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 戦国北条氏のすべて >> 歴史(五代100年の歴史について)


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北条同盟

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・天文23年(1554年)甲相駿三国同盟
氏綱の死後すぐに扇谷上杉朝政が河越城を北条から奪還するため動きだし、天文10年(1541年)10月ころから上杉軍と北条軍が激突、その後、関東管領山内上杉憲政も北条と敵対、安房の里見氏も敵対、天文13年(1544年)9月安房で激突しました。氏康は古河公方足利晴氏の出方を重視し関係を保させることを図ります。しかし山内上杉憲政は今川氏が北条氏と敵対しているのを見て今川義元と手を組み、天文14年(1545年)8月今川義元と北条氏康が激突しました。この時、甲斐武田信玄が今川義元を助けます。また山内上杉憲政は扇谷上杉朝政とも手を結び、河越城を囲みます。そして、この状況を見た古河公方足利晴氏は北条から離れ、山内上杉憲政と結び河越城攻撃に加わりました。
敵を増やした北条氏康でしたが、この事態を収めるため甲斐武田信玄が動きます。武田信玄は北条氏康、山内上杉憲政、今川義元の中立をとって講和をはかったのです。これにより今川までも敵にまわすという事は逃れましたが、氏康は富士川以東の駿河の領地を今川氏に返すこととなりました。
この時の北条氏康、今川義元、武田信玄の関係が後の甲相駿三国同盟の伏線となりました。
そして、天文23年(1554年)2月、氏康は今川義元が留守なのを狙って、今川氏の領国駿河へ攻め込みました。今川氏と同盟関係にあった甲斐武田信玄はこれを見て富士川に出陣して今川方を助けます。北条軍との戦いの舞台は整いました。しかしこの時、今川氏から軍師であり臨済寺住職の太原崇孚(雪斎)と建乗が講和をすすめたのです。すでに、武田と今川(甲駿同盟)、武田と北条(甲相同盟)が成されていたので、今川と北条を結び三国同盟を成そうとしたのです。武田信玄、今川義元、北条氏康の三者は善徳寺に集まり、武田信玄の娘・黄梅院を氏康の子・氏政に、氏康の娘・早河殿を今川義元の子・氏真に嫁がせることで「甲相駿三国同盟」を結びました。
しかし、永禄10年(1567年)8月、北条と同盟関係にあった武田氏内部に武田信玄の長男・義信の謀反事件が起こり義信は10月自害しました。この事件により、義信が今川氏真の妹を妻としていたことから、今川と武田の甲駿同盟が破れました。そして、永禄11年(1568年)甲斐武田信玄は駿河今川の侵攻を始めます。今川氏真は氏康の娘・早河殿を妻に迎えているため氏康に援助を求めました。12月北条は援軍を送りますが、今川氏真は懸川城に逃れ氏康の娘・早河殿も徒歩で敗走することとなります。これに対し氏康は、氏政の妻となっていた武田信玄の娘・黄梅院を甲斐へと送り返し、武田信玄との甲相同盟を破棄しました。
北条方の援助は間に合わず永禄12年(1569年)武田と北条・今川は対峙を続け長期戦の様相を呈してきました。そこで氏康は越後上杉謙信との和睦交渉を始め、今川氏真も上杉謙信に援助を求めました。
4月武田信玄は甲府に撤退します。北条はこれを追撃、局地的ではあるけれど勝利をおさめました。
その後、氏政は長男・氏直を今川氏真の養子とし、今川を継承しました。

