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 戦国北条氏のすべて >> 歴史(五代100年の歴史について)


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北条同盟

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・北条の祖 早雲のそれまで
備中伊勢氏の高越山城の城主伊勢盛定の子・新九郎盛時として永享4年頃(1432年頃)に生まれた早雲は、京へとのぼり京都伊勢氏の伊勢貞高の養子となってから寛正5年(1464年)8代将軍足利義政の弟・足利義規の近士となります。しかし、足利家の後継者争い(応仁の乱の引き金とも云える争い)により京にいられなくなった足利義規と早雲は共に、伊勢へと逃れます。その後、足利義規は京へと戻りますが、早雲はそのまま伊勢に残ります。
そして、文明7年頃(1475年頃)早雲をはじめ、荒木兵庫・山中才四郎・多目権兵衛・荒川又次郎・大導寺太郎・在竹兵衛ら心通じる友人7人は、秋も深まる伊勢神宮に集まり、この七人のひとりが大名になったら他の六人はその家人となってその人を盛りたてよう、と神水を飲みかわして誓いをたてました。
その後、歴史の表舞台と登場する早雲は、この約束を果たすこととなります。

■↓NEXT[興国寺城主

・長享元年(1487年)興国寺城主
文明8年(1476年)駿河・今川義忠のもとに嫁いだ早雲の妹・北川殿に危機が訪れ、早雲は急遽、駿河へと向かいます。今川義忠が死に、その家督争いが起こったのです。 義忠の子、すなわち北川殿の生んだ龍王丸(のち氏親)は幼くまだ継がせられないとして、義忠の従兄弟・小鹿範満が政務をとるとし、家臣は二分して各地で紛争が続発します。この事態に乗じて伊豆の堀越公方足利政知は、上杉憲政を大将とする三百騎を、また範満と縁がある扇谷上杉氏は太田道灌を代官として同じく三百騎を派遣したため、事態は悪化。そこで、早雲が「龍王丸が元服するまでの間だけ、小鹿範満が家督を代行する」という折衷案を提示します。それが受け入れられ家督争いは収まったのです。
そうして今川家の危機を救った早雲。普通ならこの功績により今川家の重臣に…となるところですが、この時にはそういう事はなく、文明11年頃(1479年頃)早雲は京へと上り寺に入るなどして修行し、文明15年(1483年)には室町幕府の足利義尚の申次衆を務めます。
ところが長享元年(1487年)またも妹・北川殿に危機がせまり、早雲は駿府へと向かいます。今川の家督は「龍王丸が元服するまでの間だけ小鹿範満が代行する」と言う事だったのに、龍王丸が元服し氏親となってからも、小鹿範満が家督を返そうとはしなかったため、駿府へと下った早雲は龍王丸擁立派の軍勢と共に密かに石脇城へと入り、同年11月9日、駿府今川館の小鹿範満を急襲。結果、小鹿範満は討たれ、氏親が今川氏第7代の家督の座につきました。
そして、その恩賞として早雲は駿河の駿東郡興国寺城と富士下方十二郷を与えられることとなり、興国寺城主・早雲が誕生する。 興国寺城主となった早雲は、実質的に甥・今川氏親の後見、補佐役といってもいい駿河守護代の地位へと就きました。
ここに「戦国武将・北条早雲」が誕生しました。

早雲のそれまで]BACK↑■↓NEXT[伊豆討ち入り

・延徳3年(1491年)伊豆討ち入り
伊豆侵攻今川家の家督争いをおさめ、その恩賞として興国寺城を与えられ興国寺城主となった早雲…。彼が興国寺城主となってから4年、伊豆が大きく動きます。
延徳3年(1491年)4月3日、堀越公方足利政知が死に、それにともなう公方家中の乱れに乗じて、同年10月11日の夜、早雲は今川氏親の兵を借り堀越御所を急襲し、後継者茶多々丸を自害させて伊豆一国を手中に収めました。
この無謀ともいる戦いは、行動の軍事的指揮そのものは早雲の手によったものですが、その背景には大きな政治的了解が潜んでいました。山内上杉氏や扇谷上杉氏、太田道灌の存在、また早雲が伊豆を制圧したとき、扇谷上杉氏と山内上杉氏が合戦中で、伊豆の武士はみなその戦いに加わり、伊豆には百姓ばかりという、絶好の機会でもあったのです。
また、早雲は伊豆攻略にあたって、その善後策に精力を注ぎました。今川氏、扇谷上杉氏との関係のみならず、自ら湯治客などを装って敵地を歩き敵情偵察なども行い、流行り病の治療を行い、農民撫育や諸卒の士気高揚に意を尽くし、伊豆の在地武士の領地安堵の条件として、四公六民を言い渡し「願わくば民ゆたかにあれかし」と説いています。その待遇に感激した民百姓が早雲の戦いに積極的に参加する意思を表明してしまうほどでした。
早雲は当時の大名に欠けていた、民政に意を用いたのです。また、それは足軽や陣夫の積極的な徴用という面にも表れました。

