It seems to make a specimen.    






















 
   

 

 締め切ったカーテンの内側で閉鎖された空間では、時間の感覚が狂うらしい。
「f4ビショップ、b8。」
「えーと、f…b…あっ、ちょっまっ!!」
「待ったなし、チェック。」
 指示された通りに、盤上の駒を動かした先に待ち受けていたのは本日7回目の敗北だった。
「いい加減諦めたらどうだ、ハリー。」
 こちらに背を向けたまま、車椅子に躯を預けた子爵は小さく欠伸をした。懐から懐中時計を取り出して、文字盤に視線を落す。
「今日はこれまでだな。お茶の時間だ。」

 呼ばれる前から準備をしていたに違いないタイミングで、茶器が運ばれてきた。使い慣れたティーカップとは異なり、持ち手のついていないソレを受け取る。淡く緑がかった白地に墨や朱で描かれた柄は、ロイヤルウースターやマイセンとはまた異なる趣を持つ。
「また新調したのか。」
「気に入ったものは、さっさと手に入れる主義でね。
誰かさんとは違って。」
 砂糖も、ミルクも足さないその茶を味わいながら、憎まれ口を叩く姿は小憎たらしくて仕方ない。茶器の中で花を咲かせるそれは、見た目には麗しいが飲むには邪魔だ、と心の底で悪態をつく。
「邪魔してる当人が何を云うんだか。」
「と、いう事は、今日も全敗だったんですねっ」
 睨みつける様にして返答すると、その隣で少女がころころと笑った。
「ユリちゃん、そんな嬉しそうに云わないでくれない?」
「嬉しそうなんじゃなくて、嬉しいんです。」
 給仕の手を止め、いつでも使えるように用意してあったカメラに目線を移す。
「だって、私、アレ嫌いなんですもん。」
 若き子爵の屋敷には、貴族の館に良く見受けられるシノワズリとは少しだけ違った、しかしとてもその方向性が似た部屋がある。一般的には『シノワズリ』の一言にふくめられる部屋はしかし、徹底したジャポニズムによって統一されている。壁に飾られるウキヨエ、漆で塗られた家具、屏風にかけられたキモノ。その部屋の全ては、たった一人の少女のためだけにあつらえられている。
 『レディ・リリィ』そう社交界で噂される一人の少女。少なからず嫌味や蔑みをその内に含んだレディの呼称ではあるものの、その呼び方は同時に彼女が子爵の特別な人であることを表している。
 黄色人種の恋人なんて、実に酔狂なことだとは思うが、その魅力に取りつかれている身としては指摘も出来ない。
「そんな事いわないでさァ。ユリちゃんさえ頷いてくれれば、ウィルちゃんとこんな勝負しないで済むんだからー。怖くないって、ちょーっとじっとしていればすぐに終わる。」
「い、や、で、すっ。」
 幾度目かのアタックも、矢張りばっさりと切り捨てられた。
「オイこら。僕に勝つまで交渉すら禁止したはずだぞ。」
 挙句、子爵に睨まれた。
 実にもったいない。実に、もったいない。
 黒髪の絹に象牙の肌、薄い骨格、独特の顔立ち。この部屋を背景にして、彼女をモデルにしてシャッターを切れば、巷で流行している白人少女を使って撮られたシノワズリ写真とは、まったく違った素晴らしい写真が出来上がるに違いないのに。あんな写真は偽者だ。シノワズリの魅力は、そこに東洋人がいて初めて本来の輝きを放つ。それだというのに、何度説き伏せても少女はカメラの仕組みを解してくれず、主人は子供じみた独占欲を遺憾なく発揮し、チェスを戦いの舞台にしてこっちを完膚なきまでに打ち負かす。
 本当に、泣きたくなるくらい良いカップルだ。
「いいの。俺はあきらめの悪さが売りだからね。また口説きにくるよ。」
 ちゃっかり砂糖菓子をくすねつつ、カップをテーブルの上においてカメラを片付けに掛かる。予定の時間を二時間も過ぎていたことに気が付いたのは、御者に行く先を告げた後だった。


「お客さん、着きましたよ。」
 振動が止まり、声をかけられて漸く目を覚ます。ここ数日の睡眠不足が効いたらしい。降りた先はイースト・エンド。シリング硬貨をうけとった辻馬車はあっという間に霧に溶けた。
 先ほどまでいたザ・パークと、本当にここは同じ都市の中に存在している場所なのか。
 疑問を感じる程あからさまに格差のあるはずの街並みは、先ほどの馬車同様、ミルク色の視界に阻まれて今は良く見ることができない。空いている地面を全て埋めるように広がっていった貧民街は、慣れぬ者にとっては迷路でしかない。路地の隙間からぬらりと突き出て誘う腕に惑わされぬよう、手元のメモとてらしあわせながら、慎重に路地を選び奥へ奥へと進む。心なしか水分を含んだコートがじっとりと重い。馬車から降りる場所を間違えたか。そんなはずがない事を理解していながら不安になった頃に、漸く目当ての建物にたどり着いた。


