北条初代当主/伊勢新九郎盛時/早雲庵宗瑞 永享4年頃(1432年頃)〜永正16年(1519年)/享年88歳位 法名・早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門 北条早雲こと伊勢新九郎は、北条五代の祖ですが、彼が歴史の表舞台に登場してくるのは、50歳を過ぎた頃から。人生50年といわれた時代に晩年になって活躍した早雲。彼の登場によって戦国時代が始まり、北条の滅亡とともに戦国時代は終わりを告げます。 早雲の出自については、一介の素浪人だったなど多々説がありますが、「備中伊勢氏説」というのが最近の研究で明らかになっています。 備中伊勢氏の高越山城の城主伊勢盛定の子・新九郎盛時として永享4年頃(1432年頃)に生まれ、京へとのぼり京都伊勢氏の伊勢貞高の養子となってから寛正5年(1464年)8代将軍足利義政の弟・足利義規の近士となります。しかし、足利家の後継者争い(応仁の乱の引き金とも云える争い)により京にいられなくなった足利義規と早雲は共に、伊勢へと逃れます。その後、足利義規は京へと戻りますが、早雲はそのまま伊勢に残ります。そして、文明7年頃(1475年頃)早雲をはじめ、荒木兵庫・山中才四郎・多目権兵衛・荒川又次郎・大導寺太郎・在竹兵衛ら心通じる友人7人は、秋も深まる伊勢神宮に集まり、この七人のひとりが大名になったら他の六人はその家人となってその人を盛りたてよう、と神水を飲みかわして誓いをたてました。 (のちにこの約束は果たされることとなります) 今川家督争いを収める 文明8年(1476年)、駿河・今川義忠のもとに嫁いだ妹・北川殿に危機が訪れ、早雲は急遽、駿河へと向かいます。今川義忠が死に、その家督争いが起こったのです。 義忠の子、すなわち北川殿の生んだ龍王丸(のち氏親)は幼くまだ継がせられないとして、義忠の従兄弟・小鹿範満が政務をとるとし、家臣は二分して各地で紛争が続発します。この事態に乗じて伊豆の堀越公方足利政知は、上杉憲政を大将とする三百騎を、また範満と縁がある扇谷上杉氏は太田道灌を代官として同じく三百騎を派遣したため、事態は悪化。そこで、早雲が「龍王丸が元服するまでの間だけ、小鹿範満が家督を代行する」という折衷案を提示します。それが受け入れられ家督争いは収まったのです。そうして今川家の危機を救った早雲。普通ならこの功績により今川家の重臣に…となるところですが、早雲は、そのような事もなく、文明11年頃(1479年頃)京へと上ります。京で早雲は寺に入るなどして修行し、文明15年(1483年)には室町幕府の足利義尚の申次衆を務めます。 ところが、長享元年(1487年)またも妹・北川殿に危機がせまり、早雲は駿府へと向かいます。今川の家督は「龍王丸が元服するまでの間だけ小鹿範満が代行する」と言う事だったのに、龍王丸が元服し氏親となってからも、小鹿範満が家督を返そうとはしなかったのです。駿府へと下った早雲は龍王丸擁立派の軍勢と共に密かに石脇城へと入り、同年11月9日、駿府今川館の小鹿範満を急襲。結果、小鹿範満は討たれ、氏親が今川氏第7代の家督の座につきました。そして、その恩賞として早雲は駿河の駿東郡興国寺城と富士下方十二郷を与えられることとなり、興国寺城主・早雲が誕生したのです。 興国寺城主となった早雲は、実質的に甥・今川氏親の後見、補佐役といってもいい駿河守護代の地位へと就きました。 伊豆討ち入り そして、延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の乱れに乗じて、同年10月11日の夜、氏親の兵を借り堀越御所を急襲して、後継者茶々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めます。有名な「伊豆討ち入り」です。公方家中の乱れに乗じてとはいえ、伊豆は堀越公方の直轄地であり、代々山内上杉氏の守護領。その奪取はきわめて大胆で、今川氏配下の一客将の挙としては無謀ともいえます。しかし、この行動の軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいたようです。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。また、早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っています。農民撫育や諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れます。そして、これらのことは、早雲の戦略戦術面に重要な作用をもたらしていたと考えられます。早雲は戦略家、現実的政治家としても只者ではなかったようです。 小田原城略取 伊豆平定にある程度成功した早雲は、西相模・小田原城へと目を向けます。