興国寺城主]BACK↑■↓NEXT[小田原城略取

・明応4年(1495年)小田原城略取
伊豆平定にある程度成功した早雲は、西相模・小田原城へと目を向けます。当時の小田原城主は山内上杉顕定の重臣大森氏頼であり、山内上杉氏との闘争に明け暮れる扇谷上杉氏に対しても、有力な加勢として参陣の実績を重ね、大森氏を討っても扇谷への反逆にならない立場を固め準備を進めました。しかし、小田原城主・大森氏頼も手強くうまく行かずにいました。
そこで氏頼が死んだところであとを継いだ藤頼に接近。早雲は度々、手紙のやりとりや珍しい品物を贈ったりして藤頼にうまくとりいり油断させます。藤頼は年上であるのにもかかわらず家臣のように振る舞う早雲をすかっり信じていました。
そして気が熟したころ、早雲は動きだします。藤頼に「伊豆で鹿狩りをしていたら箱根山に逃げてしまった。伊豆に鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」と頼んだのです。何の疑いも持たない藤頼は「御自由に」と返事をしてしまいます。そうして、明応4年(1495年)9月、勢子に化けた早雲の一隊数百人は、夜を待って千頭の牛のツノにたいまつを付け放ちました。これを見た大森方は手薄だったのも手伝って「一体敵は何十万いるのだ!」と慌てふためきました。
早雲は牛のツノにたいまつを付けることで、相手に大軍が来襲したと錯覚させたのでした。
小田原城・大森藤頼に夜襲をかけた 早雲は敵味方双方に あまり多くの犠牲を出さずに比較的容易に小田原城乗っ取りを成功させました。

