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 戦国北条氏のすべて >> 歴史(五代100年の歴史について)


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永享4年(1432年)頃 早雲(伊勢新九郎盛時)生まれる
早雲は、備中伊勢氏の高越山城の城主伊勢盛定の子・新九郎盛時として生まれ、京へとのぼり京都伊勢氏の伊勢貞高の養子となりました
寛正5年(1464年) 早雲、8代将軍足利義政の弟・足利義規の近仕となる
足利家の後継者争い(応仁の乱の引き金とも云える争い)により京にいられなくなった足利義規と早雲は共に、伊勢へと逃れます。その後、足利義規は京へと戻りますが、早雲はそのまま伊勢に残りました。
文明7年(1475年)頃 ★早雲と6人の仲間たちの約束
早雲をはじめ、荒木兵庫・山中才四郎・多目権兵衛・荒川又次郎・大導寺太郎・在竹兵衛ら心通じる友人7人は、秋も深まる伊勢神宮に集まり、この七人のひとりが大名になったら他の六人はその家人となってその人を盛りたてよう、と神水を飲みかわして誓いをたてました。
文明8年(1476年)頃 甥・龍王丸(氏親)と小鹿範満の今川氏の家督争いを治める
駿河・今川義忠のもとに嫁いだ早雲の妹・北川殿に危機が訪れ、早雲は急遽、駿河へと向かいます。今川義忠が死に、その家督争いが起こったのです。 義忠の子、すなわち北川殿の生んだ龍王丸(のち氏親)は幼くまだ継がせられないとして、義忠の従兄弟・小鹿範満が政務をとるとし、家臣は二分して各地で紛争が続発します。この事態に乗じて伊豆の堀越公方足利政知は、上杉憲政を大将とする三百騎を、また範満と縁がある扇谷上杉氏は太田道灌を代官として同じく三百騎を派遣したため、事態は悪化。そこで、早雲が「龍王丸が元服するまでの間だけ、小鹿範満が家督を代行する」という折衷案を提示します。それが受け入れられ家督争いは収まりました。
文明15年(1483年) 早雲、室町幕府の申次衆となる
早雲は京へと上り寺に入るなどして修行した後、室町幕府の足利義尚の申次衆を務めました。
長享元年(1487年) 11月9日 小鹿範満を討ち、今川氏の家督を氏親に継ぐ
妹・北川殿にまたも危機がせまり、早雲は駿府へと向かいます。今川の家督は「龍王丸が元服するまでの間だけ小鹿範満が代行する」と言う事だったのに、龍王丸が元服し氏親となってからも、小鹿範満が家督を返そうとはしなかったため、駿府へと下った早雲は龍王丸擁立派の軍勢と共に密かに石脇城へと入り、駿府今川館の小鹿範満を急襲。結果、小鹿範満は討たれ、氏親が今川氏第7代の家督の座につきました。
●早雲、興国寺城主となる
その恩賞として早雲は駿河の駿東郡興国寺城と富士下方十二郷を与えられることとなり、興国寺城主・早雲が誕生。 興国寺城主となった早雲は、実質的に甥・今川氏親の後見、補佐役といってもいい駿河守護代の地位へと就きました。
早雲の嫡男・氏綱生まれる

延徳3年(1491年)

伊豆討ち入り

10月11日 ●伊豆討ち入り
堀越公方足利政知の死にともなう公方家中の乱れに乗じて、、氏親の兵を借り堀越御所を急襲して、後継者茶多々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めました。この無謀ともいる戦いは、行動の軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいました。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。
また、早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵情偵察なども行っています。農民撫育や諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れました。
明応4年(1495年) 8月 甲斐に討ち入り武田信縄と和睦
小田原 9月 ●小田原城略奪、大森藤頼を倒す