当時の小田原城主は山内上杉顕定の重臣大森氏頼であり、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固め準備を進めました。しかし、小田原城主・大森氏頼も手強くうまく行かずにいました。そして氏頼が死んだところであとを継いだ藤頼に接近し、手紙のやりとりや珍しい品物を贈ったりして藤頼を油断させます。そして、早雲は藤頼に「伊豆で鹿狩りをしていたら箱根山に逃げてしまった。伊豆に鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」と頼みます。何の疑いも持たない藤頼は「御自由に」と返事をしてしまいます。そうして、勢子に化けた早雲の一隊は明応4年(1495年)9月、小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪い取ってしまいました。 早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取りを成功させます。 今川とともに そうして、東を攻めつつ早雲は今川氏・今川氏親の意向に沿い、明応5年(1496年)7月には相模西部で山内上杉顕定と戦い、文亀1年(1501年)9月には甲斐吉田へと出陣、永正1年(1504年)9月27日には扇谷上杉朝良の援助のため武蔵立河原で再び山内上杉顕定と戦い、永正3年(1506年)同5年(1508年)と三河へと出陣しました。またこのころ(永正3年)には、検地を行っています。 上杉 そのころ、関東で争っていた山内上杉顕定と扇谷上杉朝良は「このまま対立していては、早雲にやられる」と気付き始め、永正7年(1510年)6月、早雲が扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を味方に寝返らせたところで、ついに、それまで早雲に好意的だった朝良も山内上杉顕定の養子・憲房と結び、同年7月19日早雲の城として取り立てられたばかりの権現山城へと襲いかかりました。はじめての山内・扇谷両上杉氏の大連合軍によって早雲は大敗を喫し、上杉の壁がいかに厚く高いかを思い知らされることとなりました。両上杉氏を直接相手にしたのでは勝ち目がないと判断した早雲は、永正8年(1511年)扇谷上杉氏と和睦しつつ、扇谷上杉氏の重臣で相模国最大の勢力を持つ三浦氏の討伐に的を絞ります。そして永正9年(1512年)8月、早雲の軍勢は三浦氏当主・義同(道寸)のいる岡崎城を急襲、三浦道寸は城を支えることが出来ずに住吉城へと逃れ新井城へと落ちのびます。そのまま新井城を攻め三浦氏にとどめをという家臣もあったけれど、三浦氏の実力を知っていた早雲は慎重にならざるを得ず、そこではそれ以上攻め入ることはありませんでした。 早雲の志し 岡崎城を落とした早雲は、鎌倉へ入ります。かつて鎌倉は、鎌倉時代には幕府が置かれ、室町時代には鎌倉府がおかれ、鎌倉公方がいて…と関東の政治の中心でした。そんな鎌倉を手に入れた早雲は都・鎌倉の再生を図ろうと考えていたのではないかと思われ「枯るる樹にまた花の木を植えそえて もとの都になしてこそみめ」と詠んでいます。後に早雲の子・氏綱が「北条」を名乗るのも、「関八州国家」の構想を抱いたのも、そういった想いからなのではと思われます。しかし、現実的には鎌倉は政治都市であって、城を築けるところでは無いので、早雲は三浦半島を押さえるため玉縄城を築き、新井城を攻略。永正10年(1513年)1月29日、新井城(三浦氏)を攻め、4月には三浦方の三崎城を攻め、9月29日には三浦方の太田資康(太田道灌の子)を打ち取り、そして永正13年(1516年)7月ついに新井城を落とし、三浦同寸・義意父子は自刃しました。 早雲から氏綱へ そして永正15年(1518年)には、家督を子・氏綱に譲ります。その前後より「虎印判状」が登場、虎をかたどった印を使い始めます。かつて早雲は三嶋大明神に深く帰依しており、そんな折り縁起の良い夢を見たといいます。「野原に2本の大きな杉が立っており、そこに1匹の小さな鼠(ねずみ)が現れ、その杉の根をかじり始めた。すると2本の杉は倒れ、鼠(ねずみ)が虎になった」…という夢です。その夢を早雲は、2本の杉を山内・扇谷両上杉氏、鼠(ねずみ)を子(ね)年生まれの自分と解釈し、虎となって山内・扇谷両上杉氏と戦う事を自分の使命と受け取ったのです。子(ね)年生まれの自分と虎になった鼠(ねずみ)を重ね合わせ、虎をかたどった印を使ったのではないかと思います。きっとそんな話しを、子・氏綱にしながら家督を譲り、彼に想いを託したのではないでしょうか。印に彫られた文字は「禄寿応隠」。「人民よ皆平和に暮らそう」という意味です。 家督を譲った翌年、永正16年(1519年)8月15日、安心したのか早雲は、韮山城で亡くなりました。88歳という当時としてはかなりの大往生でした。箱根の早雲寺にお墓があります。法名・早雲寺殿天岳宗瑞大禅定門。
[早雲の妻] [早雲の娘] [早雲の息子]