 
「ボーフォート卿の紹介だ。」
 怪訝な顔で迎えた案内人に、知人の伯爵からの紹介状を手渡す。露骨に変わった態度に、彼に流したカロ型写真機も無駄にならなかったことを知る。
 変わり者の伯爵に紹介されたこの店は、高級娼館だと云うわけではない。
 同好の士の間では評判になっているこの店の売りは、いわゆる少女崇拝だ。少女娼婦自体は路上にごろごろしているが(確か先日見かけた少女は11で孕んでいた)、それとは比べる事自体が愚か行為だと噂になっている。その質の良さが、何によって支えられているのかは暗黙の了解ゆえ、店の側もそれなりに客を選んでいるらしい。
 案内人の顔に急に張り付いた笑顔に、薄気味悪さを覚えながらも店の評判が高いのは確かなのだと、思わず帰りそうになった足を何とかとどめる。
 室内は娼館のわりに装飾に欠けていた。シャンデリアがあるわけでもなく、落ちぶれたピアニストの奏でる音楽が流れているわけでも、ましてソファに紳士が集まり談笑しているわけでもない。
 薄汚れた壁紙はなんとかはがれる前の状態をかろうじてとどめ、ランプの灯かりも最小限の光量で室内を照らす。
 スコットランドヤードの摘発を免れる為の、最小限の知恵なのだろうか。入り口をくぐっただけでは、とても娼館にはみえない。
「ご希望は?」
「希望?」
 変わらない表情のまま案内人は頷いた。
 少女、という事しか頭においていなかったので思わず思考が停止した。だが考えてみれば評判の娼館なのだから、ある程度数がそろっているのも当然なのだと考え直す。さすがにいやしないだろう、と高を括りつつ、それでも発した言葉にはある種の期待がこめられていた。
「…それでは、黒髪の――黄色人種はいるか?」
 カメラを抱えなおしながら返事を待てば、案内人は例の笑顔を崩さないまま勿論だと答えた。


 くぐった扉の数は全部で4つ。扉を開け、薄暗い廊下を進み、急な階段を上り。案内された部屋の扉を開けた途端に、むせ返るような香りが出迎えた。案内人が耳慣れない、何か呪文めいた響きの言葉をかけると、シフォンらしき天幕からするりと袖がのぞいた。
 
 その時のことは、正直今でも良く思い出せない。
 
 覚えているのは、咽の奥にしみるような甘ったるい匂い、安普請にもほどがある床の軋み、そして其処に唐突に咲いたあの華の鮮やかさ。

 クリームよりも滑らかな色の肌は、控えめな露出でありながら中華風ドレスの襞の中でより輝き、蝋燭に照らされて艶を秘めた髪は結い上げられ、その上に大輪の飾りと真珠が踊っていた(真珠は贋物かもしれないが、そんなことはどうでもよかった)。伏せ目がちな瞳は切れ長で、長い睫に隠された黒玻璃は透き通り、暗闇の中ですらオリエントの光を湛えている。しゃなりと動いてこちらに伸ばされた指は無駄な肉が一切ない、少女のソレだった。
 どれくらい放心していたのだろう。案内人が扉を閉めるまでのほんのわずかな時間だったはずだが、彼女を目にしてから手をとるまで、ここに来た目的すら忘れていた。
 否。彼女に会うことこそが、目的だったに違いないのだ。

 そこにいたのは完璧な被写体だった。

 背景や小道具が、気に食わないことなど問題にもならない。理想の具現。俺が求める、少女の形。この世あらざるもの。世界とヨミとやらを繋ぐ道先案内人。美しさを今にだけとどめる華。

「動かないで。」

 カメラを急いで組み立てて、マグネシウムを炊く。ここまで光の入らない部屋での撮影した経験なんぞ、無いに等しい。露出時間もカンが頼りだ。
 それでも失敗するわけにはいかないのだ。撮りたいものが、俺が求めた永遠にのこすべきものが今ここにある。

「…………うごかないで、そう、じっとして。瞬きもしてはいけない。」

 なにも理解していないに違いない少女は、それでも俺の言葉に従った。
 俺の示したとおりに宙を見つめるその姿は、やはりユリに似ている。肌の色も、髪の色も。だがしかし圧倒的に違うものが少女にはあった。