伊豆平定にある程度成功した早雲は、西相模・小田原城へと目を向けます。当時の小田原城主は山内上杉顕定の重臣大森氏頼であり、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固め準備を進めました。しかし、小田原城主・大森氏頼も手強くうまく行かずにいました。そして氏頼が死んだところであとを継いだ藤頼に接近し、手紙のやりとりや珍しい品物を贈ったりして藤頼を油断させます。そして、早雲は藤頼に「伊豆で鹿狩りをしていたら箱根山に逃げてしまった。伊豆に鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」と頼みます。何の疑いも持たない藤頼は「御自由に」と返事をしてしまいます。そうして、勢子に化けた早雲の一隊は小田原城・大森藤頼に夜襲をかけ、城と城付の領地を奪い取ってしまいました。 早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取りを成功させました。
明応5年(1496年) 7月 相模西部で山内上杉顕定と戦う
文亀1年(1501年) 9月 甲斐吉田へと出陣
永正1年(1504年) 9月27日 扇谷上杉朝良の援助の為山内上杉顕定と戦う
永正3年(1506年) 8月 今川氏親の要請で三河に出陣、今橋城を落とす
足柄下郡に検地を行う
永正5年(1508年) 三河へと出陣
永正7年(1510年) 6月 山内・扇谷両上杉氏により武蔵権現山城落ちる
関東で争っていた山内上杉顕定と扇谷上杉朝良は「このまま対立していては、早雲にやられる」と気付き始め、、早雲が扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を味方に寝返らせたところで、ついに、それまで早雲に好意的だった朝良も山内上杉顕定の養子・憲房と結び、同年7月19日早雲の城として取り立てられたばかりの権現山城へと襲いかかりました。はじめての山内・扇谷両上杉氏の大連合軍によって早雲は大敗を喫し、上杉の壁がいかに厚く高いかを思い知らされることとなりました。
永正8年(1511年) 扇谷上杉朝良と和睦
両上杉氏を直接相手にしたのでは勝ち目がないと判断した早雲は、扇谷上杉氏と和睦しつつ、扇谷上杉氏の重臣で相模国最大の勢力を持つ三浦氏の討伐に的を絞りました。
永正9年(1512年) 8月 三浦道寸の岡崎城を落とす
早雲の軍勢は三浦氏当主・義同(道寸)のいる岡崎城を急襲、三浦道寸は城を支えることが出来ずに住吉城へと逃れ新井城へと落ちのびます。そのまま新井城を攻め三浦氏にとどめをという家臣もあったけれど、三浦氏の実力を知っていた早雲は慎重にならざるを得ず、そこではそれ以上攻め入ることはありませんでした。
永正10年(1513年) 1月29日 新井城(三浦氏)を攻める
岡崎城を落とした早雲は、鎌倉へ入ります。関東の政治の中心であった鎌倉を手に入れた早雲は都・鎌倉の再生を図ろうと考えていたのではないかと思われ「関八州国家」の構想を抱いたようです。しかし、現実的には鎌倉は政治都市であって、城を築けるところでは無いので、早雲は三浦半島を押さえるため玉縄城を築き、新井城を攻略。新井城(三浦氏)を攻めました。
4月 三浦方の三崎城を攻める
9月29日 三浦方の太田資康を打ち取る
永正12年(1515年) 氏綱の嫡男・氏康が生まれる
永正13年(1516年) 7月 新井城を落とす 三浦同寸・義意父子は自刃しました。
永正15年(1518年) 早雲 家督を子・氏綱に譲る
★「虎印判状」が登場する
早雲から子・氏綱に家督が譲られたその前後より「虎印判状」が登場、虎をかたどった印を使い始めました。
以後この印は80年にわたり代々当主よって使われます。
印に彫られた文字は「禄寿応隠」。「人民よ皆平和に暮らそう」という意味で北条氏の村々の農民支配のために用意された印章。
永正16年(1519年) 8月15日 早雲 韮山城で亡くなる
父・早雲より家督を譲られ当主となった氏綱は盛大な葬儀を執り行って菩提寺として箱根湯本に早雲寺を建立しました。それから、「代替わり検地」と呼ばれる当主交代時の検地を鎌倉周辺で行い、村々の支配を強化、上杉氏との対決の準備を父に続いて進めていきます。

大永2年(1522年) 氏綱 古河公方足利高基と同盟
