が出てくると、妙にそれが気になるのだった。
普通の錠剤が3種類と、大きな漢方薬の丸薬が1種類、飲み薬として処方されていた。錠剤は色艶や形状がいかにも無骨で不味そうだった。「薬にも外観は重要なのだ」と改めて思ったものだ。
漢方薬はビー玉ほどの大きさで、医師も看護婦も「これは高い薬だから」と自信満々だった。毎回、彼女はそれをお湯で溶かして私に与えてくれる。少し鉱物質の味がして、茶碗の底にはキラキラした金属の微粒子がいつも残されていた。「本当に大丈夫か?」。砒素や水銀中毒なんてまっぴらだった。
茶碗はベッドの脇に置いたままだった。縁のあたりに汚れが目立ってくると、看護婦はそれをトイレに持って行き、洗ってきてくれるのだった。
食事の係は他の娘たちだった。必ず二人一組で来て、皿を並べ終えると、ほとんど無言のまま帰っていってしまう。寂しい食事だった。
しかし、久々の、純白のふっくらしたご飯らしいご飯だった。数品の簡素なおかずも日本風の味付けで美味かった。いつも、ぺろりと残さず平らげたものだ。
相変わらず頭はナマリをぶちこんだように重苦しかった。巡回するたびに担当医は大丈夫だ言ってくれるのだが、過去にこれと言った病歴のない私は釈然としなかった。
そんな私に押し切られるかたちで、担当医は渋々精密検査に同意してくれた。血液検査、X線検査、心電図、超音波エコーと、検査はフルコースで行われた。
看護婦には国境が無いのかも知れない。付き添ってくれたのは、日本でもよく見かけるような、シャキシャキの、ちょっと姉御肌のおばさんだった。
X線技師が日本人と変わらない日本語で話し掛けてきた。帰国者にしては年代が若かった。私の中では好奇心が頭をもたげてきていたが、担当医は急かすように次の検査へと私を追いたてるのだった。
全て異常なしだった。しかし、すっかり気弱になっていた私は、それでも安心できなかった。「CTスキャナーはないのか」と、呆れ顔の担当医に捻じ込んでみた。すると、一箇所だけその機械を持っているところがあるという。しかし、あまり乗り気ではなさそうだった。
「そこは、在日同胞と合弁で運営されている病院である」こと、「検査料だけで2万円はかかる」ことなどを、奥歯にモノが挟まったような言い方で告げるのだった。一介の外国人が随意利用できるような施設ではないのだ。
数日が過ぎたあたりから病院内を歩き回れるようになっていた。トイレに立ったついでに他の病室を覗いてみた。同じフロア―には、もう一人の患者がいただけだった。
真夏の暑い盛りだった。昼夜を問わず窓もドアも開けっ放しにしてあった。それでも、蚊やハエが一匹も飛んでこなかった。
普通なら車のエンジンの響きやら警笛やらが無遠慮に入りこんでくるものだが、それらとも全く無縁だった。
夜には、どこからか聞こえていたTVかラジオの音が途絶えると、あたりは不気味なほどの静寂に包まれるのだった。
病室には、扇風機が1台あるだけだった。その扇風機も、就寝時には止めるようにしていた。朝方は、結構冷えるのだ。
しかし、宵の口は蒸し暑くて猛烈に寝苦しかった。ベッドに横たわるとシャツやシーツがびしょびしょになるほど汗が流れ出してくる。
入院時に渡された一着の室内着は、ずっと着たきりだった。そのボタンが、一個また一個と、いとも簡単に脱落していった。糸が極めつけ弱いのだ。看護婦は終いまで、それには気づいてくれなかった。
毎日沁み出す汗の量は半端ではなかった。体全体が納豆やチーズ臭くなっていくのが自分でも分かるのだった。しかし、お湯の出ない浴室で、冷んやりとする水を体にかける気にはなかなかなれなかった。絞ったタオルで体を拭くのが精一杯だった
14−3 マツタケ料理
案内同務と商社関係者は、一日置きぐらいに病院を訪れてくれていた。夕食後の空白の時間に、彼等はきまってやってくるのだった。ちょっとした差し入れを持ってきてくれることもあった。何となく人恋しくなる時刻だった。いつも救われる思いがしたものだ。この国の外出事情は我々の想像をはるかに越えている。心底頭が下がる思いだった。
ある日曜日の昼下がりに、「柳」と「趙」と「趙」の友人が三人連れ立って見舞いに来てくれた。「許可をもらってあるから」と「趙」は片目をつぶり、水滴の付いたビール瓶を取り出して見せてくれる。
