北条相模守氏政/北条4代目当主/幼名・乙千代丸 天文7年(1538年)〜天正18年(1590年)/享年53歳 法名・慈雲院殿勝巌傑公大居士 氏政は、天文7年(1538年)に父・氏康と母・瑞渓院の次男として生まれました。しかし、長男・新九郎が天文21年(1552年)3月21日に亡くなってしまうため、嫡男として4代目当主となります。彼の評価は一貫して低く愚直といわれますが、実際には深謀遠慮で父同様に上杉謙信・武田信玄・佐竹義重らと対陣してしのぎをけずり、北条の威信を守りました。 氏政が生まれた頃、父・氏康は家督を継ぎ、関東で扇谷上杉朝政、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと戦い、河越夜戦を成功させ武蔵支配を確実のものにしていきました。天文21年(1552年)3月21日に長男・新九郎亡くなると氏政は嫡男として、父とともに関東支配を進めます。 甲相駿三国同盟 天文23年(1554年)氏政16歳の時に甲斐武田と駿河今川との甲相駿三国同盟が成立。氏政は武田信玄の娘・黄梅院と結婚します。 16歳と12歳の若い夫婦で政略結婚という形ではありましたが、ふたりの仲はよく、子供にも恵まれました。 氏康から氏政へ 永禄2年(1559年)税の実態などを整理し家臣団の基本台帳となる「小田原衆所領役帳」をまとめ、同年12月23日22歳の氏政は45歳の父・氏康より家督を譲られます。しかし、氏康は「御本城様」と呼ばれ、実際には若き当主・氏政の後見として辣腕をふるいました。 上杉謙信 この頃、越後の長尾景虎(上杉謙信)が山内上杉憲政から関東管領職を譲られることを条件に上杉憲政、里見義尭、佐竹義昭らからの要請を受けて永禄3年(1560年)9月には岩下、沼田城などを攻撃、これに対し父・氏康は河越城を出て同年10月には松山城に入ります。翌年(1561年)小田原城下に入った上杉謙信に対して、北条方は籠城作戦に出、上杉謙信は苦戦します。そんな中、上杉謙信は鶴岡八幡宮で山内上杉憲政から「関東管領」と「上杉」の名を継ぐ拝賀式を行い「関東管領」就任という事実を北条方にアピールします。しかしその後、北条の籠城作戦に負け上杉軍は撤退しました。永禄5年(1563年)11月、武田信玄と呼応し上野・武蔵の上杉方の城を攻め松山城を包囲、翌年2月落城させました。 第二次国府台合戦 永禄7年(1564年)「第二次国府台合戦」が勃発。氏政は父・氏康とともに2万余の兵を率いて、上杉謙信と連合する安房・上総の里見義尭・義弘と下総国府台で対陣、里見方が力戦し北条方は有力武将を失ってしまいす。しかし7日後、油断する里見方を狙って、北条綱成の献策により兵を東西に二分し猛攻を加え不意をつかれた里見方は総崩れとなり、北条が勝利しました。この国府台合戦で、江戸衆・太田康資らが反北条の動きを見せたため、太田康資を追放し江戸衆の再編を行いました。永禄7年(1564年)7月には岩付城の太田資正・氏資を攻撃。10月には上総土気城主・酒井胤治が北条に従い、上総をほぼ制圧するにいたります。一方、将軍・足利義輝は北条氏と上杉氏の和睦を進めていましたが、両者は応じず、上杉謙信は北条と武田を滅ぼし関東・信濃を平定することを神に誓っています。永禄9年(1566年)2月上杉謙信は関東に出兵、佐野城に入りますが、9月に上野金山城の由良成繁・国繁が上杉にそむいて北条方に内通、また武田方の動きに呼応した北条方は優位にたちました。永禄10年(1567年)2月には佐野城の佐野昌綱も北条に従い、4月には厩橋城の北条(きたじょう)高広、下総の簗田晴助・持助が相次いで北条に内通しました。 甲相駿三国同盟破棄 永禄10年(1567年)8月、北条と同盟関係にあった武田氏内部に武田信玄の長男・義信の謀反事件が起こり義信は10月自害しました。この事件により、義信が今川氏真の妹を妻としていたことから、今川と武田の甲駿同盟が破れました。