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『大橋図書館のこと』 (永濱薩男氏文 名著普及会発行『名著サプリメント 1991年8月』掲載) |
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明治20年6月15日、長岡の人大橋佐平氏により「博文館」という後の大手出版社が創立された。大橋図書館は、この博文館15周年記念として明治35年6月15日創設された財団法人の図書館である。大橋図書館が閉館してから既に38年(注:1991年8月現在)にもなるので全く知られていないか忘れられているだろうと思われるので草創期の図書館として紹介しておきたいと思う。
この図書館の創設者である大橋佐平氏は、明治26年欧米視察に出発した。博文館創設6年目である。その目的は、出版事業の視察であったというが、佐平氏が見たものは欧米至るところに図書館があり、読書人が多く文運盛んであるということであったようだ。公益事業を考えていた佐平氏は、この時図書館を設立しようと決意したようである。 大橋図書館設立についての発表は、博文館創設15周年記念日と定められていたようであるが、館主佐平氏の病の為に、明治34年2月に高山樗牛の起草になるという「図書館設立の趣旨」が発表された。佐平氏は、工事の音を聞きながら明治34年11月3日67歳の生涯を終えたが、大橋図書館は翌35年6月15日博文館15周年記念日に開館した。 大橋新太郎と図書館
佐平氏は、工事半ばにして逝去したが、以後大橋図書館を大成したのは、嗣子新太郎氏であった。図書・雑誌の出版という博文館の成功を社会に還元する公益事業としての図書館設立を考えたのは父佐平氏であったが、その意見に全面的に賛意し、後自分が中心になって大橋図書館を育て上げて行く。新太郎氏は、明治35年5月父佐平氏の遺志又は自らの意志によって、金12万5千円を以て財団法人大橋図書館を設立したのである。12万5千円という金額は、大橋家資産の4分の1に相当するものであってという。以後、新太郎氏が生涯に渡り図書館のためになした寄付行為は次のとおりである。
大正12年9月関東大震災により図書館は類焼し全壊した。その復興を図り、金50万円を投じて大正15年6月に開館し、加えて金25万円を図書館の基本金寄付。昭和9月2月金10万円、昭和12年9月金2万8750円を各基本金に寄付した。又、昭和13年6月書庫増築及び設備改善のため昭和15年6月まで金15万円を寄付している。昭和15年の大橋図書館の資産は150万円に達したという。新太郎氏の図書館への寄付は、金円のみでなかった。古器物・貴重書の大半が新太郎氏の寄付になるものであった。このように新太郎氏の図書館の運営を大成させて行こうとする行為は、父佐平氏の遺志によるものであるが、同時に大橋家の事業として発展させなければならないという自身の強い決意によるものであった。大橋家には佐平氏(中興ノ祖)逝去の1ヶ月前に定められた[大橋共全会規約]なるものがある。いわゆる[家憲]である。その中に特に大橋図書館の章を設けて言う。 第9章 大橋図書館 第60条 大橋図書館ハ中興ノ祖奉公の宿志ヲ遂クル為メ左ノ趣旨(筆者注、図書館設立の趣旨のこと)ヲ以テ設立シタル者ナルヲ以テ大橋家ノ子孫ハ該財団法人ノ協議員ト共ニ永遠ニ其大成ヲ期スベシ云々 佐平氏生前における大橋家一門の誓いである。又、新太郎氏は、大橋図書館のみならず図書館事業一般に非常に理解を示した。博文館記念日等祝事のたびに各大學図書館へ図書購入費として寄付しているし、特に金沢文庫の復興には建築費5万円を寄付し、他に物品・備品等を寄付して復興を図り、県知事との「契約書」によって「神奈川県ノ経営トシ永久ニ維持スルコト」としている。 坪谷善四郎と図書館
坪谷善四郎氏は、新潟県加茂町の人で、東京専門学校(早大)の学生のころより博文館に勤務し、編集局長・取締役をも務めた。博文館・大橋図書館と共に生きた人である。