藤棚の下は、格好の日陰になっていた。病室を抜け出し、そこへ行って見ることにする。入院以来、初めての外歩きだった。夏草の甘い匂いが心地よかった。
それぞれの家庭で作った料理を持ち寄ってきてくれたのだ。様々なキムチや魚肉のフライが詰まったタッパーウェアが並んだ。驚かされたのが、「趙」の友人が取り出したマツタケ料理の品々だった。まだ、季節は8月に入って間もなかった。尋常な経路では入手できないはずのものだった。
「趙」の友人とは初対面だった。「通信関係の研究所に勤める課長さん」という紹介だった。「趙」は、ダンヒルのタバコをくゆらす友人の横顔を見ながら、「彼の親類が山でマツタケを取り扱っているので・・・」と、困惑気味の私に説明するのだった。
耳元をそよそよと優しい風が通り過ぎていく。私は、病気から開放される時の何とも言えない幸福感を感じていた。
異国での入院生活ははじめての経験だった。不安で、不自由で、逃げ出したくなるほど心細かった。彼等の優しくて親身な心遣いが、そんな私の心に痛いほど染み渡っていくのだった。
件の課長氏とは後日談があるが詳細は伏せることにする。要は、ある仕事に使えるか使えないかの面接だったのである。その後、二次試験(?)位まで通ったらしかった。しかし、プロジェクトがいきなりの破綻し、それっきりになってしまっていた。私は大乗り気だったから、在日メンバーたちを随分と恨んだものだ。
退院の時の付け届けが気になっていた。案内を促して大使館街にある外貨ショップを覗きに行って見た。大使館街は、一面、豊かな夏の緑に覆われていた。その緑に埋れる様に、大層なプレートを掲げた各国の大使館や連絡事務所がずらりと軒を連ねていた。外貨ショップは、そんな一画にあった。
20坪ほどの狭い売り場だった。生鮮食料品やら日用雑貨品やらが、背丈ほどの棚にごちゃごちゃと手当たり次第に詰め込んである。客は、狭い棚と棚の間を、蟹の横ばいのようにすり抜けて歩かなければならなかった。内部は、おせじにも綺麗とは言えなかった。
それでも、他の店に比べたら生鮮食品の品揃えは飛びぬけて豊富だ。店の中で青々とした野菜を見るのも、ここが初めてだった。しかし、哀しいかな、棚にある商品は、日本語かアルファベット表記のものばかりだ。
担当医にはダンヒルのタバコ一カートン、女性職員たちにはクッキーを一缶買うことにする。
入院費用は、一日当たりに換算すると8000円ほどだった。
終章 あとがき
(未完のページ・・・おそらく永遠に)
15−1 渡来人
人類形態学的には、北九州や近畿地方の住人たちは、朝鮮半島南部の人々に酷似しているという。日本の空白の古代史も、考古学の成果や古文献から、朝鮮半島との関係を抜きにしては語れなくなってきている。日本の成り立ちにまつわるタブーが、少しずつだが消えようとしているのだ。
私と長く関係が続いている韓国人の一人に全羅道出身者がいる。金大中元大統領も全羅道出身者だが、韓国では、そこの出身者は日本人が嫌われるように嫌われてきた。改めて思うのだが、彼は韓国人の中では珍しく、人間関係にまで緻密な計算ができる人だった。ある種の日本人とよく似ているのである。
全羅道は、扶余族が支配層を形成していた百済の最後の故地だ。鴨緑江の北側に位置する集安のあたりから扶余族が朝鮮半島を南下し、朝鮮半島南部から北九州の一部まで広がっていた倭国に到達したという説は極めて有力だ。
天皇陛下のお言葉を持ち出すまでも無く、倭国が大敗を喫した白村江の戦いなどからも、否応無しに倭国と百済の密接な関係が浮かび上がってくる。日本古代史の怪しげな部分は、まさに、海を越えてやってきた侵略者の大いなる存在感の投影なのである。
中世に下る。関東平野の鎌倉武士団は、百済や新羅からの集団移住者の子孫だった可能性が濃厚だ。日本書紀の集団移住に関わる記述や、今も残るコマやシラギの地名、川筋の群集墳、近畿圏に匹敵する数や規模の前方後円墳、・・・、多くの事跡が、そのことを示唆している。
現代に戻る。選挙や公務員の採用に関しては国籍条項があって、在日外国人の公権力の行使は制限されている。しかし、この国籍条項なるものが在日韓国・朝鮮人に対する差別の象徴とされてきた。しかし、外国人対して内国人並の権利を保障している国がどこにもないのも事実である。私などは「日本に帰化する道が開かれているのに勝手に韓国・朝鮮籍を選んでおいて何を言うか!!」と、腹立たしくなる。