関東管領上杉氏に関係する古河公方足利高基の子・晴氏に娘・芳春院を嫁がせる約束をして同盟、上杉方を翻弄
大永4年(1524年) 江戸城扇谷上杉朝興の家老・太田資高を北条方に寝返らせる
氏綱 上杉朝興を江戸城に攻め込む
1月11日、氏綱は大軍をもって多摩川を越え品川妙国寺に制礼をかかげ、同13日、上杉朝興との決戦が始まりました。そして4月13日には北条方の先鋒・多米六郎が高縄の原で激突、第2陣・大導寺八郎兵衛が東西から攻め、結果上杉勢は総崩れとなり江戸城に退却、立て籠ります。すかさず北条勢は太田資高の誘導のもとに江戸城へと攻め入ります。上杉朝興は板橋城へと逃れますが板橋城も北条の手がおよび、河越城へと敗走しました。
ここに、初めて北条氏の勢力が多摩川を越え武蔵南部へと進出したこととなりました。関東を制する重要なステップとなる江戸城を固め富永四郎左衛門政直・遠山四郎兵衛直景・太田資高・康資を城代とし、ついで小机城を修復し弟・長綱(幻庵)を城主に、笠原信為を城代としました。そうして、小田原城を中心とした同心円的な支城網を完成させました。
この頃、氏綱は「伊勢」性から「北条」性へと改性します。早雲時代より鎌倉北条氏にあやかろうとしており、氏綱が実際に名乗ったと云うことになります。しかし、その狙いは単なる憧れだけではなく、当時関東管領であった上杉氏に対して、鎌倉時代執権(関東管領)で関東を統治していた北条の名を名乗ることで関東統治を自分達が成すべきことだと正当化づけたものだと考えられます。ちなみに、早雲もしくは氏綱が鎌倉北条氏の末孫の娘と結婚して名実ともに改性したとも云われますが定かではありません。
大永5年(1525年) 2月上旬 対扇谷上杉朝興 岩付城合戦
3月上旬 対扇谷上杉朝興 菖蒲城合戦
3月中旬 対扇谷上杉朝興 葛西城合戦
8月 対扇谷上杉朝興 白子原合戦
大永6年(1526年) 6月 上杉朝興の軍が北条方蕨城を攻める
9月 上杉朝興の軍が北条方小沢城を攻める
11月 上杉朝興の軍が北条方玉縄城を攻める
12月 房総の里見実尭が鎌倉に火を放つ
鶴岡八幡宮の再建
里見氏によって焼失した鶴岡八幡宮の再建を始めます。鶴岡八幡宮は鎌倉幕府の創立者である源頼朝が創建し、以後執権北条氏の保護をうけた神社であるため、氏綱もまたこの再建に力を注ぎました。
享禄2年(1530年) 正月6日 氏綱 房総半島で里見実尭を久留里城に攻める
6月12日 氏康 上杉朝興と多摩川河原の小沢原で激突
享禄4年(1532年) 上杉朝興 岩付城を太田資頼により奪回
天文2年(1533年) 上杉朝興 相模に攻め込む
天文4年(1535年) 8月 氏綱 上杉朝興と同盟した甲斐・武田信虎を攻める
北条はずっと駿河今川氏と主従関係にあり、その今川氏親が武田信虎と敵対しており、北条もまた上杉朝興と同盟している武田信虎と敵対していました。今川氏親が亡くなった頃には、氏親の娘・瑞渓院を子・氏康の妻に迎えます。
8月13日 氏綱 河越城にを攻め込む
甲斐に出陣した氏綱でしたが留守中に上杉朝興が相模に侵入、急拠小田原に戻った氏綱は、相武豆と上総と下総の軍勢をともなって河越城に攻め込みました
天文6年(1537年) 4月27日 上杉朝興は河越城で没した
上杉朝興は河越城で没しわずか13歳の朝定が跡を継ぎました。
7月11日 氏綱 河越城を攻め河越城を手中に入れる
再び河越城を攻め河越城を手中に入れ、松山城へと敗走した上杉方を追って18日松山城を攻め込みます。そうして、氏綱はついに扇谷上杉氏の本拠・河越城を手に入れ関東管領職をも手に入れたこととなりました。河越城主には次男・為昌を入れ守らせました。
天文6年(1537年) 5月 上総の武田信隆と弟・信応との間で家督争いが勃発
上総の武田信隆と腹違いの弟・信応との間で家督争いが勃発、信応は真里谷城に処って小弓御所の足利義明と手を結び、信隆は峰上城、百首城に処って北条に支援を求めました。
5月14日 小弓城を出た足利義明は峰上城を攻める
北条方であった里見義尭は急変して足利方となり、北条vs足利・里見連合軍という状況となりました。氏綱は峰上城に援軍を送るものの足利方に攻略され、信隆は武蔵国金沢へと逃げます。
氏綱 峰上城に援軍を送る