永禄10年(1567年)9月、里見義弘が上総三船台城を攻め、援助に向かった岩付城の太田氏資らが戦死してしまいました。しかし、それでも北条の上総支配はゆるがず、岩付城には氏政の子・氏房を養子として置きました。そして永禄11年(1568年)甲斐武田信玄は駿河今川の侵攻を始めます。今川氏真は氏政の姉・早河殿を妻に迎えているため北条に援助を求めました。12月北条は援軍を送りますが、今川氏真は懸川城に逃れ氏政の姉・早河殿も徒歩で敗走することとなります。これに対し父・氏康は、武田信玄との甲相同盟を破棄し、やむなく氏政は翌年、黄梅院を甲斐に送りかえします。氏政と子供と引き裂かれた黄梅院は、甲斐に戻ると出家しますが、間もなく27歳の若さでこの世を去りました。黄梅院を想う氏康は、甲相同盟が復活した後、箱根の早雲寺に黄梅院の塔頭を建てて分骨を葬り、その冥福を祈りました。永禄12年(1569年)武田と北条・今川は対峙を続け長期戦の様相を呈してきました。そこで越後上杉謙信との和睦交渉を始め、今川氏真も上杉謙信に援助を求めました。4月武田信玄は甲府に撤退します。北条はこれを追撃、局地的ではあるけれど勝利をおさめました。その後、氏政は長男・氏直を今川氏真の養子とし、今川を継承しました。また、5月3日上杉謙信との越相同盟が成立し、上杉謙信は甲斐へ出兵することを約束しました。6月9日には氏康・氏政と誓詞を交換し、氏政の次男・国増丸を上杉謙信の養子とすることを決めました。(しかし実際には氏康の八男・三郎が養子となります)。甲府へ戻った武田信玄でしたが6月駿河の東の城を攻め、帰路で富士大宮城を攻めます。8月24日には上野に入り、9月10日には武蔵鉢形城、滝山城そして10月には小田原城を包囲します。しかし北条方は籠城作戦に出、長期戦は不利と考えた武田信玄は帰陣しました。帰陣した武田軍と追撃した北条軍は三増峠で戦いますが、作戦勝ちした武田信玄が北条に大打撃を与えました。その後、武田信玄は11月に再び駿河に向かい、12月6日には北条綱成守る蒲原城を堕とします。12月北条は小田原を出陣しますが目立った動きはありませんでした。 越相同盟 翌元亀元年(1570年)越相同盟が本格化し、3月5日上杉謙信から氏康・氏政に書状が届き、氏康八男で氏政の実弟・三郎を迎えることを盟約し、4月には沼田で上杉謙信と三郎が対面しそのまま越後へと赴きました。 武田 その後元亀元年(1570年)5月以降も武田信玄の攻撃は続き、伊豆の韮山城や駿河の興国寺城などを攻めますが護りが固く武田信玄は伊豆攻略を断念、北武蔵や秩父などへ進撃しました。10月に入ってようやく上杉謙信が援軍を送りこれにより武田信玄は兵を引きます。武田信玄は下総関宿城の簗田氏や安房の里見氏などに北条を攻めることを働きかけ、暮れには深沢城、興国寺城を攻め、深沢城は翌2年に武田の手に堕ちました。しかし2月に入ると武田方は徳川家康との対戦が激化しはじめ北条との対戦は小康状態となりました。 氏康死す 病にふせっていた父・氏康は、「越相同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶように」という遺言を残して、元亀2年(1571年)10月3日、53歳で病死します。これをうけ、氏政は越後上杉との越相同盟を破棄し、12月27日には甲斐武田との甲相同盟を復活させます。しかし、越後上杉には弟・三郎が上杉謙信の養子となり謙信の前名・景虎を名乗るに至っていました。それでも氏政は越相同盟を一方的に破棄、弟・三郎は越後に残ることになってしまいました。この後、上杉謙信は小田原侵攻を再び始めることとなり、弟・三郎景虎はつらい立場となってしまいます。 関東での争い 元亀3年(1572年)8月羽生城を攻め、12月には佐竹氏・宇都宮氏と下野多功原で戦うも敗れます。 翌年7月、織田信長が将軍・足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡しました。天正元年(1573年)2年(1574年)には羽生城、関宿城、水海城を攻めました。