私は韓国で居住ビザを取得して、当地の住人として働いていた時期があった。韓国から出国する度に、事前に当地の入出国管理事務所に出頭し、届出と許可をもらわなければならなかった。いつも半日はつぶれる計算だった。勤め先では、自社製品をそこの職員に送り届けるなどの煩雑なこともあったようだ。
10本指の指紋押捺も恒例だった。黒く汚れた指先を拭いながら、何でコンなことに在日韓国・朝鮮人がヒステリックになるのかと首を傾げたものだ。
そのような彼らの感情のたかぶりと民族意識の高揚が、大日本帝国による朝鮮半島36年間に及ぶ植民地支配と朝鮮族数百万人に及ぶ強制連行に対する日本政府の曖昧な戦後処理に起因することを知ったのはつい最近のことだ。我々一般の日本人は、彼らを只の外国人と思っている。このギャップは途方もなく大きい。
15−2 貿易懸念4カ国
わが国の貿易に関する法律に、「外国為替及び外国貿易管理法」なるものがある。その中で、北朝鮮と交易する際特に留意しなければならない部分が「安全保障輸出管理」といわれる部分だ。
そこには、大量破壊兵器等の拡散防止のための輸出規制、大量破壊兵器等の不拡散のための補完的輸出規制、武器の輸出規制に分類されて、規制対象品目、規制対象技術、規制対象地域、輸出許可及び役務取引許可手続きに関することが、詳細かつ難解に記されている。
関連する品目と技術の種類は、輸出貿易管理令別表第1と貨物等省令関連表に二百数十項目、外国為替管理令別表と貨物等省令関連表に数十項目、補完的輸出規制対象貨物・技術一覧表に約百項目も列記されている。貿易を企てるものにとって、頭がくらくらするほどに制限項目は多種多様だ。
補完的輸出規制に関しては2つの規制要件が設定されていて、該当した場合のみ許可申請が必要だとなっている。1つ目は客観的要件と言われるもので、「輸出者がその輸出取引に関して入手した文書等により、輸出貨物が大量破壊兵器等の開発に使用される等の情報を得た場合」となっている。通常、相手方が「兵器を作るために輸入しますからよろしく」などと言ってくれるものだろうか?一般庶民には何とも訳の分からない文言なのである。
2つ目はインフォーム要件といわれるものだが、「輸出貨物が大量破壊兵器等の開発等に使用される恐れがあるとして通商産業大臣から(通知)を受けた場合」となっている。これは、お上のさじ加減一つで白にも黒にもなるという独裁国家並みの法令で、当事者にとっては真に厄介な内容なのだ。品物を調達し、乙仲にそれを搬入した後で通知を受けたりなどしたら、我々零細業者は破産してしまう。
規制対象地域も設定されている。原則「全地域」が対象だが、「ただし、先進21カ国向け輸出については、政府からの(通知)がないかぎり、輸出許可申請は不要です」となっている。
北朝鮮がその21カ国に仲間入りしていないのは当然だが、イラン、イラク、リビアと並んで「懸念4カ国」なる別枠で括られ、先進諸国間で厳格な輸出規制を実施することが申し合わされている。
だから、JETROの相談員が言うように「北朝鮮との取引はまずやらない方が良いですよ」となってしまうのである。
私は単純に思ってしまう。不良少年等の喧嘩で、「俺らはナイフを持ってもいいがおまえ等は持ってはいけない。さあ素手でかかってこい」といった構図だ。どうも、外交とはそんなものらしいのだ。
15−3 米はたよりを運ぶか
全中(全国農業中央会)がたきつけて余剰米を政府に買い取らせ、それを北朝鮮に送る計画が浮上している(当時)。現地では悪名高いODAと同じ構図だが、細工が見え見えの名ばかりの援助など相手が感謝するはずがないのである。恩恵を受ける相手がこちら側にも居るわけだから、先方も当然猛々しくなる。
北朝鮮は安価な労働力を提供する。先進諸国は生産手段と市場を提供する。技術や経済交流には、否応無しに新しいメッセージが付いてまわる。必然的に、この国の人々は我々の世界を知ることになる。改革開放の中国と同じだ。何故、こんな簡単なプログラムが提案されないのだろうか?