甲駿同盟
今川の家督を義元がに継ぐと、武田信虎と今川義元との甲駿同盟が成立します。ここに北条は、今川と断交、上杉朝興・武田信虎そして今川義元と敵対することとなりました。
天文7年(1538年) 10月 氏綱 下総国府台に出陣し、足利義明・里見義尭に勝利
氏綱は下総国府台に出陣し、足利義明・里見義尭と激突、北条方は山中修理亮の活躍などにより勝利し、足利義明は討ち死にし、里見義尭は安房方面へと敗走しました。ここに氏綱は下総一帯を支配下に組み入れることに成功したのでした。
氏康の嫡男・氏政が生まれる
天文10年(1541年) 7月17日 氏綱 55歳で病没
氏綱は5月21日に「北条氏綱公御書置」と題する当主としてのノウハウを記した遺言状を氏康に残して、55歳で病没しました。
氏康は27歳で北条の家督を継ぎ、3代目当主となりました。当主となった氏康は「代替わり検地」を相模中央部、武蔵東南部、伊豆の一部にわたり大規模に行っていました。
10月ころ 上杉軍と北条軍が激突
氏綱の死が関東各地に伝えられると、すぐに扇谷上杉朝政が河越城を北条から奪い返そうと動きだしました。10月ころから上杉軍と北条軍が激突

天文13年(1544年) 9月 氏康 安房で里見氏と激突
関東管領山内上杉憲政も北条と敵対、安房の里見氏も敵対、安房で激突しました。氏康は古河公方足利晴氏の出方を重視し関係を保させることを図りました。
天文14年(1545年) 8月 氏康 今川義元と激突
山内上杉憲政は今川氏が北条氏と敵対しているのを見て今川義元と手を組み、今川義元と北条氏康が激突しました。この時、甲斐武田信玄が今川義元を助けました。
山内上杉憲政 扇谷上杉朝政 古河公方足利晴氏 河越城攻撃
武田信玄 北条氏康、山内上杉憲政、今川義元の講和をはかる
敵を増やした北条氏康でしたが、この事態を収めるため甲斐武田信玄が動きます。武田信玄は北条氏康、山内上杉憲政、今川義元の中立をとって講和をはかったのです。これにより今川までも敵にまわすという事は逃れましたが、氏康は富士川以東の駿河の領地を今川氏に返すこととなりました。この時の北条氏康、今川義元、武田信玄の関係が後の甲相駿三国同盟の伏線となりました。
天文15年(1546年) 4月 ●河越夜戦
川越 氏康は河越城を守る義弟・北条綱成と共にわずか8千の軍勢で、8万ともいわれる山内上杉憲政、扇谷上杉朝政、古河公方足利晴氏の連合軍を撃ち破りました。上杉朝政は討ち死に、上杉憲政は上野平井城に逃れ、足利晴氏は古河に戻りました。この戦いの勝利によって氏康の武蔵支配は決定的なものになりました。
12月 松山城の上田朝直、滝山城の大石定久、
天神山の藤田邦房が北条に下る

大石氏には三男・氏照が養子となり、藤田氏には四男・氏邦が婿養子となりました。
天文16年(1547年) 7月 氏康 下総相馬に軍勢を派遣
1月18日 岩付城の太田資正も北条に下る
岩付城の太田資正も北条に下ることとなり、資正の子・氏資に娘・長林院を嫁がせました。
天文19年(1550年) 氏康 税制を改革
天文20年(1551年) 氏康 北武蔵に出陣し簗田晴助と盟約
天文21年(1552年) 御嶽城を攻略、上野平井城を攻略、山内上杉憲政を越後へと追いやる
天文23年(1554年) 2月 氏康 今川氏の領国駿河へ攻め込む
氏康は今川義元が留守なのを狙って、今川氏の領国駿河へ攻め込みました。今川氏と同盟関係にあった甲斐武田信玄はこれを見て富士川に出陣して今川方を助けます。北条軍との戦いの舞台は整ったのです。
●武田信玄と北条氏康と今川義元の甲相駿三国同盟が成立
しかしこの時、今川氏から軍師であり臨済寺住職の太原崇孚(雪斎)と建乗が講和をすすめたのです。すでに、武田と今川(甲駿同盟)、武田と北条(甲相同盟)が成されていたので、今川と北条を結び三国同盟を成そうとしたのです。武田信玄、今川義元、北条氏康の三者は善徳寺に集まり、武田信玄の娘・黄梅院を氏康の子・氏政に、氏康の娘・早河殿を今川義元の子・氏真に嫁がせることで「甲相駿三国同盟」を結びました。
氏康 古河公方足利晴氏を破る
古河公方足利晴氏を破り、義弟・北条綱成らに安房の里見義尭の久留里城を攻めさせるものの攻略できませんでした。