天正2年(1574年)2月、越後上杉謙信が動きだし上野へと出兵、氏政も4月上野へ出陣し対陣します。また10月にも上杉謙信は関東に出陣してきました。しかし11月には下総の結城晴朝が氏政に従い、簗田晴助が関宿城を開城し、北条方が有利となります。天正4年(1576年)6月には、氏政は常陸に出兵し多賀谷氏を攻め、それを助けるために動いた佐竹義重と北条は対戦、局地的な勝利をおさめました。この年の8月、織田信長に追われた元室町幕府将軍・足利義昭により甲相駿の和睦が進められるが失敗。しかし、甲斐武田では、信玄が亡くなりその跡を4男・勝頼が継ぐものの家運には翳りが見え始めていたため、翌天正5年(1577年)武田勝頼は遠江徳川家康に対抗する力を得ようと、北条との同盟強化をはかります。そして、武田勝頼は氏政の妹・桂林院を妻に迎えました。天正5年(1577年)5月、常陸小田城の梶原政景を攻め、氏政の嫡男・氏直が16歳で初陣を飾ります。また、氏政は上総三船台に出陣し里見義弘と対陣するものの、6月に講和し帰陣しました。 御館の乱…甲相同盟破棄 天正6年(1578年)3月9日、越後上杉謙信が倒れ、13日に亡くなります。そして謙信の二人の養子、越後に赴き謙信の前名を与えられた氏政の弟・三郎景虎と、謙信の姉・仙桃院の子・喜平次景勝との間で家督争い「御館の乱」が勃発しました。氏政は女婿・武田勝頼に援軍を依頼し勝頼は5月に出陣します。しかし、景勝は大量の金品をもって武田勝頼と同盟してしまいます。氏政はこれをうけ、妹・桂林院が武田勝頼に嫁いでいるにもかかわらず、甲相同盟を破棄し、9月に弟・氏照と氏邦を三郎景虎の援助に送ります。しかし間に合わず、翌7年(1579年)3月24日、鮫尾城で三郎景虎は自害しました。 武田・徳川・織田 この一件により、再び武田と対立する事となった氏政は天正7年(1579年)9月、遠江徳川家康に使者を送り、武田と対陣。10月には武田勝頼が伊勢崎方面を攻め、翌8年(1580年)3月には伊豆重須沖で対戦します。その後も、武田勝頼との戦いは続くこととなります。またこの頃、天正8年(1580年)8月には、43歳の氏政は19歳の嫡男・氏直に家督を譲ります。父同様、若い当主の後見として辣腕をふるいました。天正10年(1582年)3月、織田信長が甲斐武田を滅ぼしその領国を手に入れます。しかし、6月2日本能寺で明智光秀により織田信長は殺されてしまいます。これにより甲斐国内では土豪一揆が起こり、国主を欠いた状態となります。また、織田信長の武将・滝川一益が武田の旧領の上野の一部を受け関東管領となっていました。これに対し氏政と氏直はこの地を狙って動き出します。6月16日には倉賀野表に出陣、18日には本庄原、金窪城で激突。しかし、氏直、氏邦の軍勢が討たれ第一戦は敗退してしまいます。けれど、翌日神流川で再び激突し、滝川軍は総崩れとなり北条軍が勝利しました。天正10年(1582年)6月、北条は上野支配を明確なものとし、氏直は氏政の弟・氏照、氏邦に信濃国侵略を命じ、諏訪頼忠と好を通じて佐久郡、小県郡へ乱入、小諸城に重臣・大導寺政繁を城主として置き、7月7日には諏訪高島城の諏訪勢との連合に成功します。また上田城の真田昌幸も北条に味方し、木曽義昌とも連絡をつけ、諏訪一帯に進出しました。 徳川家康もまた甲斐へ進出、7月3日乱入します。そして、8月徳川軍と北条軍は若神子で対陣、以後80日に及ぶ戦となりました。北条は氏政と氏直が中心となって、総大将氏直が出陣部隊の総指揮官、氏政の弟・氏照、氏邦、氏忠が方面軍団長、氏政が小田原を守り、前線への補給物資と兵員の確保を行っていました。しかし、両者の対陣は長引きます。そんな中、上田城の真田昌幸が10月に豊臣秀吉の誘いによって北条方から徳川方へ乗り換えます。80日に及ぶ戦いでしたが、これをきっかけに、両者の和睦が進み、10月27日和睦が成立しました。この和睦により翌11年、徳川家康の次女・督姫が氏直の妻となりました。 