特に大橋図書館については『佐平翁の臨終の際に私を枕頭に招き、手を握って、図書館の事は特に君に頼むと言われた一言は、私の肺腑に徹し、終生念頭を去らず、随って私は爾来大橋図書館には、全身を捧げて居るのである』と記するごとく、新太郎氏は資金面の育ての親であり、坪谷氏は社会教育面としての図書館の育ての親である。 図書館を設立するには図書の収集をしなければならない。その収集を命ぜられたのが坪谷氏であった。牛込区会議員・東京市会議員という公職と多忙な博文館の業務の中で精力的に図書館の図書を収集し、博文館の3階に書架を設けて開館の準備をしたようで、開館当時の蔵書数は、和漢書3万余冊・洋書2千余冊であったという。 図書館設立当初の館長は、軍医総監であり、大橋家にとっては顧問であった石黒忠悳氏であったが、石黒館長が枢密顧問官に命ぜられたのを機会に坪谷氏が大正6年9月より館長となり、以来昭和19年まで努めた。 又明治34年より東京市会議員であった坪谷氏は、明治37年東京市立図書館設立を建議可決し、その開設に努めて明治41年2月より開館したのが現在の都立日比谷図書館である。建議可決より4年半の難産の市立図書館であったというが、その後明治42年より45年まで十数カ所に簡易図書館の設立がなされている。市立図書館設立の必要を感じたのは大橋図書館の利用者の多いのを見てのことであり少なからず大橋図書館が影響しているといえよう。又、大正天皇御即位礼による東京市への御下賜金の使途について、江戸に関する各種の文献を収集することを提案したのも坪谷氏であり、その資料は都立中央図書館が所蔵する「東京誌料」となっている。 なお、青年時代の苦学の思いから新潟県加茂町の郷里に町立図書館建設を申請し、長きにわたって図書・金品を寄贈し加茂町立図書館の設立が実現した。 大正12年の関東大震災は、大橋図書館にも大打撃を与えた。建物と共に8万8千余冊を焼失したのである。坪谷氏が「建物は22年も経て居る故、さほど惜しいとは思わぬが、図書については如何にも残念で其当座は寝ても眠られず、偶々眠れば夢にまで見て煩悶して居た」と記しているごとく精根込めて収集した図書・大事な寄贈図書の総てを焼失したのである。現在岩波書店の発行になる「国書総目録」中に「大橋」と所蔵館が記されているが、その図書はこの震災で焼失してしまった。従って、図書総目録の大橋本は「焼失目録」である。大橋図書館史には、人情本「春色籬の梅」という本が貸出中でただ1種残ったとあるが、震災後の整理簿中に焼残図書として再登録された図書は129冊であり貴重書と言えるものは何も残っていない。 その後の大橋図書館と蔵書
坪谷氏は、震災後精力的に図書の収集に努め、古本市に坪谷氏の顔が見えない日はなかったという。また、諸方より寄贈もあって約4万冊を以て、新築復興した図書館において大正15年6月15日再館した。その後の収集で昭和17年には蔵書数18万1千余冊に達し、この年創立40周年を迎えた。以後、太平洋戦争により閲覧者は減少し、職員は出征または軍需工場等へ、館内は銀行・統制会社等の使用するところとなり、又、空襲警戒の日々が続き自然と休館日が続くようになって行った。そういう中昭和19年5月5日大橋図書館の大成を願って援助を続けてきた大橋新太郎氏は82歳を以てその生涯をとじた。また、坪谷善四郎氏は博文館および手塩にかけて来た大橋図書館を去り昭和24年3月25日87歳の生涯を千葉県稲毛で終えた。
戦後の図書館
戦後はまた図書館へ諸会社が入り同居することとなった。大橋図書館の蔵書達は、昭和15年25万冊を収容する書庫を持ちながら18万余冊にして居場所を失い図書館を去らなければならなくなり館外へ分散保管されることになった。図書の搬出が始まる、自然と休館日が続く。そういう中、本家博文館主は昭和22年ついに公職追放となり、博友社・博文館新社が出版を継ぐが、博文館としては以後再起しなかった。
昭和23年8月『これまで一般図書館として経営して来たが今後は芸術・文芸・歴史に集中する狭くとも専門図書館として努力する。6千余冊の児童書は研究者のために公開する』由の掲示を出して開館したが、昭和24年9月図書館の建物は日銀への譲渡となり大橋図書館は館主大橋進一氏の本邸若宮町へ移転を開始した。本家の本邸と言っても図書館建築ではない。18万冊の蔵書を収容することは不可能であろう。図書は分散管理されてはいたが、昭和28年までこの地若宮町において開館を続け2月19日終焉を迎えたのである。大橋図書館最後の記録に言う[2月17日理事宅へ行く。大場君もあとより来る。館の経営者が西武へ移って人事関係を一新する。出納手は希望なれば西武へ行くが職員は一応止めてもらうとの事なり。/2月19日「閉館」図書及び什器運搬。理事来る。出納手3名に退職を命ず。]大橋図書館の職員は、多い時は45人であったと記録するが最後は職員2名出納手3名であった。何とも遺る瀬ない気持ちである。 大橋図書館蔵書達の行方