弘治2年(1556年) 3月 氏康 相模に進出してきた里見義弘と激突するも敗北
氏康 結城政勝の援助で常陸に出陣、海老ヶ嶋で小田方を破る
永禄元年(1558年) 6月 氏康 房総に軍勢を遣わす
永禄2年(1559年) 氏康 小田原衆所領役帳をまとめる
氏康は領国の税の実態などを整理し家臣団の基本台帳となる「小田原衆所領役帳」をまとめました。
12月23日 氏康 嫡男・氏政に家督を譲る
45歳の氏康は、22歳の嫡男・氏政に家督を譲りました。しかし、氏康は「御本城様」と呼ばれ、実際には若き当主・氏政の後見として辣腕をふるいました。
永禄3年(1560年) 9月 越後上杉謙信が岩下、沼田城などを攻撃
越後の長尾景虎(上杉謙信)が動き出します。山内上杉憲政から関東管領職を譲られることを条件に関東に進出したのです。上杉憲政、里見義尭、佐竹義昭らからの要請を受けて、岩下、沼田城などを攻撃、
10月 氏康 松山城に入る
永禄4年(1561年) 小田原城下に入った上杉謙信に対して、北条方は籠城作戦に出る
小田原城下に入った長尾景虎(上杉謙信)に対して、北条方は籠城作戦に出、長尾景虎(上杉謙信)は苦戦します。
そんな中、長尾景虎(上杉謙信)は鶴岡八幡宮で山内上杉憲政から「関東管領」と「上杉」の名を継ぐ拝賀式を行い、上杉政虎を名乗ります。「関東管領」就任という事実を北条方にアピールしたのです。
しかし、上杉謙信は撤退しました。
永禄5年(1563年) 11月 氏康 上野・武蔵の上杉方の城を攻め松山城を包囲
武田信玄と呼応した氏康は上野・武蔵の上杉方の城を攻め松山城を包囲しました
永禄6年(1564年) 2月 氏康 松山城を落城
永禄7年(1564年) 第二次国府台合戦 氏康 里見と対戦し勝利する
氏康は嫡男・氏政とともに2万余の兵を率いて、上杉謙信と連合する安房・上総の里見義尭・義弘と下総国府台で対陣します。正月7日の戦いでは里見方が力戦し北条方は有力武将を失ってしまいました。しかし7日後、大勝に気を良くし油断する里見方を狙って、氏康は北条綱成の献策により兵を東西に二分し猛攻を加えます。不意をつかれた里見方は総崩れとなり、北条が勝利しました。この国府台合戦で、江戸衆・太田康資らが反北条の動きを見せたため、太田康資を追放し江戸衆の再編を行いました。
7月 岩付城の太田資正・氏資を攻撃
10月 上総土気城主・酒井胤治が北条に従う
永禄8年(1565年) 将軍・足利義輝 戦死
将軍・足利義輝は北条氏と上杉氏の和睦を進めていましたが戦死し、弟があとを継ぎ同じく両者の和睦を進めます。しかし、両者は応じず、上杉謙信は北条と武田を滅ぼし関東・信濃を平定することを神に誓いました。
永禄9年(1566年) 2月 上杉謙信が関東に出兵、佐野城に入る
9月 上野金山城の由良成繁・国繁が北条方に内通
上野金山城の由良成繁・国繁が上杉にそむいて北条方に内通、また武田方の動きに呼応した北条方は優位にたちました。
永禄10年(1567年) 2月 佐野城の佐野昌綱が北条に従う
4月 厩橋城の北条高広、下総の簗田晴助・持助が北条に内通
9月 里見義弘が上総三船台城を攻め、太田氏資らが戦死
里見義弘が上総三船台城を攻め、援助に向かった岩付城の太田氏資らが戦死してしまいました。しかし、それでも北条の上総支配はゆるがず、岩付城には氏政の子・氏房を養子として置きました。
10月 武田信玄の長男・義信自害
北条と同盟関係にあった武田氏内部に武田信玄の長男・義信の謀反事件が起こり、義信は自害しました。この事件により、義信が今川氏真の妹を妻としていたことから、今川と武田の甲駿同盟が破れました。
永禄11年(1568年) 甲斐武田信玄が駿河今川を侵攻
甲斐武田信玄は駿河今川の侵攻を始めます。今川氏真は氏康の娘・早河殿を妻に迎えているため氏康に援助を求めました。
12月 氏康 今川に援軍を送る
北条は援軍を送りますが、今川氏真は懸川城に逃れ氏康の娘・早河殿も徒歩で敗走することとなります。
氏康 武田信玄との甲相同盟を破棄
氏康は、氏政の妻となっていた武田信玄の娘・黄梅院を甲斐へと送り返し、武田信玄との甲相同盟を破棄しました。
永禄12年(1569年) 4月 武田信玄は甲府に撤退
