北条相模守氏康/北条三代目当主/幼名・新九郎 永正12年〜元亀2年(1515年〜1571年)/享年58歳 法名・大聖寺殿東陽宗岱大居士 氏康は永正12年(1515年)に氏綱の長男として生まれました。氏康の評価は一貫して高く、「小田原記」に「文武を兼ねそなえた名将」と描かれるなど、文武両道に秀でた名将と謳われ、上杉謙信や武田信玄と肩を並べ「関東の三雄」と云われました。16歳の初陣以来一度も敵に後ろを見せず、身体に7カ所、顔に2カ所ものキズがあったといわれています。しかし家来や民を大切にするのは将の務めであるとし、人民を慈しむ慈悲深い人でもありました。民政家と軍略家の両方を持ち合わせた人物だったようです。 初陣勝利 享禄3年(1530年)6月12日、氏康16歳の時、初陣を勝利で飾りました。氏康率いる北条軍は河越城を進発して府中へ出陣した扇谷上杉朝興と多摩川河原の小沢原で激突、氏康は父の期待に応えるかのように勝利しました。その後も、父とともに北条の拡大を図っていきます。 今川家瑞渓院と結婚 天文4年(1535年)氏康は駿河の今川氏親の娘・瑞渓院を妻に迎えます。今川は早雲時代からの主従にありましたが関係を保つために政略結婚として結ばれました。しかし、夫婦の仲は良かったとみられます。この後今川との関係は悪化しますが二人の関係はうまくいき立て続けに子をもうけ12人ほどを生んでいます。子供を養子や結婚というかたちで他武将との関係を築いていったり、また子供同士の争いが無かったのは、彼女の功績と云えるでしょう。 氏綱から氏康へ 父・氏綱は徐々に政務を氏康に任せ、次期国主として育てていきました。 そして、氏綱は天文10年(1541年)5月21日、「北条氏綱公御書置」と題する政治のノウハウを記した遺言状を氏康に残して、7月17日に亡くなりました。氏康は27歳で北条の家督を継ぎ、3代目当主となりました。 氏綱の死が関東各地に伝えられると、すぐに扇谷上杉朝政が河越城を北条から奪い返そうと動きだしました。天文10年(1541年)10月ころから上杉軍と北条軍が激突、その後、関東管領山内上杉憲政も北条と敵対、安房の里見氏も敵対、天文13年(1544年)9月安房で激突しました。氏康は古河公方足利晴氏の出方を重視し関係を保させることを図ります。しかし山内上杉憲政は今川氏が北条氏と敵対しているのを見て今川義元と手を組み、天文14年(1545年)8月今川義元と北条氏康が激突しました。この時、甲斐武田信玄が今川義元を助けます。また山内上杉憲政は扇谷上杉朝政とも手を結び、河越城を囲みます。 そして、この状況を見た古河公方足利晴氏は北条から離れ、山内上杉憲政と結び河越城攻撃に加わりました。 敵を増やした北条氏康でしたが、この事態を収めるため甲斐武田信玄が動きました。武田信玄は北条氏康、山内上杉憲政、今川義元の中立をとって講和をはかります。これによりこの事態は収まりましたが、氏康は富士川以東の駿河の領地を今川氏に返すこととなりました。この時の北条氏康、今川義元、武田信玄の関係が後の甲相駿三国同盟の伏線となりました。 河越夜戦 そして天文15年(1546年)4月、氏康は河越城を守る義弟・北条綱繁と共にわずか8千の軍勢で、8万ともいわれる山内上杉憲政、扇谷上杉朝政、古河公方足利晴氏の連合軍を撃ち破りました。これが「河越夜戦」です。上杉朝政は討ち死に、上杉憲政は上野平井城に逃れ、足利晴氏は古河に戻りました。この戦いの勝利によって氏康の武蔵支配は決定的なものになりました。 同盟 これを期に、天文15年(1546年)12月松山城の上田朝直が北条に下り、滝山城の大石定久、天神山の藤田邦房も北条に下りました。大石氏には三男・氏照が養子となり、藤田氏には四男・氏邦が婿養子となります。同16年(1547年)1月18日には、岩付城の太田資正も北条に下ることとなり、資正の子・氏資に娘・長林院を嫁がせました。また天文16年(1547年)7月には、下総相馬に軍勢を派遣、同19年(1550年)には税制を改革し、同20年(1551年)北武蔵に出陣し簗田晴助と盟約、同21年(1552年)御嶽城を攻略し、上野平井城を攻略、山内上杉憲政を越後へと追いやりました。