北朝鮮の至る所で目にした「三大革命」を訴える看板には、「思想」、「文化」、「技術」と言う文字が連なっていた。的は外れていなかった。
金正日書紀(当時)直轄で三大革命小組が組織され、それらの組員が全土に派遣された時期があったらしい。しかし、はかばかしい成果が上がったと言う話は聞かない。三大革命がすんなり成功するには、この国のインフラはあまりにも貧弱なのだ。長年にわたる経済制裁が、この国を、ますます硬く扉を閉ざさざるを得ない状況に追い込んでしまっているのだ。
かつて、日本国民も、外国からの熾烈な経済制裁が続く中、無能な国家指導者たちの精神論に踊らされ悲惨な戦争を戦わねばならなかった。彼等には、そんな日本の轍を決して踏まないでもらいたいと切に願うのである。
15−4 100トンの水産物
「・・・あんな体制では、あんたね!」。築地市場に程近い埠頭にある冷凍会社を訪ねた時のことだ。そこの役員は、のっけから問責口調で私に応対するのだった。
北朝鮮から私宛に、冷凍蛸などの水産物を売ってくれないかと言うFAXが入っていた。北朝鮮側は十分日本語の読み書きができるはずだったが、文面は手書きのハングルだった。プライドが高いのである。辞書を引き引き、私はA41枚を3時間近くもかかって翻訳しなければならなかった。
何とかしてやりたかった。しかし、それは専門外の仕事だった。私は、ところかまわず電話を入れて商談の糸口を探すしかなかった。その冷凍会社も、そんな飛び込みセールス先の一つだった。
現地からのFAXには、100トン単位で出荷を保証するとあった。食糧不足が喧伝されていても、在る所には在るのだ。
彼等は、中古の保冷車や冷凍コンテナとのバーター取引を希望していた。彼等が必要なのは、米やダムや最新の設備などではないのだ。
物があっても保管や輸送手段を欠けば、地域的な物不足に直面する。発展途上国というものは大抵そういうものだ。経済援助と言うものは、多くのODAプログラムが実行してきたような、現地で使いこなせないような最先端の道具や設備をヒモ付きで売りつけることでは決してないのだ。
「電気が足らないようでは、冷凍状態も知れたものだろう。それに、商売と言うものは安定供給が大前提だ。恐らく一回こっきりと言うことになるんじゃないの。やるにしたって、調査や何かで5年はかかるな。・・・・。あんな独裁的な国とは危なくて商売なんか出来ないよ」。彼は取り巻きの社員に薀蓄を傾けるのだった。
そんなことは言われなくても分かっている。日本株式会社が得意とする「消去法」は、次々と夢をしぼませていくのだった。
司馬遼太郎氏の小説だったと思うが、咸臨丸でアメリカに渡った勝海舟が幕閣たちにアメリカと日本の違いを尋ねられ、「彼の国では日本と異なり、門閥などとは関係なく能力のある人物が殿様になるようになっています」と答える件がある。日本は、その時代から少しも変わっていないのである。
15−5 99.99%のモリブデン
希少金属のモリブデンとリチウムの売り込み依頼も来ていた。これも、何とも不愉快な日本企業の対応に断念せざるを得なった。「北朝鮮」の3文字で、大抵の企業は門前払いなのだ。
国際社会の中で、騎馬民族から受け継がれた彼の国の直情さを理解できる数少ない国家が日本のはずだった。薄っぺらな人材が、日本企業には随分とはびっこっていたのだと寂しくなるのだった。