武田と北条・今川は対峙を続け長期戦の様相を呈してきました。そこで氏康は越後上杉謙信との和睦交渉を始め、今川氏真も上杉謙信に援助を求めました。
4月武田信玄は甲府に撤退します。北条はこれを追撃、局地的ではあるけれど勝利をおさめました。
氏政 長男・氏直を今川氏真の養子とし、今川を継承
5月3日 上杉謙信との●越相同盟が成立
上杉謙信との越相同盟が成立し、上杉謙信は甲斐へ出兵することを約束しました。6月9日には氏康・氏政と誓詞を交換し、氏政の次男・国増丸を上杉謙信の養子とすることを決めました。(しかし実際には氏康の八男・三郎が養子となります)
●三増峠合戦
甲府へ戻った武田信玄でしたが6月駿河の東の城を攻め、帰路で富士大宮城を攻めます。8月24日には上野に入り、9月10日には武蔵鉢形城、滝山城そして10月には小田原城を包囲します。しかし北条方は籠城作戦に出、長期戦は不利と考えた武田信玄は帰陣しました。帰陣した武田軍と追撃した北条軍は三増峠で戦いますが、作戦勝ちした武田信玄が北条に大打撃を与えました。
その後、武田信玄は11月に再び駿河に向かい、12月6日には北条綱成守る蒲原城を堕とします。12月北条は小田原を出陣しますが目立った動きはありませんでした。
元亀元年(1570年) 越相同盟が本格化し、氏康の八男・三郎が越後へと赴く
武田信玄の進撃
武田信玄の攻撃は続き、伊豆の韮山城や駿河の興国寺城などを攻めますが護りが固く武田信玄は伊豆攻略を断念、北武蔵や秩父などへ進撃しました。10月に入ってようやく上杉謙信が援軍を送りこれにより武田信玄は兵を引きます。武田信玄は下総関宿城の簗田氏や安房の里見氏などに北条を攻めることを働きかけ、暮れには深沢城、興国寺城を攻め、深沢城は翌2年に武田の手に堕ちました。しかし2月に入ると武田方は徳川家康との対戦が激化しはじめ北条との対戦は小康状態となりました。
元亀2年(1571年) 10月3日 氏康 53歳で病死
氏康は病にふせった、「越相同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶように」という遺言を残して、53歳で病死しました。

元亀2年(1571年) 12月27日 氏政 越相同盟を破棄し甲相同盟を復活させる
氏政は越後上杉との越相同盟を破棄し、甲斐武田との甲相同盟を復活させます。しかし、越後上杉には弟・三郎が上杉謙信の養子となり謙信の前名・景虎を名乗るに至っていました。それでも氏政は越相同盟を一方的に破棄、弟・三郎は越後に残ることになってしまいました。この後、上杉謙信は小田原侵攻を再び始めることとなり、弟・三郎景虎はつらい立場となってしまいます。
元亀3年(1572年) 8月 羽生城を攻める
12月 佐竹氏・宇都宮氏と下野多功原で戦う
天正元年(1573年) 7月 織田信長が将軍・足利義昭を追放し、室町幕府滅亡
羽生城、関宿城、水海城を攻める
天正2年(1574年) 上杉謙信と北条軍対陣
2月、越後上杉謙信が動きだし上野へと出兵、氏政も4月上野へ出陣し対陣します。また10月にも上杉謙信は関東に出陣してきました。
11月 結城晴朝が氏政に従い、簗田晴助が関宿城を開城
下総の結城晴朝が氏政に従い、簗田晴助が関宿城を開城し、北条方が有利となりました。
天正4年(1576年) 6月 氏政は多賀谷氏佐竹義重を攻める
氏政は常陸に出兵し多賀谷氏を攻め、それを助けるために動いた佐竹義重と北条は対戦、局地的な勝利をおさめました。
天正5年(1577年) 甲相同盟強化 武田勝頼 氏政の妹・桂林院を妻に迎える
織田信長に追われた元室町幕府将軍・足利義昭により甲相駿の和睦が進められるが失敗。しかし、甲斐武田では、信玄が亡くなりその跡を4男・勝頼が継ぐものの家運には翳りが見え始めていたため、武田勝頼は遠江徳川家康に対抗する力を得ようと、北条との同盟強化をはかります。そして、武田勝頼は氏政の妹・桂林院を妻に迎えました。
5月 氏直初陣 常陸小田城の梶原政景を攻める
6月 氏政 里見義弘と対陣後、講和
天正6年(1578年) 上杉謙信の養子 景勝と三郎景虎(氏康八男)の上杉家督争い●御館の乱
