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玉縄北条氏

系図条氏綱
氏綱については「こちら

条為昌
北条彦九郎為昌/氏綱の次男/二代目相州玉縄城主
永天17年(1520)〜天文11年(1542)
享録4年(1531年)北条早雲の子氏時が亡くなったため、わずか12歳で相模玉縄城に入城、重臣大道寺盛昌の後見を受けました。また河越城将にもなりました。そして 綱成を養子として迎えますが天文11年(1542年)5月3日、23歳の若さで亡くなりました。

条綱成
北条上総守綱成/福島正成の子/幼名・勝千代/三代相州玉縄城主
永正12年(1515年)〜天正15年(1587年)
永正13年(1516年)に今川家の宿老で遠江土方城主の福島正成の子として生まれました。しかし大栄元年(1521 年)12月、父・正成が甲州上条河原で武田方原友胤に討たれ小田原に逃れます。そして、氏綱の援助をにより養育され側近となりました。氏綱の子為昌の後見人を任を務め玉縄城主となります。氏綱や氏康などから信頼されていた綱成は氏綱の娘・大頂院と結婚して一族の仲間入りを果たしました。しかし氏康が病で没すると出家し、家督を嫡男氏繁に譲り、天正15年(1587年)に亡くなりました。また綱成は八幡大菩薩を厚く信仰し、旗印に朽葉色に染めた四半の練絹に、「八幡」の墨書きしたものを用い“地黄八幡”と呼ばれました。

条氏繁
北条常陸介氏繁/北条綱成の長男/幼名・善九郎/四代目相州玉縄城主
天文5年(1536年)〜天正6年(1578年)
天文5年(1536年)綱成の嫡男として生まれました。氏康により玉縄城代となりますが、永禄10年(1568年)岩槻城主太田氏資が亡くなると、それも継ぎました。しかし天正6年(1578年)6月13日、43歳の若さで下総飯沼城で病死しました。

条氏舜
北条左衛門大夫氏舜/北条氏繁の長男/五代目相州玉縄城主
氏繁の長男として生まれ、父・氏繁の死後、玉縄北条家の家督を継ぎました。氏舜は天正8年(1580年)頃までは岩付城代でしたが、氏政の四男・氏房が岩付城主になると、彼は正式に玉縄城主となりました。

条氏勝
北条左衛門大夫氏勝/北条氏繁の次男/永禄2年(1559年)〜慶長16年(1611年)
氏繁の次男として生まれますが、兄・氏舜の死後、天正10年(1582年)頃までに玉縄北条家を継承しました。天正18年(1590年)秀吉の北条攻めの時には、伊豆山中城に籠城するのものの城は半日で落とされ、城を脱し玉縄城へと戻りますが、4月21日降伏しました。北条滅亡後は徳川家康に仕え、下総岩富に1万石の領地を与えられ江戸時代の岩富藩の基礎を築いきました。そして慶長16年(1611年)に亡くなりました。


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