河越夜戦]BACK↑■↓NEXT[三増峠合戦

・永録12年(1569年)三増峠合戦
永禄11年(1568年)甲斐武田信玄はそれまでの同盟約を破って駿河今川の侵攻を始めます。今川氏真は氏康の娘・早河殿を妻に迎えているため氏康に援助を求めました。同年12月北条は今川へ援軍を送りますが、今川氏真は懸川城に逃れ氏康の娘・早河殿も徒歩で敗走することとなります。これに対し氏康は、氏政の妻となっていた武田信玄の娘・黄梅院を甲斐へと送り返し、武田信玄との甲相同盟を破棄しました。北条方の援助は間に合わず永禄12年(1569年)に入り武田と北条・今川は対峙を続け長期戦の様相を呈してきました。そこで氏康は越後上杉謙信との和睦交渉を始め、今川氏真も上杉謙信に援助を求めました。そして同年4月武田信玄は甲府に撤退します。北条はこれを追撃、局地的ではあるけれど勝利をおさめました。その後、氏政は長男・氏直を今川氏真の養子とし、今川を継承しました。
また、5月3日上杉謙信との越相同盟が成立し、上杉謙信は甲斐へ出兵することを約束しました。6月9日には氏康・氏政と誓詞を交換し、氏政の次男・国増丸を上杉謙信の養子とすることを決めました。(しかし実際には氏康の八男・三郎が養子となります)
甲府へ戻った武田信玄でしたが6月駿河の東の城を攻め、帰路で富士大宮城を攻めます。8月24日には上野に入り、9月10日には武蔵鉢形城、滝山城そして10月には小田原城を包囲します。武田信玄はあわよくば北条の地を全て手に入れようとする三道併進作戦をとったのです。しかし北条方は得意の籠城作戦に終始。長期戦は不利と考えた武田信玄は帰陣します。しかし帰陣した武田軍が三増峠を越えようとしていたそのとき、追撃してきた北条氏照・氏邦らと合戦となりました。これが「三増峠の戦い 」です。
武田信玄の前に立ち塞がる北条軍でしたが、山岳戦に強い武田軍を正面から迎え撃つことに危惧を抱き、小田原に援軍を求めます。武田信玄もその援軍が来ては腹背を挟撃されることになる、とすぐさま攻撃体制に入りました。
小幡氏以下1200の兵を北から、 山県昌景以下5000の兵を東から迂回させ北条の背後へとせまります。そして信玄は一気に総攻撃をかけました。北条方は後退するものの立て直しますが、山県昌景率いる兵に側背をつかれ、総崩れとなり敗退しました。
多くの死者を出す激戦の末、作戦勝ちした武田信玄が北条方に大打撃を与えたのでした。
その後、武田信玄はその報復かのように11月に再び駿河に向かい、12月6日には北条綱成守る蒲原城を堕としました。そして、北条と武田は元亀2年(1571年)にその同盟が復活するまでの間、対立を続けることとなります。
余談ですが…この三増峠の戦いで無謀を説いていた武田方の高坂弾正昌信は、合戦後に信玄にこの戦の勝ちをどう見るかと問われ「ケガの功名にございます」と答えたらしい。

甲相駿三国同盟]BACK↑■↓NEXT[越相同盟

・永録12年(1569年)越相同盟
永禄11年(1568年)甲斐武田信玄の駿河今川の侵攻により、北条氏康は今川氏真に氏康の娘・早河殿が嫁いでいるため12月に援軍を送りますが、今川は敗走することとなり、これに対し氏康は、氏政の妻となっていた武田信玄の娘・黄梅院を甲斐へと送り返し、武田信玄との甲相同盟を破棄しました。
永禄12年(1569年)武田と北条・今川は対峙を続け長期戦の様相を呈してきました。そこで氏康は越後上杉謙信との和睦交渉を始め、今川氏真も上杉謙信に援助を求めました。
4月武田信玄は甲府に撤退します。
その後、氏政は長男・氏直を今川氏真の養子とし、今川を継承しました。
そして、これを期に、5月3日上杉謙信との越相同盟が成立し、上杉謙信は甲斐へ出兵することを約束しました。6月9日には氏康・氏政と誓詞を交換し、氏政の三男・国増丸を人質として上杉謙信のもとへ送ることを決めました。
しかし、氏政の次男・国増丸はまだ幼いということで氏康の八男で氏政の弟・三郎が送られることとなりました。
そして、元亀元年(1570年)越相同盟が本格化し、3月5日上杉謙信から氏康・氏政に書状が届き、三郎を迎えることを盟約し、4月10日には三郎は沼田に到着、11日上杉謙信と対面しそのまま越後へと赴きました。
越後へ「人質」として行った三郎でしたが、4月25日には上杉謙信は三郎を養子として前名である「景虎」を与え、姪(謙信の姉仙桃院の娘)を娶らせました。
しかしその後、病にふせっていた氏康は、「越相同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶように」という遺言を残して、元亀2年(1571年)10月3日、53歳で病死。
これをうけ、氏政は三郎を越後に残したまま越後上杉との越相同盟を破棄し、12月27日には甲斐武田との甲相同盟を復活させます。
上杉謙信の養子として越後上杉に残る弟・三郎…それでも氏政は越相同盟を一方的に破棄、そしてこの後、上杉謙信は小田原侵攻を再び始めることとなり、弟・三郎景虎はつらい立場となってしまいました。