豊臣 小田原合戦 徳川家康と姻戚関係となった北条でしたが、中央では豊臣秀吉政権が成立しつつあり、豊臣秀吉は北条氏政・氏直が戦いを止め上洛しなければ成敗しようという動きとなっていました。しかし、北条は氏政、氏照、氏邦らの強行派と氏直、氏規らの上洛派に別れてしまい、氏直は徳川家康の娘である妻と、強行姿勢の父・氏政の間で苦しみます。そんな中、北条は由良氏、長尾氏、佐竹氏らとの戦いを続けます。そして、徳川家康から「氏規を上洛させ豊臣秀吉の臣下となるか、督姫と離縁して豊臣秀吉と対決するか」の二者択一を迫られ、氏直は強行姿勢の父・氏政らを退けて、氏規を上洛させることとしました。(氏規は氏政の弟で幼少期、今川に送られそこで徳川家康と隣同士だっため好があった)上洛した氏規は、上野沼田領が真田昌幸から北条氏領に帰属されれば氏政を上洛させ秀吉の臣下となることを一応の約束としました。その一方で、北条は氏政、氏照、氏邦らの強行派により、兵数を増やし、城の修理を進め、武器の大量生産など国力強化を進め、完璧な臨戦体制を整えていきました。そして、天正17年(1589年)10月上野沼田領に入っていた北条方・猪俣邦憲が真田領名胡桃城を攻めたことにより、豊臣秀吉は北条攻めを決定。11月24日豊臣秀吉は北条に宣戦布告します。北条方は、100カ所に及ぶ城々に兵を籠らせる籠城作戦に出ました。この籠城作戦、かつては上杉謙信や武田信玄にも破られることはなかったこともあり、北条は己の力を過信し、あげく豊臣勢の力を甘くみたまま、この大合戦にのぞむこととなります。天正18年(1590年)豊臣勢は、徳川家康、石田三成、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、九鬼嘉隆、長宗我部元親ら錚々たる武将を中心とした総勢20万を越す大軍で、わずか5万余の兵で籠城する北条勢を攻め始めました。 3月、北条の最前線である、山中城は松田康長、氏勝率いる玉縄衆が守っていましたが、羽柴秀次らの大軍によってわずか半日で崩れてしまいます。秀吉は小田原城を見下ろす山上に石垣山一夜城を築き、北条一族や家老衆が籠城する小田原城を完全包囲します。前田利家、上杉景勝、真田昌幸らは、松井田城を攻め、城将・大導寺政繁らが必死に防御。しかし安中城、国峰城、厩橋城をも攻められ、4月松井田城も開城、大導寺政繁は降伏してしまいました。壬生城、鹿沼城も攻められ、玉縄城も開城、北条氏勝が降伏します。江戸城、河越城、松山城も次々開城するに至ってしまいました。残った、岩付城も城主不在で落城し、鉢形城も前田利家、上杉景勝により攻められ、城主・氏邦は開城を余儀無くされ前田利家に下ります。6月氏照の八王子城も城主不在のまま前田利家、上杉景勝らに猛攻撃を受け激戦を繰り広げるもののわずか1日で落城してしまいました。これには、氏政、氏照らは深く落胆し、これ以上の戦いが困難であることを思い知らされてしまいます。残った韮山城を守っていた氏規は、韮山城を開城し、氏政らに降伏するよう話しをします。そして氏政ら北条のトップ達は、後に「小田原評定」などと評されてしまう、堂々回りのような話し合いの末に、天正18年(1590年)7月小田原城を開城し降伏したのでした。 終幕 長きに渡る激戦はついに終わります。氏直は己の切腹と引き換えに城兵の助命を願い出るが許されず、後に高野山へと追放されます。氏政、氏照、松田憲秀、大導寺政繁の4名はその責任により切腹を命じられました。そして、7月11日、氏政は弟・氏照とともに沐浴し辞世の句を「 我身今きゆとやいかにおもふへき 空より来り空に帰れば」「雨雲のおほへる月も胸の霧も はらいにけりな龝の夕風」とよんだのち、弟・氏規の介錯をうけて割腹しました。53歳でした。 こうして、100年に渡って続いた北条氏は実質的に滅んだのでした。氏政の墓は、弟・氏照とともに小田原にあります。また、早雲寺に、北条五代の墓が並んでいます。
[氏政の妻] [氏政の娘] [氏政の息子]