伊豆討ち入り]BACK↑■↓NEXT[国府台合戦

・第1次・第2次 国府台合戦
天文6年(1537年)5月、上総の武田信隆と腹違いの弟・信応との間で家督争いが勃発、信応は真里谷城に処って小弓御所の足利義明と手を結び、信隆は峰上城、百首城に処って北条に支援を求めました。
同年5月14日、小弓城を出た足利義明は峰上城を攻め始めます。北条方であった里見義尭は急変して足利方となり、北条vs足利・里見連合軍という状況へとなりました。氏綱は峰上城に援軍を送るものの足利方に攻略され、信隆は武蔵国金沢へと逃げます。しかし同7年(1538年)10月、氏綱は下総国府台に出陣し、足利義明・里見義尭と激突、北条方は山中修理亮の活躍などにより勝利し、足利義明は討ち死にし、里見義尭は安房方面へと敗走しました。そして氏綱は下総一帯を支配下に組み入れることに成功しました。
永禄7年(1564年)第二次国府台合戦●
一度は敗れた里見義堯でしたが足利義明が滅亡したことで房総での最大勢力へとなっていました。そして、天文23年(1554年)北条氏康と甲斐・武田氏と駿河・今川氏の甲駿相三国同盟が成立すると、里見義堯はこの同盟に関わっていない越後の長尾景虎(上杉謙信)と同盟し、北条との対立姿勢を整えました。
そして里見義尭、上杉憲政、佐竹義昭らからの要請を受けて越後の長尾景虎(上杉謙信)が動き出します。永禄3年(1560年)9月には岩下、沼田城などを攻撃、これに対し北条氏康は河越城を出て同年10月には松山城に入ります。翌年(1561年)小田原城下に入った長尾景虎(上杉謙信)に対して、北条方は籠城作戦に出、長尾景虎(上杉謙信)は苦戦します。
しかしその後、北条の籠城作戦に負け撤退しました。
永禄5年(1563年)11月、武田信玄と呼応した氏康は上野・武蔵の上杉方の城を攻め松山城を包囲、翌年2月落城。
永禄6年(1564年)6月、上杉謙信が越後に帰ると、武田信玄はすかさず北条氏康を伴って関東に侵入。上杉謙信は再び関東へ出馬し、上野厩橋城に入ります。そして、里見義堯・義弘は、安房・上総の軍勢を率いて北上して下総に入り、翌7年(1564年)正月四日にはその主力を市川に集めます。そして、岩槻城にいる太田資正と連絡をとり、岩槻城に兵糧を送ろうとした。しかしこの里見氏の動きを、下総小金の高城氏や江戸城からの知らせによって察知した北条氏康は里見氏の進撃を下総・武蔵の境で阻止するために全力をあげて里見軍との決戦を決意。
しかし正月7日の戦いでは里見方と岩付城の太田資正が力戦し北条方は有力武将を失ってしまいました。しかし7日後、大勝に気を良くし油断する里見方を狙って、氏康は北条綱成の献策により兵を東西に二分し猛攻を加えます。不意をつかれた里見方は総崩れとなり、北条が勝利しました。
北条方は、敗走する里見方を追い、上総に入って椎津城を攻め、これを落しました。しかし、関東へ出馬中の上杉謙信を慮って深追いすることはありませんでした。
またこの国府台合戦で、江戸衆・太田康資らが反北条の動きを見せたため、太田康資を追放し江戸衆の再編を行いました。永禄7年(1564年)7月には岩付城の太田資正・氏資を攻撃しました。

小田原城略取]BACK↑■↓NEXT[河越夜戦

・天文15年(1546年)河越夜戦
河越夜戦跡天文10年(1541年)7月、2代目当主氏綱の死が関東各地に伝えられると、すぐに扇谷上杉朝政が河越城を北条から奪い返そうと動きだしました。10月ころから上杉軍と北条軍が激突、その後、関東管領山内上杉憲政も北条と敵対、安房の里見氏も敵対、天文13年(1544年)9月安房で激突しました。3代目氏康は古河公方足利晴氏の出方を重視し関係を保させることを図ります。しかし山内上杉憲政は今川氏が北条氏と敵対しているのを見て今川義元と手を組み、天文14年(1545年)8月今川義元と北条氏康が激突しました。この時、甲斐武田信玄が今川義元を助けます。また山内上杉憲政は扇谷上杉朝政とも手を結び、河越城を囲みます。そして、この状況を見た古河公方足利晴氏は北条から離れ、山内上杉憲政と結び河越城攻撃に加わりました。敵を増やした北条氏康でしたが、この事態を収めるため甲斐武田信玄が動きます。武田信玄は北条氏康、山内上杉憲政、今川義元の中立をとって講和をはかったのです。この時の北条氏康、今川義元、武田信玄の関係が後の甲相駿三国同盟の伏線となりました。
そして天文14年(1545年)河越城を守る北条綱成らはわずか8千の軍勢で、8万ともいわれる山内上杉憲政、扇谷上杉朝政、古河公方足利晴氏の連合軍に立ち向かいます。しかし、山内上杉憲政、扇谷上杉朝政、古河公方足利晴氏らは、河越城を包囲し、北条方は籠城作戦にで、6ヶ月にわたり対陣します。そして天文15年(1546年)4月、氏康は忍びを使って様子を探った後、奇襲をかけ一気に撃ち破りました。これが「河越夜戦」です。実際には夜行われたのではないらしいですが、これにより上杉朝政は討ち死に、上杉憲政は上野平井城に逃れ、足利晴氏は古河に戻りました。この戦いの勝利によって氏康の武蔵支配は決定的なものとなり、早雲時代より争ってきた上杉氏と一応の決着がついたといえました。
ちなみに実際には夜に合戦があったかどうかは定かではなく、後代の「北条記」が夜戦と記しているだけです。

国府台合戦]BACK↑■↓NEXT[甲相駿三国同盟


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