3月9日、越後上杉謙信が倒れ、13日に亡くなります。そして謙信の二人の養子、越後に赴き謙信の前名を与えられた氏政の弟・三郎景虎と、謙信の姉・仙桃院の子・喜平次景勝との間で家督争い「御館の乱」が勃発しました。氏政は女婿・武田勝頼に援軍を依頼し勝頼は5月に出陣します。しかし、景勝は大量の金品をもって武田勝頼と同盟してしまいます。氏政はこれをうけ、妹・桂林院が武田勝頼に嫁いでいるにもかかわらず、甲相同盟を破棄し、9月に弟・氏照と氏邦を三郎景虎の援助に送りました。
天正7年(1579年) 3月24日 鮫尾城で三郎景虎は自害、上杉の家督は景勝が継ぐ
北条の援軍は間に合わず、鮫尾城で三郎景虎は自害しました。
武田と対陣
御館の乱により、再び武田と対立する事となった氏政は9月、遠江徳川家康に使者を送り、武田と対陣。10月には武田勝頼が伊勢崎方面を攻め、伊豆重須沖で対戦します。その後も、武田勝頼との戦いは続くこととなりました。
天正8年(1580年) 8月 氏政は嫡男・氏直に家督を譲る
43歳の氏政は19歳の嫡男・氏直に家督を譲ります。父同様、若い当主の後見として辣腕をふるいました。
天正10年(1582年) 3月 織田信長が甲斐武田を滅ぼす
6月2日 織田信長は本能寺で明智光秀により殺される
本能寺で明智光秀により織田信長は殺されてしまいます。これにより甲斐国内では土豪一揆が起こり、国主を欠いた状態となります。
北条 滝川一益と戦う「●神流川合戦
織田信長の武将・滝川一益が武田の旧領の上野の一部を受け関東管領となっていました。これに対し氏政と氏直はこの地を狙って動き出します。6月16日には倉賀野表に出陣、18日には本庄原、金窪城で激突。しかし、氏直、氏邦の軍勢が討たれ第一戦は敗退してしまいます。けれど、翌日神流川で再び激突し、滝川軍は総崩れとなり北条軍が勝利しました。
北条は上野支配を明確なものとし、氏直は氏政の弟・氏照、氏邦に信濃国侵略を命じ、諏訪頼忠と好を通じて佐久郡、小県郡へ乱入、小諸城に重臣・大導寺政繁を城主として置き、7月7日には諏訪高島城の諏訪勢との連合に成功します。また上田城の真田昌幸も北条に味方し、木曽義昌とも連絡をつけ、諏訪一帯に進出しました。
徳川家康もまた甲斐へ進出、7月3日乱入します。
8月 徳川軍と北条軍は若神子で対陣
徳川軍と北条軍は若神子で対陣、以後80日に及ぶ戦となりました。北条は氏政と氏直が中心となって、総大将氏直が出陣部隊の総指揮官、氏政の弟・氏照、氏邦、氏忠が方面軍団長、氏政が小田原を守り、前線への補給物資と兵員の確保を行っていました。しかし、両者の対陣は長引きます。そんな中、上田城の真田昌幸が10月に豊臣秀吉の誘いによって北条方から徳川方へ乗り換えます。
10月27日 北条と徳川の和睦が成立
80日に及ぶ戦いでしたが、これをきっかけに、両者の和睦が進み、和睦が成立しました。
天正11年(1583年) 徳川家康の次女・督姫が氏直の妻となる
両者の和睦により徳川家康の次女・督姫が氏直の妻となりました。
氏直 氏規を上洛させる
徳川家康と姻戚関係となった北条でしたが、中央では豊臣秀吉政権が成立しつつあり、豊臣秀吉は北条氏政・氏直が戦いを止め上洛しなければ成敗しようという動きとなっていました。しかし、北条は氏政、氏照、氏邦らの強行派と氏直、氏規らの上洛派に別れてしまい、氏直は徳川家康の娘である妻と、強行姿勢の父・氏政の間で苦しみます。
そんな中、北条は由良氏、長尾氏、佐竹氏らとの戦いを続けます。
そして、徳川家康から「氏規を上洛させ豊臣秀吉の臣下となるか、督姫と離縁して豊臣秀吉と対決するか」の二者択一を迫られ、氏直は強行姿勢の父・氏政らを退けて、氏規を上洛させることとしました。(氏規は氏政の弟で幼少期、今川に送られそこで徳川家康と隣同士だっため好があった)上洛した氏規は、上野沼田領が真田昌幸から北条氏領に帰属されれば氏政を上洛させ秀吉の臣下となることを一応の約束としました。
その一方で、北条は氏政、氏照、氏邦らの強行派により、兵数を増やし、城の修理を進め、武器の大量生産など国力強化を進め、完璧な臨戦体制を整えていきました。
天正17年(1589年) 10月 北条方・猪俣邦憲が真田領名胡桃城を攻める
上野沼田領に入っていた北条方・猪俣邦憲が真田領名胡桃城を攻めました。しかしこれにより豊臣秀吉は北条攻めを決定。