 空虚。

 なにもないその表情。
 全てを受け入れる娼婦の顔と、何も知らないような少女との中間の、その表情。それこそユリが持たない、たったひとつの被写体としての欠点だった。
 時折、俺が惹かれた異国者特有の寂しさを感じさせる表情は見せる。だがしかし、ユリは愛されている。変わり者の子爵に愛され、庇護され、そしてなにより子爵を愛している。車椅子がなければ窓の外すら見る事が出来ない子爵に対し、献身的に尽くすその姿は、幸福に満たされている。

 それが、どうだ。

 目の前の少女のこの瞳!
 少女は全て受け入れるだろう。だがそこに喜びも、幸福もなにもない。
 なにもない宙を見上げる、この空虚こそ俺が求めていたこの世あらざる物だ。人を、どこかへ――暗闇へと、誘う悪魔だ。悪魔は美しいからこそ、可憐であるからこその生き物だ。だからこそ人は惹かれる。俺が長年撮りたかったのは、その写真。

 彼女は、悪魔になるだろう。

 俺の手によって、このファインダーを通して、綿火薬と、エーテル、アルコールの力を借りて、ガラス板に現される姿は、光に浮き上がる闇になる。人々は、この闇に惹かれるに違いない。どこまでも幻想的なそのシノワズリに、唯の流行の少女写真とは違う何かを見出すだろう。
 初めて東洋に触れた時から、俺が抱き続けた幻想が、今目の前にある。そして、俺の手で昇華されようとしている……!!

 呼吸を忘れる、とはこういう時に使う表現なのだ。失敗することがないように、露出時間を変えながら幾枚も撮り続けた。少女は困惑する事も、むずがることもせず(あたりまえだ、悪魔がそんな表情をするわけがない)俺の指示通りのポージングを保ち続ける。


 手持ちの乾板すべてを使い切り、同時に俺はベッドに倒れこんだ。
「もう、自由に動いても、かまわないよ…」
 安っぽいスプリングのベッドに手足を伸ばし、酷使し続けた目を閉じる。
「……あの、」
 そこで少女は初めて口を開いた。想像していた声より、少し低い。
「ん?」
「抱かないの、ですか?」
 小さく首をかしげると共に、さらりと髪がシーツの上に流れた。
「ああ……、いや別に。目的はもう果たしたからね。」
 慣れない被写体は疲労を伴う。この上彼女を酷使する気はない。そもそも俺は少女崇拝者ではあるが少女趣味なわけではない。
「え……?」
 彼女は初めて眉根を寄せた。当たり前だが、困惑の表情も出来るわけだ。
「何? 抱かれたいの?」
「……いえ、あの、いいえ、あ、違います…」
 きょとんと目を見開く姿が、あまりにも先ほどのソレと重ならない。一瞬本当に同じ少女か、と考えファインダーをのぞいていないとこんなものかもしれないと考え直す。そう思考回路を切り替えると、先ほどあれほど夢中になった姿が妙にアンバランスに映った。
「俺は写真を撮りたかったんだ。それだけだから、君を抱く気は無いよ。だから俺が買った残りの時間は休むといい。」
「……いいんですか?」
「あー、ごめん、もーだめだ。俺も寝不足でサァ。キンチョーの糸が切れちゃったからだめだー。」
「え、あの、ミスター……」
 少女の言葉を、手のひらをひらひらと振る事でさえぎる。
「ゴメンねー、俺寝る。」
 はぁ、と妙に間抜けな声が聞こえて。歳相応なのも、被写体としてでなければ悪くないと考えたところで意識は落ちた。