大橋図書館の蔵書は閉館時18万余冊であった。西武が引き継いだ蔵書も同数である。戦後分散管理されていた蔵書は再び一堂に会することができた。大橋図書館の閉館は実に悲しいことであるが、その蔵書達が分散される事なく大橋図書館の背番号(分類記号)を背負ったまま再会することが出来たことがせめてもの慰めである。現在三康図書館という図書館が東京都港区芝公園の一隅にある。図書館の紹介は省略するが、ただ、大橋図書館の蔵書全てを継承している図書館だということだけ記憶しておいてほしい。
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| 大橋図書館略年譜 | ||||
| 元 号 | 西 暦 | 月 日 | 大橋図書館の出来事 | 関連事項 |
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| 明治26 | 1893 | 博文館主大橋佐平氏出版事業視察のため欧米を巡廻。欧米の図書館の充実を目撃し日本の図書館設立の必要性を痛感する | ||
| 明治32 | 1899 | 10月11日 | 図書館令公布 | |
| 明治34 | 1901 | 7月26日 | 図書館敷地を東京市麹町区上6番町44番地大橋邸内とし起工 | |
| 11月3日 | 創設者大橋佐平氏死去(67歳) | |||
| 明治35 | 1902 | 5月25日 | 大橋新太郎氏亡父の遺志を継承し財団法人設立願を申請 第1回協議員会で、男爵石黒忠悳氏を図書館長に選出 |
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| 6月15日 | 大橋図書館開館 | |||
| 6月20日 | 大橋図書館44,540冊で一般閲覧を開始 | |||
| 明治36 | 1903 | 7月 | 奨学閲覧券を東京市15区内小学校尋常科5年以上の校長の推選による成績優秀者に贈呈。後東京府立各高等女学校等にも贈呈し、以後震災前まで毎年贈呈したと思われる | |
| 8月1日 | 日本文庫協会主催の第1回図書館事項講習会が大橋図書館にて8月1日から14日まで開催 雑誌閲覧室のみ夜間開館を実施(午後6時から午後9時) |
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| 明治37 | 1904 | 3月7日 | 坪谷善四郎氏東京市議会で市立図書館設立の決議案を提出し可決 | |
| 明治39 | 1906 | 1月29日 | 坪谷氏加茂町に加茂町立図書館を申請 | |
| 3月20日 | 東京勧業博覧会に出品。十数種の3考品を陳列し、2等賞を受賞 | |||
| 9月10日 | 図書館主事伊東平蔵氏東京市日比谷図書館主事に転任、後任に理事坪谷善四郎氏就任 | |||
| 明治40 | 1907 | 10月17日 | 日本文庫協会の機関誌「図書館雑誌」1号発行。坪谷理事雑誌発行委員となる | |
| 明治41 | 1908 | 3月 | 日本文庫協会「日本図書館協会」と改称 | |
| 明治41 | 1908 | 11月16日 | 東京市立日比谷図書館開館 | |
| 明治44 | 1911 | 1月6日 | 館外貸出を開始 | |
| 10月7日 | 第1回通俗教育講演会(一般向)開催(他に婦人、青少年向けあり。大正7年まで全9回開催) | |||
| 明治45 | 1912 | 4月1日 | 全閲覧室夜間開館開始 | |
| 大正4 | 1915 | 東京市立日比谷図書館児童のみ閲覧料を無料 | ||
| 大正6 | 1917 | 石黒忠悳氏館長を辞任。後任館長に坪谷善四郎氏が就任 | ||
| 大正7 | 1918 | 坪谷館長日本図書館協会の会長に就任 | ||
| 大正9 | 1920 | 12月 | 坪谷館長日本図書館協会の会長を退任 | |
| 大正12 | 1923 | 9月1日 | 関東大震災により本館及び蔵書約8万8千冊が焼失 | 東大・日比谷図書館等もほとんど焼失する |
| 9月15日 | 坪谷館長宅を仮事務所とし、主事鳥井熊一郎氏のみを残し他の館員は手当を給して一旦解雇する | |||