鉱物資源は、北朝鮮が世界に誇れる数少ない天然資源だ。金を筆頭に、希少金属も多く産出する。本来ならば外貨稼ぎに大いに寄与するはずのものだが、資金不足で採掘も精錬もままならないのが実情だ。
モリブデンは飛行機や自動車エンジンなどに使われる耐熱合金に不可欠な成分だし、リチウムはリチウム電池の原料となる。どちらも現代産業には欠かせない高付加価値の鉱物資源だ。
モリブデンもリチウムも、99.99%まで濃縮する技術があると自慢げに書かれていた。しかし、それほどの高純度になると、用途は反って限られてしまう。純度の高いリチウムの同位体は、核融合燃料の添加物ぐらいにしか使えなかった。精製されたモリブデンはロケットエンジンの潤滑材としては使われるが、売り込み先となると私らの範疇を越えてしまう。
調べてみると、モリブデンもリチウムも、アメリカ企業がほぼ世界のマーケットを独占している戦略物資だった。どちらにとっても日本は巨大な市場だが、ほぼ100%をアメリカからの輸入に依存しているのが現実だった。あらゆる分野で突出しているアメリカの巨大な力を思い知らされるのだった。
15−6 北朝鮮の扉
テロ、拉致、麻薬、独裁、・・・。北朝鮮国民の多くがそれらの悪に荷担しているのだと、漠然とながらも、我々は思い込んでいるようなところがある。しかし、である。日本軍がかって行った数百万人もの朝鮮・中国人の強制連行は?軍部が絡んだ阿片の密売は?朝鮮李朝の閔妃暗殺は?それぞれの時代においてなされた国家犯罪の為に、全ての日本国民が鬼畜に等しかったと言われたら、戦時中に否応無しに駆り出され死んでいった数百万人の英霊も、死と背中合わせの窮乏生活に耐えた留守家族たちも浮かばれない。
国家、機関、組織は、現実には様々な側面を持っている。非情な面も汚れた部分も多くある。我々の多くが帰属する「会社」なるものを考えてみればそれがよく分かるはずだ。
しかし、多くの所で、普通の人々の、普通の暮らしが営まれているからこそ、そのような集団でも成り立っていけるのである。テロや拉致報道の裏側に、北朝鮮の、普通の人々の、普通の暮らしがあることも忘れてはならないのだと思う。
日本の統治者たちは、ある時期までは故地でもある中国や朝鮮をお手本に己れの集団を統治していけばよかった。それだけで、常に政治的にも軍事的にも文化的にも優位に立つことができた。
そして時代が変わり、ある時からはアメリカという形而下学のエキスパートが先生になった。日本は、ただただアメリカに盲従し、追い使われることで、国際社会の潮流に乗ることになる。そして、アメリカ的な手法にアジア的な人治の手法を混ぜ合わせることで、世界にも稀な社会資本主義社会を形成したのである。
本来、人治は明確なルールを持たない曖昧な社会システムだ。徳という怪しげな概念が希薄になれば、それは混沌と無秩序へと流れていく。
近年、幸か不幸か、情報化社会の進展で、神社の裏庭も、国会議事堂の台所も、官僚の引き出しも、我々はしっかりとこの目で眺めることが出来るようになった。既に、多くの人々は「徳」だとか「神」の正体を見抜いてしまっている。日本からは、盲目的に国家を支えてきた普通の人々が消えつつあるのだ。
多くの民人が、何も考えずに「お上」にもたれかかってやってきた世界に稀有なもう一つの独裁国家もまた同様に、自己崩壊の危機に瀕しているのだ。
私は、北朝鮮の扉の前に佇み、ふと後ろを振り返り、慄然とするのだった。
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