三増峠合戦]BACK↑■↓NEXT[御館の乱

・天正7年(1579年)御館の乱
天正6年(1578年)3月9日、上杉謙信が突然、脳溢血で倒れました。あまりに突然の事で誰が上杉の家督を継ぐのかという問題が発生。謙信はそれまで、誰にも家督の話しはしておらず、また遺言を残せるような状態ではなかったのです。
家督を継ぐ候補に上がったのは、謙信の養子である三郎景虎、そしてもう一人の養子・景勝の二人でした。
三郎景虎は謙信の前名を与えられているし、景勝は謙信の姉・仙桃院の子で謙信と同じ血筋、という事で家臣の間でも揺れていました。
そんな中、先手を討ったのは、景勝でした。
床に臥せって意識のはっきりしない謙信に、景勝側の家臣・直江実綱の妻が「後継ぎは景勝様になさいますね」と問い、謙信がうなづいたと強引に決めつけたのです。そうして、大義名分を手に入れた景勝は、3月15日、謙信の葬儀が終わると、すぐさま春日山城実城(本丸)を占拠したのです。
そして、二人の養子による相続争い「御館の乱」が始まったのです。
景虎派・栃尾城主の本庄綱秀,鮫尾城城主の掘尾宗親,信州飯山城主の桃井義孝,上州沼田城主の河田重親,厩橋城主の北条(きたじょう)高広,米山寺城主の篠宮某,三条の町奉行の東条佐渡守,柿崎一族,その他小身の軍士など、そして景勝派・与板城主の直江信綱をはじめとする宿将達,樋口与六(後の直江兼続)や黒金上野介ら上田衆と、越後を二分する戦いが始まりました。家臣の多くは、三郎景虎には実家・北条と、姉婿・武田勝頼(武田信玄の子)がついており彼らの援軍が着けば断然有利になるだろうと考え、三郎景虎につきました。景勝もそれを考え、長期戦は不利と考えすぐさま攻撃を開始します。天正6年(1578年)5月13日、景虎は城を脱出し、府中の御館に逃れました。御館には、上杉憲政がいましたが、彼は過去に北条から関東を追われ助けられた謙信を養子として上杉の家督を譲ったという事がありながら、三郎景虎の背後にあるであろう北条と武田の勢力を慮って三郎景虎を受け入れました。
そして、予想通り北条の命を受けた武田勝頼が5月下旬、3万の大軍を率いて信越国境を越え頸城郡の大出雲原まで迫りました。
しかし、ここで予想外にも実家・北条がなかなか動こうとはしませんでした。これには、多くの家臣たちが不振に思いました。なぜ、すぐ援軍を送らないのか。北条の援軍を期待し怖れて、景虎についた者たちは不振をつのらせます。それは、武田勝頼も例外ではなく、北条を疑いはじめていました。そんな中、景勝は武田勝頼に和睦を申し入れます。北条を疑い始め、また北条よりもいい条件を出された武田勝頼は景勝との和睦を承諾してしまいます。そうして、形勢はにわかに逆転し始めたのでした。
9月に入ってようやく、北条が動きはじめます。北条氏政の弟であり三郎景虎の兄である氏照と氏邦が4万余の大軍を率いて北上し、沼田城主の河田重親と厩橋城主の北条(きたじょう)高広と共に、三国峠を越えて坂戸城に迫りました。
ですが、思った以上に坂戸城の護りは固く、なかなか陥とすことができませんでした。そうこうしているうちに、越後に冬が訪れます。豪雪地帯である場では、身動きができず、やむなく北条軍は越後を離れます。目前までやってきていて、弟を助ける事もできずに帰らざるえなかった兄・氏照はきっと、越後の雪を、自分を恨んだでしょう。北条軍が次に越後へとやってこれるのは、雪がとけはじめる頃になってからとなってしまいます。
そして、年があけた天正7年(1579年)景勝は、越後へ入ろうとする北条方の北条(きたじょう)高広の軍を撃破。三郎景虎のいる御館を攻め始めます。しかし、思いのほか御館の護りは固く、景勝は苦戦します。そこで御館への糧道を絶つという兵糧攻めにでました。そのため、御館の景虎軍の戦意は次第に衰え、御館を抜け出す者が続出してしまいます。3月17日未明、三郎景虎は堀江宗親をたよって鮫ヶ尾城に逃れました。しかし、景勝の軍が鮫ヶ尾城に迫ると、堀江宗親は三郎景虎を裏切り、景勝に内応します。そして、22日の夜半に鮫ヶ尾城の二の丸に火をはなって、景勝の猛攻撃が始まりました。
…そして遂に、三郎景虎は天正7年(1579年)3月24日午の刻、自刃したのでした。
上杉の家督争い「御館の乱」は景勝の勝利で幕を閉じました。
●エピローグ●
上杉景勝の勝利で幕を閉じた「御館の乱」ですが、この争いは北条と上杉との敵対関係を強めただけでなく、北条と武田の敵対関係を生むきっかけとなってしまいました。武田勝頼が北条ではなく上杉についたため、北条と武田の和は切れ、これ以降両者の和睦はないままとなりました。

越相同盟]BACK↑■↓NEXT[神流川合戦

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