天文23年(1554年)2月、氏康は今川義元が留守なのを狙って、今川氏の領国駿河へ攻め込みました。今川氏と同盟関係にあった甲斐武田信玄はこれを見て富士川に出陣して今川方を助けます。北条軍との戦いの舞台は整ったのです。しかしこの時、今川氏から軍師であり臨済寺住職の太原崇孚(雪斎)と建乗が講和をすすめたのです。すでに、武田と今川(甲駿同盟)、武田と北条(甲相同盟)が成されていたので、今川と北条を結び三国同盟を成そうとしたのです。武田信玄、今川義元、北条氏康の三者は善徳寺に集まり、武田信玄の娘・黄梅院を氏康の子・氏政に、氏康の娘・早河殿を今川義元の子・氏真に嫁がせることで「甲相駿三国同盟」を結びました。 安房、房総 その頃、氏康は義弟・北条綱成らに安房の里見義尭の久留里城を攻めさせるものの攻略できず、弘治2年(1556年)3月には相模に進出してきた里見義弘と激突するも敗北をきしてしまいました。 また弘治2年(1556年)4月には結城政勝の援助のため常陸に出陣し、小田政治を破り、同年5月には海老ヶ嶋で小田方を破りました。永禄元年(1558年)6月には房総に軍勢を遣わします。 氏康から氏政へ そして永禄2年(1559年)氏康は領国の税の実態などを整理し家臣団の基本台帳となる「小田原衆所領役帳」をまとめ、同年12月23日45歳の時に、22歳の嫡男・氏政に家督を譲りました。しかし、氏康は「御本城様」と呼ばれ、実際には若き当主・氏政の後見として辣腕をふるいました。 上杉 この頃、越後の長尾景虎(上杉謙信)が動き出します。山内上杉憲政から関東管領職を譲られることを条件に関東に進出したのです。上杉憲政、里見義尭、佐竹義昭らかの要請を受けて永禄3年(1560年)9月には岩下、沼田城などを攻撃、これに対し氏康は河越城を出て同年10月には松山城に入ります。翌年(1561年)小田原城下に入った長尾景虎(上杉謙信)に対して、北条方は籠城作戦に出、長尾景虎(上杉謙信)は苦戦します。そんな中、長尾景虎(上杉謙信)は鶴岡八幡宮で山内上杉憲政から「関東管領」と「上杉」の名を継ぐ拝賀式を行い、上杉政虎を名乗ります。「関東管領」就任という事実を北条方にアピールしたのです。しかしその後、北条の籠城作戦に負け撤退しました。 永禄5年(1563年)11月、武田信玄と呼応した氏康は上野・武蔵の上杉方の城を攻め松山城を包囲、翌年2月落城させました。 国府台合戦 永禄7年(1564年)「第二次国府台合戦」が勃発。氏康は嫡男・氏政とともに2万余の兵を率いて、上杉政虎(上杉謙信)と連合する安房・上総の里見義尭・義弘と下総国府台で対陣します。正月7日の戦いでは里見方が力戦し北条方は有力武将を失ってしまいました。7日後、大勝に気を良くし油断する里見方を狙って、氏康は北条綱成の献策により兵を東西に二分し猛攻を加えます。不意をつかれた里見方は総崩れとなり、北条が勝利しました。 この国府台合戦で、江戸衆・太田康資らが反北条の動きを見せたため、太田康資を追放し江戸衆の再編を行いました。永禄7年(1564年)7月には岩付城の太田資正・氏資を攻撃。10月には上総土気城主・酒井胤治が北条に従い、上総をほぼ制圧するにいたります。 上杉 一方、将軍・足利義輝は北条氏と上杉氏の和睦を進めていましたが、永禄8年(1565年)5月に戦死、弟があとを継ぎ同じく両者の和睦を進めます。しかし、両者は応じず、上杉謙信は北条と武田を滅ぼし関東・信濃を平定することを神に誓っています。永禄9年(1566年)2月上杉謙信は関東に出兵、佐野城に入りますが、9月に上野金山城の由良成繁・国繁が上杉にそむいて北条方に内通、また武田方の動きに呼応した北条方は優位にたちました。永禄10年(1567年)2月には佐野城の佐野昌綱も北条に従い、4月には厩橋城の北条(きたじょう)高広、下総の簗田晴助・持助が相次いで北条に内通しました。 甲相同盟破棄 永禄10年(1567年)8月、北条と同盟関係にあった武田氏内部に武田信玄の長男・義信の謀反事件が起こり義信は10月自害しました。この事件により、義信が今川氏真の妹を妻としていたことから、今川と武田の甲駿同盟が破れました。この事件に対し北条はすぐには動きませんでしたが、翌年動くこととなります。 