| 12月20日 | 坪谷館長『図書館雑誌』第50号に「大橋図書館の焼失」と題して掲載 | 日本図書館協会、全国の図書館に焼失図書館に対しての寄附を呼びかける | ||
| 大正13 | 1924 | 2月21日 | 図書館仮事務所兼書庫を設置(旧大橋図書館の残存する1階を修築し、24坪の書庫とバラック建仮屋1棟を設け、坪谷方の仮事務所をそこに移転) | |
| 6月30日 | 新館開館を待って集書した蔵書数が10,343冊となる | |||
| 10月1日 | 焼失跡の仮事務所にて図書の館外貸し出しを開始 | |||
| 大正15 | 1926 | 3月28日 | 新築の図書館がほぼ落成したので事務所を移転 | |
| 6月14日 | 安田善次郎氏(2代目)より先代の遺志を奉じ図書費5万円の寄附(「安田家寄贈図書」とする) | |||
| 6月15日 | 大橋図書館開館25周年の記念日に復興建築落成披露会を開催する。1階に児童室を設置(有料) | |||
| 6月20日 | 一般閲覧を開始 | |||
| 6月25日 | 第1回展覧会「古今変災文書と江戸沿革市街図」を開催(展覧会は以後10回以上開催) | |||
| 昭和2 | 1927 | 9月1日 | 児童室を閉鎖 | |
| 昭和3 | 1928 | 1月 | 日比谷図書館から竹内善作氏が迎えられて主事に就任 | 大橋新太郎氏金沢文庫復興に5万円を寄附 |
| 昭和4 | 1929 | 11月11日 | 地下に児童閲覧室が復興する(15歳以下利用) | 『日本十進分類法』刊行される |
| 昭和8 | 1933 | 8月13日 | 杉村廣太郎氏から亡児の記念としてその蔵書252冊の寄贈をうけ、「杉村兄弟文庫」とする | |
| 昭和10 | 1935 | 5月 | 『まあるい・てえぶる』(児童室の雑誌)を創刊(第16号からは『マルイ・テエブル』。昭和14年3月、第24号まで刊行) | |
| 昭和10 | 1935 | 6月17日 | 故江見水蔭氏遺族より大橋新太郎氏を介して江見水蔭手澤本を寄贈される | |
| 昭和12 | 1937 | 9月26日 | パンフレット『トピック』を創刊。(第57号からは『作業と設備』に改題し、昭和18年11月、第68号まで刊行) | |
| 昭和16 | 1941 | 4月10日 | 加茂町立図書館開館 | |
| 昭和17 | 1942 | 9月5日 | 大橋図書館創立40周年講演会・展覧会を開催 | |
| 昭和18 | 1943 | 5月11日 | 坪谷善四郎著『大橋図書館四十年史』発行 | |
| 昭和19 | 1949 | 5月5日 | 監事大橋新太郎氏死去(82歳) | |
| 昭和23 | 1948 | 5月25日 | 坪谷善四郎氏館長を辞任 | 6月国立国会図書館開館 |
| 9月 | 本館を進駐軍に供出、千代田区3番町22番地に移転し休館 | |||
| 昭和24 | 1949 | 3月25日 | 坪谷善四郎氏死去(87歳) | |
| 昭和25 | 1925 | 3月23日 | 新宿区若宮38の大橋進一邸に移転開館 | |
| 昭和25 | 1925 | 4月30日 | 図書館法公布 | |
| 昭和26 | 1951 | 4月1日 | 公共図書館無料となる | |
| 昭和28 | 1953 | 2月29日 | 大橋図書館は新宿若宮町において閉館となるが、その一切を西武鉄道株式会社創設者である堤康次郎氏が引き継ぐ 大橋図書館事務所を大橋進一邸から豊島区向山町1615の豊島園に移転 |
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| 昭和29 | 1954 | 5月 | 全国図書館大会で「図書館の自由に関する宣言」採択される | |
| 昭和32 | 1957 | 11月22日 | 財団法人三康図書館と改称 | |
| 昭和34 | 1959 | 9月 | 三康図書館、豊島園から港区芝公園に移転 | |
| 昭和39 | 1964 | 6月 | 西武鉄道株式会社と大本山増上寺の協力で財団法人三康文化研究所が設立され同研究所附属三康図書館と改称 | |
| 昭和41 | 1966 | 10月12日 | 約18万冊の蔵書で一般公開開始 | |
| 昭和54 | 1979 | 4月 | 明照会館に移転現在に至る | |