 目が覚めたとき、少女は横で健やかに眠っていた。
 これは、これで。この表情も、一枚欲しかったかもしれない。
 こちらが身動きするその気配で目を覚ましたのだろう。それは一瞬の顔だった。
「まだヒバリは鳴いていないよ。」
「ひ、ばり?」
「んーこっちの話さ。」
 起き抜けの少女には少し難しすぎるジョークだったかもしれない。ぼんやりと持ち上げる頭は、大きな髪飾りの所為で重そうだ。
「俺、お礼云わないで寝ちゃったね。」
「え?」
「ごめん、ありがとう。……君のおかげでずっと撮りたかった写真が撮れた、と、思う。」
 現像しないことには断言できないのが未熟なところだが。それでもその自信はある。あの写真は今まで俺が撮った写真の中でも最高の出来だと直感が告げている。
「本当にありがとう。」
 正直、それほど期待はしていなかったのだ。
 美しい少女娼婦がいると、ただそれだけの噂だった。だが、ここにいたのはそんな商品ではなかった。あの美しさを、あの儚さを、俺の手によって永遠に閉じ込める事が出来た。この喜びを、目の前の少女に対し言葉で伝えることはひどく困難な気がした。新聞記者失格もいいところだ。
「あ、そーだ。……これ、お礼。」
 上着から、昨日くすねてきた砂糖菓子の包みを手渡す。
 言葉が駄目ならせめて感謝の意だけでも態度で示せばいい。それが貰い物だというのは若干情けないが、こういった華奢な砂糖菓子はきっと少女は好きだろう。
「いいんですか?!」
 たいしたものじゃなくてゴメンねー。という俺の軽口に、小さな砂糖菓子を、まるでソレが本当に大切なものであるかのように抱きながら少女は大げさなほどに首を振った。
「ありがとうございます……」
「お礼を云うのはこっちなんだよ。撮りたかった写真が撮れる。これに勝る幸せはないね。」
 パステル色の砂糖菓子はひどく少女に似合った。ああ、もう一枚、この顔も欲しかった。そうちらりと考えた次の瞬間、その表情がわずかに曇る。
「あの……」
 少女は申し訳なさそうに小さな声でためらいがちに言葉を捜しているようだった。
「ん?」
「…しゃ、し……って何ですか?」
 …………ああ、そっか。
 こんな娼館にいる少女が、知っているような技術じゃないか。
「肖像画ってわかる?」
「はい」
「みたいなもの、を作る機械…?」
 思わず俺の言葉も疑問系になってしまったが、コロジオン乾板だの湿板だの、ダゲレオ型だのカロ型だの説明してもわかるはずがなく、それ以上の説明も俺には思いつかなかった。
「肖像画…?!」
「あー、もしかして嫌…だった?」
 嫌だといわれても困るんだが。最悪発表できず、日の目を見ないまま芸術が失われる事になってしまう。
「…いいえ! いいえ!!」
 だがそれはいらぬ心配だったようで、少女は顔をほころばせ頭を振った。あやうく華が落ちそうになる。
「……うれしいです。」
「……」

 なんだ。
 こんな表情もできるのか。
 花飾りも安っぽく見えるほど、衣装よりも華やかに。しかし、歳相応に。

「あー……。」
「?」
 もっと、乾板があれば。この瞬間も切り取って置けたのに。
「うん、また来るよ。」
「本当ですか?」
「うん。」
 部屋に光は差し込まない。ヒバリの鳴き声も聞こえない。それでも懐中時計の針は正確に夜明けを告げた。少女と一緒に入れる時間は、もうすぐ終わる。
「俺の安月給だと、何時になるかわかんないけど。きっとくる。その時は、焼いた写真を君に見せるよ。」
「楽しみに…しています。」
「来たら、また写真撮らせてね。約束。」
「……はい。」
 約束のしるしに、少女の額に口付ける。
 そのとき、長い睫が震えていたのは気のせいだと思った。



 数ヵ月後、すっかり写真を撮らせろと、せびらなくなった俺を不気味がる子爵家の二人にあの少女の写真を自慢する。既に俺の理想は具現化された。思い通り、あの写真は人々を魅了した。先日のコンクールでは絶賛の嵐だった。彼女は誰かとの問いに、俺はニヤニヤと笑いを伴った沈黙で返した。
 今度は、彼女で悪魔ではなく、堕ちる前の天使を撮るのだ。悪魔と対にして並べてみたいという欲求が湧いたのは、少女の寝顔を見た所為かもしれない。そしてもう一枚。今度は誰のためでもなく、彼女の為に、彼女のあの歳相応の姿を撮るのだ。
 意気揚々と、あの娼館へと足を運ぶ。
 ミルク色の迷路を奥へ、奥へと――。


「……いない?」
 あの日と同じか、違うのか。見分けはつかないものの、笑顔だけはそっくりな案内人はその一言で俺を突き落とした。
「そんなバカな話あるか! 黒髪の、黄色人種で、髪に大きな華をつけた……!! 俺は、あの子に写真を…!」
 なんど問い詰めても、返事はそんな娼婦はいない、の一言だった。
 呆然と娼館をでようとした俺に、小間使いらしきやせっぽっちの、枝のような少年が(黒髪なところだけ、彼女と似ていないといえなくもない)まがい物のいびつな真珠を一粒手渡した。

「アンタの探してる女、死んだよ。」

 それだけ告げて、少年は汚らしい建物に戻っていった。
 そういえば、俺は、あの少女の名前も知らないことに、そこで始めて気がついた。

 俺の手の中には、あの時閉じ込められた、少女の写真だけが今も残っている。

 でも、 俺の腕の中で微笑んだあの少女は、もう何処にもいない。






  FIN