|
|
| ・天正10年(1582年)神流川合戦 |
|
天正10年(1582年)3月、織田信長が甲斐武田を滅ぼしその領国を手に入れます。しかし、6月2日本能寺で明智光秀により織田信長は暗殺されてしまいます。これにより事態は急変、甲斐国内では土豪一揆が起こり、国主を欠いた状態となります。
しかし、織田信長の武将・滝川一益が武田の旧領の上野の一部を受け関東管領となっていました。
これに対し氏政と氏直は信長の死を期に、この地を狙って動き出します。6月16日には倉賀野表に出陣、18日には本庄原、金窪城で激突。しかし、氏直、氏邦の軍勢が討たれ第一戦は敗退してしまいます。けれど、翌日神流川で再び激突し、滝川軍は総崩れとなり北条軍が勝利しました。滝川一益は敗走することとなり、北条氏は上野における旧武田領を完全に手に入れました。 |
| ・天正18年(1590年)小田原合戦 |
|
天正年間に入り、関東一円の支配を一層強め、甲斐国入手にも動きだし、また徳川家康と姻戚関係となった北条でしたが、中央では豊臣秀吉政権が成立しつつありました。豊臣秀吉は北条氏政・氏直が戦いを止め上洛しなければ成敗しようという動きを見せ始めました。しかし、北条は秀吉の中央を無視しようとする氏政、氏照、氏邦らの強行派と中央に従おうとする氏直、氏規らの上洛派に別れてしまい、氏直は徳川家康の娘である妻と、強行姿勢の父・氏政の間で苦しみます。それでもなお、北条は由良氏、長尾氏、佐竹氏らとの戦いを続けます。
そして、徳川家康から「氏規を上洛させ豊臣秀吉の臣下となるか、督姫と離縁して豊臣秀吉と対決するか」の二者択一を迫られ、氏直は強行姿勢の父・氏政らを退けて、氏規を上洛させることとしました。(氏規は氏政の弟で幼少期、今川に送られそこで徳川家康と隣同士だっため好があった)上洛した氏規は、上野沼田領が真田昌幸から北条氏領に帰属されれば氏政を上洛させ秀吉の臣下となることを一応の約束としました。
その一方で、北条は氏政、氏照、氏邦らの強行派により、兵数を増やし、城の修理を進め、武器の大量生産など国力強化を進め、完璧な臨戦体制を整えていきました。
そして、天正17年(1589年)10月上野沼田領に入っていた北条方・猪俣邦憲が真田領名胡桃城を攻めたことにより、豊臣秀吉は北条攻めを決定。11月24日豊臣秀吉は北条に宣戦布告します。
北条方は、100カ所に及ぶ城々に兵を籠らせる籠城作戦に出ました。この籠城作戦、かつては上杉謙信や武田信玄にも破られることはなかったこともあり、北条は己の力を過信し、あげく豊臣勢の力を甘くみたまま、この大合戦にのぞむこととなります。
 天正18年(1590年)豊臣勢は、徳川家康、石田三成、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、九鬼嘉隆、長宗我部元親ら錚々たる武将を中心とした総勢20万を越す大軍で、わずか5万余の兵で籠城する北条勢を攻め始めました。3月、北条の最前線である、山中城は松田康長、氏勝率いる玉縄衆が守っていましたが、羽柴秀次らの大軍によってわずか半日で崩れてしまいます。秀吉は小田原城を見下ろす山上に石垣山一夜城を築き、北条一族や家老衆が籠城する小田原城を完全包囲します。前田利家、上杉景勝、真田昌幸らは、松井田城を攻め、城将・大導寺政繁らが必死に防御。
しかし安中城、国峰城、厩橋城をも攻められ、4月松井田城も開城、大導寺政繁は降伏してしまいました。壬生城、鹿沼城も攻められ、玉縄城も開城、北条氏勝が降伏します。江戸城、河越城、松山城も次々開城するに至ってしまいました。残った、岩付城も城主不在で落城し、鉢形城も前田利家、上杉景勝により攻められ、城主・氏邦は開城を余儀無くされ前田利家に下ります。6月氏照の八王子城も城主不在のまま前田利家、上杉景勝らに猛攻撃を受け激戦を繰り広げるもののわずか1日で落城してしまいました。これには、氏政、氏照らは深く落胆し、これ以上の戦いが困難であることを思い知らされてしまいます。残った韮山城を守っていた氏規は、韮山城を開城し、氏政らに降伏するよう話しをします。
そして氏政ら北条のトップ達は、後に「小田原評定」などと評されてしまう、堂々回りのような話し合いの末に、天正18年(1590年)7月小田原城を開城し降伏したのでした。こうして、5代100年にわたり関東一円をおさめてきた北条氏は滅亡することとなったのです。 |
| ・北条滅亡 |
|
・天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉による小田原合戦により北条は小田原城を開城し降伏しました。その後、5代目氏直は己の切腹と引き換えに城兵の助命を願い出ますが許されず、徳川家康の娘婿ということから助命されます。そして、氏政、氏照、松田憲秀、大導寺政繁の4名はその責任により切腹を命じられ、7月11日、4代目氏政、氏照は弟・氏規の介錯をうけて割腹しました。
・残った氏直は徳川家康の娘・督姫と離縁させられ、氏政の弟・氏規、氏房、そして玉縄北条氏勝、大導寺直繁、松田直憲らとともに高野山へと追放されました。
・氏直は、旧家臣と正式に奉公関係を解き、家臣との関係が切れたことを通告しました。
その後、氏直は天正19年(1591年)2月、罪を許され関東下野国足利9000石、近江1000石の計1万石の大名に取り立てられ、11月4日に病死しました。
・氏政の弟・氏規は、8月には河内国舟南郡内2000石をあてがわれ、文禄3年(1594年)には6980石をあてがわれ、慶長5年(1600年)2月に亡くなりました。跡を継いだ子・氏盛は狭山藩の藩主となり以後12代に渡り維新まで続きました。
・玉縄北条氏勝は、徳川家康に従って江戸城に赴き、一大名として下総国岩富1万石を与えられ、慶長16年(1611年)3月に亡くなりました。
・氏政の弟・氏房は、肥前唐津城の寺沢広高に従い、文禄元年(1592年)4月に亡くなりました。
・氏政の弟・氏邦は、金沢前田利家に1000石で召しかかえられ、慶長2年(1597年)8月に亡くなりました。
・また家臣らもそれぞれ全国へと散って行き、氏照の家臣・中山家範の子孫は水戸徳川家に仕え家老職になり、大導寺政繁の子孫は尾張徳川家と津軽藩に仕え家老職となり、忍城主だった成田氏長は蒲生氏郷に仕え、大藤与七、清水太郎左衛門尉は結城秀康に仕え後に越前藩士となり、高橋郷左衛門尉の子孫は加賀前田氏の重臣・本多政重に仕え、宇津木氏は井伊家に仕え彦根藩士になるなどしました。
・こうして、5代100年に渡った北条氏は滅亡していきました。 |
|
|