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「戦国北条氏のすべて」は管理人が想い、調べた北条氏について記したページです。多少管理人の独断と偏見による部分もありますが…そこは管理人の想うトコロなんだとご理解ご了承頂ければと思います。
同じ関東という地に生まれ生きた管理人には、北条という存在が遠いんだけど…どこか身近に感じられるのです。
現在日本の中心である東京(関東)をかつて彼ら北条氏が統治していたことをどれだけの人が知っているだろうか。戦国時代と聞いて彼らの名を挙げる人はどれだけいるだろうか。一般的にはあまり知られていない彼らを少しでも知ってもらいたいな…と思います。
…戦国とは懸け離れるかもしれませんが、優しい穏やかな感じでこのサイトは成っていってる…はず…。 |
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戦国北条氏は、伊勢平氏の流れを汲む伊勢新九郎(早雲)が妹・北川殿の嫁ぎ先である今川氏の家督争いをおさめたことをきかっけにし登場します。50を越えて興国寺城主となった早雲は伊豆を平定し、小田原城を手中にし、扇谷・山内上杉氏らと戦い関東統一を目指し、そして以降、氏綱・氏康・氏政・氏直と五代100年に渡り関東一円を治めました。
名立たる武将、武田信玄や上杉謙信などと対等にやりあってきたのです。
しかし五代100年に渡った北条も天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めによって敗退し、滅亡しました。
己の力を過信し、豊臣秀吉らの力を侮っていた…と言わざるをえませんが、武田信玄や上杉謙信などにも負けなかったこと、また大きな力に屈しない…という北条のプライド…というより想いみたいなものがあったのではないでしょうか。
結局、氏政らの強行派と、氏直らの穏健派に別れてしまい、のちに「小田原評定」などと評されてしまうような堂々回りのような話し合いをした末に、対戦を決め籠城作戦にでたのでした。
そして、降伏、滅亡へ。
氏政、氏照、松田憲秀、大導寺政繁は切腹を命じられ、氏直は高野山へと送られ、北条はバラバラになり、実質的に滅亡したのでした。 |
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もともと伊勢氏であったのですが、氏綱の時、鎌倉時代の執権で知られる北条にあやかるため、性を北条に改め鎌倉北条氏の家紋(三ツ鱗)を使用しました。
その狙いは単なる憧れだけではなく、鎌倉時代執権(関東管領)として関東を統治していた北条の名を名乗ることで関東統治を自分達が成すべきことだと正当化づけたものだと考えられます。また、早雲もしくは氏綱が鎌倉北条氏の末孫の娘と結婚して名実ともに改性したとも云われますが定かではありません。
鎌倉北条氏と区別するため戦国北条氏は「後北条」「小田原北条氏」といわれています。
当サイトでは北条氏、戦国北条氏と記していますが、これは管理人の意向によるものです。 |
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初代早雲は、「撫民策」をもって民政に心をくだき、「早雲寺殿廿一箇条」で質素倹約を心掛けるよう説き、またその教えは一族家臣にきちんと伝えられ、五代に渡り守られました。軍略的には謀略になってはしまうものの、領民に対しては誠実であることを守ることで、その強さを増していきます。またお家騒動たるものが皆無であった北条氏は、戦国においてとても希有な存在だったといえるでしょう。北条家の家印である虎の印に彫られた「禄寿応隠」これこそが北条の目指す国のあり方だったのかもしれません。 |
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北条のすべて肯定することはもちろんできません。
早雲は戦国武将の先がけであり、大きな戦をし、奇襲などをかけ「悪逆非道」ともいえるようなことを成して、領国の拡大をはかる。多くの人を殺し、苦しめた。
けれど、それは己の私利私欲のためだったわけではないことを知って欲しい。
早雲ははじめ名を挙げることを目標にし事を起こした。けれどそれは決して己の私腹を肥やすためなんかじゃなくて、理想の国を作ることを目指し、五代もそれを成そうとしたんだと信じたい。 |
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・「小田原合戦」(下山治久著)
・「武将名言100話」(桑田忠親監修)
・「上杉騒動秘話」(千坂春一著)
・「探訪日本の城2関東」(小学館)
・「日本の歴史」(中央公論社)
・ 歴史群像シリーズ14「真説[戦国北条五代]早雲と一族、百年の興亡」(学研)
・ 歴史シリーズ2「戦国[関東三国志]上杉謙信、武田信玄、北条氏康」(学研)
・ 歴史読本「戦国の梟雄・北条早雲」(新人物往来社)
・ 歴史読本「武田信玄vs上杉謙信」(新人物往来社)
・ 歴史読本「戦国大名・名将の夫人たち」(新人物往来社)
・ 歴史と旅「戦国大名家臣団総覧」(秋田書店)
・ 歴史群像12(94年4月号)
その他
・「北条五代記」・「戦国大名後北条氏の領国支配」・「八王子城主北条氏照」・「後北条氏と領国経営」・「戦国の終わりを告げた城・八王子城」・「小田原市史」・「北条早雲・物語と史跡を訪ねて」…etc |