永禄10年(1567年)9月、里見義弘が上総三船台城を攻め、援助に向かった岩付城の太田氏資らが戦死してしまいました。しかし、それでも北条の上総支配はゆるがず、岩付城には氏政の子・氏房を養子として置きました。 そして永禄11年(1568年)甲斐武田信玄は駿河今川の侵攻を始めます。今川氏真は氏康の娘・早河殿を妻に迎えているため氏康に援助を求めました。12月北条は援軍を送りますが、今川氏真は懸川城に逃れ氏康の娘・早河殿も徒歩で敗走することとなります。これに対し氏康は、氏政の妻となっていた武田信玄の娘・黄梅院を甲斐へと送り返し、武田信玄との甲相同盟を破棄しました。北条方の援助は間に合わず永禄12年(1569年)武田と北条・今川は対峙を続け長期戦の様相を呈してきました。そこで氏康は越後上杉謙信との和睦交渉を始め、今川氏真も上杉謙信に援助を求めました。4月武田信玄は甲府に撤退します。北条はこれを追撃、局地的ではあるけれど勝利をおさめました。その後、氏政は長男・氏直を今川氏真の養子とし、今川を継承しました。また、5月3日上杉謙信との越相同盟が成立し、上杉謙信は甲斐へ出兵することを約束しました。6月9日には氏康・氏政と誓詞を交換し、氏政の次男・国増丸を上杉謙信の養子とすることを決めました。(しかし実際には氏康の八男・三郎が養子となります) 甲府へ戻った武田信玄でしたが6月駿河の東の城を攻め、帰路で富士大宮城を攻めます。8月24日には上野に入り、9月10日には武蔵鉢形城、滝山城そして10月には小田原城を包囲します。しかし北条方は籠城作戦に出、長期戦は不利と考えた武田信玄は帰陣しました。帰陣した武田軍と追撃した北条軍は三増峠で戦いますが、作戦勝ちした武田信玄が北条に大打撃を与えました。その後、武田信玄は11月に再び駿河に向かい、12月6日には北条綱成守る蒲原城を落とします。12月北条は小田原を出陣しますが目立った動きはありませんでした。 越相同盟 翌元亀元年(1570年)越相同盟が本格化し、3月5日上杉謙信から氏康・氏政に書状が届き、八男・三郎を迎えることを盟約し、4月には沼田で上杉謙信と八男・三郎が対面しそのまま越後へと赴きました。 武田 その後元亀元年(1570年)5月以降も武田信玄の攻撃は続き、伊豆の韮山城や駿河の興国寺城などを攻めますが護りが固く武田信玄は伊豆攻略を断念、北武蔵や秩父などへ進撃しました。10月に入ってようやく上杉謙信が援軍を送りこれにより武田信玄は兵を引きます。武田信玄は下総関宿城の簗田氏や安房の里見氏などに北条を攻めることを働きかけ、暮れには深沢城、興国寺城を攻め、深沢城は翌2年に武田の手に堕ちました。しかし2月に入ると武田方は徳川家康との対戦が激化しはじめ北条との対戦は小康状態となりました。 氏康死す 元亀元年(1570年)頃から氏康は病にふせり、「越相同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶように」という遺言を残して、元亀2年(1571年)10月3日、53歳で病死しました。法名(戒名)・大聖寺殿東陽宗岱大居士。 氏康殿の人となり 文武両道に秀でた名将と謳われ、16歳の初陣以来一度も敵に後ろを見せず、身体に7カ所、顔に2カ所ものキズがあったといわれ、家来や民を大切にするのは将の務めであるとし、人民を慈しむ慈悲深い人でもあり、民政家と軍略家の両方を持ち合わせた人物だったようです。 ある時、氏康は嫡男・氏政に「今何が楽しみか」と尋ねます。すると、氏政は「家来を選び、その能力によって使い分けること」と答えます。それに対し氏康は「それも良いが、将が家来を選ぶのは当たり前のことであり、常日頃から部下を愛し民を慈しまなくては彼らは他国の良い主人を求める。だから、家来や民を大切にするのは将の務めであり、下の者の功労をおざなりにしてはならない」と説きました。氏康が誠実な人柄で、父と祖父の教えを良く踏襲していたといえます。 氏康が永禄11年(1568年)に八男の三朗(後の上杉景虎)に送った手紙が残っています。酒を呑んで自暴自棄になって暴れる息子にあてた手紙です。氏康の親心と酒の呑み方が書かれています。ここにも、氏康のひととなりがよく現れています。この手紙については「こちら」へ。
[氏康の妻] [氏康の娘] [氏康の息子]