11月24日 豊臣秀吉は北条に宣戦布告
北条方は、100カ所に及ぶ城々に兵を籠らせる籠城作戦に出ました。この籠城作戦、かつては上杉謙信や武田信玄にも破られることはなかったこともあり、北条は己の力を過信し、あげく豊臣勢の力を甘くみたまま、この大合戦にのぞむこととなります。
天正18年(1590年) ●小田原合戦 豊臣秀吉による北条攻め
豊臣勢は、徳川家康、石田三成、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、九鬼嘉隆、長宗我部元親ら錚々たる武将を中心とした総勢20万を越す大軍で、わずか5万余の兵で籠城する北条勢を攻め始めました。
3月、北条の最前線である、山中城は松田康長、氏勝率いる玉縄衆が守っていましたが、羽柴秀次らの大軍によってわずか半日で崩れてしまいます。
秀吉は小田原城を見下ろす山上に石垣山一夜城を築き、北条一族や家老衆が籠城する小田原城を完全包囲します。
前田利家、上杉景勝、真田昌幸らは、松井田城を攻め、城将・大導寺政繁らが必死に防御。しかし安中城、国峰城、厩橋城をも攻められ、4月松井田城も開城、大導寺政繁は降伏してしまいました。壬生城、鹿沼城も攻められ、玉縄城も開城、北条氏勝が降伏します。江戸城、河越城、松山城も次々開城するに至ってしまいました。
残った、岩付城も城主不在で落城し、鉢形城も前田利家、上杉景勝により攻められ、城主・氏邦は開城を余儀無くされ前田利家に下ります。6月氏照の八王子城も城主不在のまま前田利家、上杉景勝らに猛攻撃を受け激戦を繰り広げるもののわずか1日で落城してしまいました。これには、氏政、氏照らは深く落胆し、これ以上の戦いが困難であることを思い知らされてしまいます。
残った韮山城を守っていた氏規は、韮山城を開城し、氏政らに降伏するよう話しをします。
籠城作戦の末、7月小田原城を開城し降伏
そして氏政ら北条のトップ達は、後に「小田原評定」などと評されてしまう、堂々回りのような話し合いの末に、天正18年(1590年)7月小田原城を開城し降伏したのでした。
氏政、氏照、松田憲秀、大導寺政繁は切腹
氏直、氏規らは高野山へと追放される
氏直は己の切腹と引き換えに城兵の助命を願い出るが許されず、後に高野山へと追放されます。氏政、氏照、松田憲秀、大導寺政繁の4名はその責任により切腹を命じられました。
そして、7月11日、氏政と弟・氏照は弟・氏規の介錯をうけて割腹しました。
こうして、100年に渡って続いた北条氏は実質的に滅んだのでした。

その後 残った氏直は徳川家康の娘・督姫と離縁させられ、氏政の弟・氏規、氏房、そして玉縄北条氏勝、大導寺直繁、松田直憲らとともに高野山へと追放されました。
そして、氏直は、旧家臣と正式に奉公関係を解き、家臣との関係が切れたことを通告しました。
その後
・氏直は天正19年(1591年)2月、罪を許され関東下野国足利9000石、近江1000石の計1万石の大名に取り立てられ、11月4日に病死しました。
・氏政の弟・氏規は、8月には河内国舟南郡内2000石をあてがわれ、文禄3年(1594年)には6980石をあてがわれ、慶長5年(1600年)2月に亡くなりました。跡を継いだ子・氏盛は狭山藩の藩主となり以後12代に渡り維新まで続きました。
・玉縄北条氏勝は、徳川家康に従って江戸城に赴き、一大名として下総国岩富1万石を与えられ、慶長16年(1611年)3月に亡くなりました。
・氏政の弟・氏房は、肥前唐津城の寺沢広高に従い、文禄元年(1592年)4月に亡くなりました。
・氏政の弟・氏邦は、金沢前田利家に1000石で召しかかえられ、慶長2年(1597年)8月に亡くなりました。
・また家臣らもそれぞれ全国へと散って行き、氏照の家臣・中山家範の子孫は水戸徳川家に仕え家老職になり、大導寺政繁の子孫は尾張徳川家と津軽藩に仕え家老職となり、忍城主だった成田氏長は蒲生氏郷に仕え、大藤与七、清水太郎左衛門尉は結城秀康に仕え後に越前藩士となり、高橋郷左衛門尉の子孫は加賀前田氏の重臣・本多政重に仕え、宇津木氏は井伊家に仕え彦根藩士になるなどしました。

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